五十肩の綱引きの視点
今日診た五十肩の患者さんについて。
何度か治療をして動きはかなり改善したにも関わらず、屈曲の最後がいかない。160度ぐらいから最後上に伸び切らない。
腋窩神経、肩甲下筋、棘上、棘下、大円、小円、大胸、小胸、前後上腕回旋動脈などなど色々自分なりにアプローチしたのだが、どうもうまくいかない。
治療している時に気になるのが、腕のポジションをセットして治療し始めると、かならず肘を曲げる姿勢に戻ることだった。
そして気づいたのが、彼は肘を伸ばすことができないということだった。つまり、上腕三頭筋長頭が短縮して、肩甲骨を常に外転、上方回旋方向に引っ張っているのではないかということだ。
そのベクトルのせいで、上腕骨が上内方に変位してしまうため、肩甲上腕関節の屈曲の最後でインピンジメントを起こしてしまうのではないかと考えた。
この答えが突然思いつき、三頭筋に遠心性収縮を加えたところ、最後の痛みが取り除かれた。
局所をばかりに目が行きがちだったけど、患者さんが無意識に行う癖を見極めたことで、どうにか良い結果を出せた症例だった。
土着のエッセンス
先日、イカゲームを患者さんの家でみせてもらった。エピソード1だけだったけど。
バトルロワイヤルに似てるらしいとか言われていたので、どんなもんなのかなぁと思った観たら、確かにそんな要素はあるかもなぁと思った。その一方で、韓国のアイドルに日本のアイドルも影響を受けたりしている。
つまりはお互い影響を受けあっているんだろう。
じゃあその影響というのは、違う文化圏でも及んでいるのかといえば、そうじゃない気がする。
イカゲームやバトルロワイヤルみたいな映画を違う大陸でみたことはない(あくまで僕の少ない映画体験の中でですが)例えば、アメリカやヨーロッパなんかで。
でも、アメリカやヨーロッパで世界的に評価されている映画の要素、映画の土台のなるエッセンスがでは東アジアの国で抽出されているのかと言えば、僕はそんなことはない気がしている。つまり、各々の地域の風習、価値観、宗教、文化、言語など諸々を吸い取って生きてきたことでしか抽出できない発想、着想、表現のエッセンスがあるんだと思う。
それは、世界中の人にとって共通の要素であるにも関わらず、土着のエッセンスを経たものでしか表現し得ないものでもあるんだろうな。
村上春樹さんの書籍は何かを訴えるから評価されて世界中の人が読むんだけど、じゃあ村上春樹さんの持つその何かを違う文化圏の人が表現し得るのかといえばきっと出来ないんだと思う。
日本人の娘が日本人夫婦のもとでイギリスで生まれ育つにあたって、上記のようなことを考える。
どれだけ日本語を教えたとしても、日本で長い間住まないとわからない感覚があって、そこはきっと理解できないし、そもそも認識すらできないんだろう。
僕もイギリスに来て6年目だけど、もちろん同じことが言える。
娘が漢字を読み書きすることができて、日本人が日本で抽出したエッセンスが盛り込まれた書籍や映画を浴びれば、どうなるかわからないけど、そこまで習得させられる自信はない。
どうなっていくのか、自分でも楽しみだ。
技術を正確に学ぶために
末梢神経を緩めていく時に、A先生は体幹に近いところから緩めいくべきだといい、B先生は手足に近いところから緩めていくべきだと言う。2人ともすごく勉強をなさっておられて、セミナーもやっておられるような、著名な先生だ。
どっちが正しいのか。どっちも正しいのか。
A先生が末梢ないし遠隔を意識して施術するのは、遠隔部が慢性化していて軸ずれを起こすことで、主訴の症状を訴えている場合。
神経とは関係ない例を出すが、鎖骨が骨折などで癒着することで肩甲上腕関節の屈曲の動きがスムーズにならず肘や手首の関節に過負荷が生じて痛みが起きた場合、肘や手首ではなく鎖骨にアプローチをする。
ただ、A先生は基本的に患部をまずアプローチして、そこがダメなら隣接関節、遠隔と徐々に範囲を拡大してアプローチしていく。
一方、B先生はまず表面に現れる末梢神経や末梢血管を遠隔からアプローチしていき、体幹へ収束していくやり方を取る。
関節や筋肉は神経で栄養されているため、末梢神経をアプローチすることで栄養障害が起きている関節・筋肉は(完璧ではないが)機能が戻る。
