前回の続きは
燃え尽いた畑には新しい作物ができるはず(燃え尽き症候群について) - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記 から。
燃え尽き症候群の考察についての続きです。
日本で縁あって臨床30年の先生を施術させてもらっていた時に、臨床して何年目だと聞かれて10年目だと答えた時に羨ましいと言われました。
自分の30年を振り返って臨床10年目ぐらいが一番勉強していたし新しい技も増えて充実していたと懐かしそうに仰っていました。今はあれほどの情熱はないそうです…
そう思うとやる気や目標というのは自分の意識次第であって、自分が選んだ職業や武器なんて関係なく、ただただ人生の双六において自分がどういう時にどういうキャリアを選んでどうもがくことになっただけのことなのかもしれません。
そういう経験をすることは自分の人生にとって意味があるからだという人がいるけど、個人的にその見方はとても嫌いです。それは自分の経験をいいように消化できた勝者の意見のような気がしてならないからです。
例えば、DVを受けて育った子供はDVを受ける意味があったって本人がその経験を振り返ってなら言えますが、他人がそう言える資格なんて全くないと思うんです。
DVを受けたことに意味があるなんてあまりにも残酷じゃないですか?
Aさんが過去にもう味わえないような仕事を達成したことに意味もないし、燃え尽き症候群を味わって苦しんでいることにも意味なんてない。
意味はない、けど、でも、意味を見出して欲しいなと勝手に思ったりもしてるのが人間のさがだなと思ってしまいます…
僕が今ロンドンで鍼灸師として働いているのは、以前のブログでも書いたように仕事で鬱のような症状に苦しんだからです。あそこまで苦しくなければきっと会社を辞める決断ができてないなぁと思います。親にも反対されたし、残業代だってきっちり出てたし…
Aさんには子供がいませんが、子供がいる方を羨ましいと言います。
「子供という存在のせいで自分の人生を犠牲に出来る(→自分の人生を生かす、人生の目的ができる)ことができる」からというようなことを言っておられました。
僕は36で子供を授かったが、Aさんの言っておられることはわかります。
先日も娘の体調が悪くなり救急病棟へ夜中に連れて行きました。それはとてもしんどいことですが、自分が責任を持った時間(=充実感がある)とも言えます。
結婚をしたかしないか、子供を持つか持たないか、ペットを持つか持たないか、同性が好きか異性が好きかなどなど。
それぞれどういう選択をしたか、自分がどういう出自を持つかで、その人の価値観は変わってきます。けど、その価値観をぶつけ合うことに意味なんてありません。
その個々人の価値観を完全にわかることなんていう、たいそれたは無理なんじゃないかと思うからです。
Aさんが今からどういう選択をするのかはわかりません。
でも、自分の人生が今つまらないし充実していないとしても、僕の経験から1つ言えることがあります。
それは「身体が元気な限り、気持ち、やる気を満たすことはできるんじゃないか」ということです。
クルーズ船で働いていた時に元メジャーリーガーという人を診せてもらったことがありました。
抑えの投手として成功を納めリーグ優勝も経験したという人で、阪神タイガースから来ないかという声もかかったと言っていました。
今は引退して保険会社を運営していましたが、その方の身体は40代にも関わらず、身体を触った感触(皮膚の組織とか皮膚の充実度など)が僕の身体のデータベースでは70代に近かったのをよく覚えています。
その方は数度しか船で診ることはありませんでしたが、お話しする中で燃え尽き症候群のような話にはなりませんでした。
「チームがピンチの時に俺がマウンドに上がって、チームを勝利に導いた時の興奮というのは本当にたまらない。アドレナリンの量も半端じゃないんだよ。マウンドから戻る時に女の子の濡れたパンティが降ってきた」と彼は言っていました。(本当の話です)
その方の治療経験を通して、象でもネズミでも心臓の拍動数が同じように、人間が生涯で使えるエネルギーの量って決まってるんじゃないかと考えてるようになりました。その方は通常なら70代までに使うエネルギーを40代までに使ってしまったからこそ、70代のような身体の感触がしたと思うんです。
偶然かもしれないけど、燃え尽き症候群の話をしなかったのは文字通りその人が燃え尽きてしまったからで(矢吹丈の最後ですね)、燃え尽き症候群とはまだエネルギーが余っているからこそ、自分の気持ちとの乖離を感じて無気力となっているのかもしれません。
身体にエネルギーが蓄積している限り、気持ちは切り替えられる。
そう信じていたいです。
季節的には夏なのにもはや気温は秋なロンドンでの、ある日に思った出来事でした。