それを行ったのち、それでも取りきれない関節や筋肉にアプローチをかけていく。
例えば手首に問題があった場合、手首の筋肉を栄養している血管や神経をマニュピレーションして栄養状態をよくし、それでも残っている筋肉の硬結をほぐしたり、関節ならアジャストしたりして問題を解決させる。
(手首の筋肉がほぐれていても、まだ問題があれば、どの関節に問題があるかを把握してA先生のように鎖骨へアプローチをかけることはあるだろう)
どちらもアプローチとして正しいように思うし、最終的に問題に対してアプローチする場所は同じになっていく気がしている。
どうしてこの差を生んだのかといえば、A先生が理学療法士(PT)でB先生は柔整師、鍼灸師だと言うことだと考えている。
前者がPTで保険診療の時間内に対して、後者は実費メインなので保険診療よりも時間をかけられるし、実費の場合、保険診療よりもより明確に効果を実感してもらわないといけない。
その差がこれのアプローチの差を生んだように考えているが実際はわからない。
僕としては、患者さんの症状に対して、どちらのアプローチでより効果が出るのかを見極めてやっていくほかないと思っている。
とはいえ、ウェブ会員になっている園部俊晴先生の臨床講座の中で、「どの組織が問題となっているかが分かることが一番重要で、そのあとどうアプローチするかは人それぞれ」と確か仰っておられた。
確かに、何が問題かがセラピストで共有できれば、治療の考え方が違っていても共通で効いたかどうかが判断しやすい。
「治療技術より評価技術の方が圧倒的に重要だ。」とも言っておられたが、評価がきっちり定まる=どの組織が問題となっているかがわかることだ。
でも一方で、治療技術が技術として成り立つ理由を深く考えていくことも評価技術が上がると考えている。
どういう時にその技術を用いる→評価技術にもなるからだ。そうぐるぐる考えていった中で今思うのは、技術を正確に習得すること。
結局、正確でなければ治療効果も評価精度も期待できないということになる。
この「正確さ」。難しいなぁと常日頃思っているが、どうして難しいと思ってしまうのだろう。
大体のことは、思ってるよりなんとなく理解している。しかもなんとなくの精度って人によっても違う。
わかりやすいところだと、誕生日は日時がわかっても、四柱推命だと生まれた時間まで正確にわからないと、正確にはならない。
徒手療法において、「正確」がなぜ難しいかといえば、色々な感覚を統合しなければならないからだと思う。
例えば、ストレッチをするにしても、まず筋肉の起始停止を頭で覚えておかないといけないし、それを人体のどこであるかを、視覚、触覚で認識し、さらに動きとしてどのように動かすかを、筋肉の機能を頭で記憶しておかなければならないと同時に、動かす方向、手や身体の動かし方などなどを感覚を統合して行う。
それは曖昧でもできるが、正確に100点に近付けていこうと思うととても色んな要素が細かく必要になってくる。
書けば書くほど、自分が未熟だなと痛感してくるな汗
これと同じように、僕自身も技術も、知識、世の中のことも曖昧にしか理解出ていない。
そこを変えるには、(自分の状況、正確、行動パターンなど)自分自身を正確に地道に理解していかないといけないのかな。
それが技術を正確に理解していく一番近道のような気がしている。
プロになってますやるべきこと
ある分野でプロになった患者さんがロンドンに来た時に来院された時に、運動量が5倍になったと言っていた。
捻挫をしたらしいけど、運動量が5倍になったということは自分の動きの弱いところに5倍の負荷がかかってしまうということになる。
その意味で捻挫は実は(負荷がかかりすぎたことによる)結果なんじゃないのかなと思っている。
プロとしての動きが要求されるという意味で、負荷は心身共に5倍以上なんだろう。
どの分野でもプロになった初めにやるべきことは、身体の動かし方の徹底的な見直しなのかもしれない。
自分の動きの中でどの動きがやりにくいか、どの筋肉が弱いせいでやりにくいか。どこを怪我しやすいか、どこが見れていないか。
はたまた逆にどの動きがやりやすいか、それはなぜかを考えるのも同じ意味で大切だろう。
そこを徹底的に見直せるかが、プロとして長くまたいつまでも成長できるかどうかのポイントになるのかなぁと考えさせられた。
#ロンドンライフ #鍼灸
筋膜を/が 剥がす、離れる、緩める、緩まる
僕がいつもポッドキャストで聞いている大友良英さんのJAM JAMラジオで特殊音楽紹介家(改めて書くとすごい職業)の石橋さんと受けておられる治療について語っておられた。
そこで筋膜を剥がすと言うことについてお二人が話しておられたので、自分が今思うことを書いてみたいと思う。
(先日紹介しておられたno tonguesのアルバムはイギリスだとフランス経由でLPが買えた。関税とかかかって高くなったけど嬉しかった…)
筋膜について、僕は一度鶏を絞めて捌いたことがありその時の経験はここに書きました。
https://acupuncturistontheship.hatenablog.com/entry/2018/07/27/135256
https://acupuncturistontheship.hatenablog.com/entry/2018/08/06/134201
その時の経験や、自分の治療の経験から思うのは、筋膜は「剥がす」のが向いてる人と「緩める」のが向いてる人がいるんじゃないかなということだ。
僕自身が考える僕の治療の特徴は、患者さんの身体の性質や状態によって強い刺激と弱い刺激を区別して入れることだと考えている。
強い刺激の時は筋肉を意識して、へばりついた筋肉と筋肉の隙間を剥がしていく。筋肉の周囲を覆う膜が筋膜なので、文字通り「筋膜を剥がしていく」感覚。
一方でそれだと刺激が強すぎて受けられない人や、筋肉よりも神経や血管問題がある人の場合、筋膜を緩めていく方を選択する。
自分で書いといてなんだが、「緩める」という書き方は今の僕の感覚では正しくないのかもしれない。
前回、「末梢から体幹をほどく」の中で関節が制限されるギリギリのところで前後の骨(をメインに意識して)に揺さぶりをかけるやり方を書いたが、あれは効果が出ると、神経血管が「緩まる」ように感じる。
関節が元々あった場所に収まり、それによって他の組織も、事故が起きた道路が整理されるように、各々の組織の道が整えば自然に「緩まった」感覚になる。
だから「緩まる」とする。



カリブの砂浜たち。カリブ海には心が緩まる何かがあります。
話を戻す。
筋膜に血管や神経が入り込んでいるから、筋膜を剥がそうが緩まろうが、結果は筋肉が緩み、神経や血管が滞りなく流れるようになる。でも、筋肉と神経/血管のどちらに治療の重点を置くかで、治療の意味合いは結構変わってくると思う。
強い刺激はこちらから意図的に筋膜を緩める能動的な施術で、弱い刺激は相手の状態に合わせて待つ受動的な施術と言えるからだ。
実際、筋膜が緩まる施術をする時、僕の腕は触れた組織を受け止める筒(流しそうめんの竹(ただしもっと柔らかい)に近い感覚)や、どういう状態でも受け止めて底に収めてしまうボウルのような感覚であろうとしている。
一日中人を揉んだりしてて疲れないんですかと聞かれることがあるけど、一日中パソコンに向かってる方が疲れるし、何よりずっと同じことをしていると、自分の普段していることが細分化されて、言語化されていく瞬間があって、このことにどうしようにない興奮を覚えます。文章を書く人や音楽を奏でる人もきっとそういうことになんとも言えない興奮を覚える人たちなんだろう。
自分の身体を通してやれる事は無限にあるのに、それを通じて興奮したりするところは脳であってどんな人にも大差はない。そういう意味では人間はどんな人でも大した差はない。
話がまた逸れた。
お二人の話し方や声なんかを聞いていると、石橋さんはがっちり緩めていく施術が合っている気がする(身体が岩みたいに固そう)けど、大友さんはわからない。柔らかい組織をお持ちのような気もするけど、芯はがっちり固そうな気がする。時と場合によって変える方がいいんじゃないかなと勝手に妄想している。
コロナも落ち着いてきたし、いつかイギリスに来ないかな。来られるのでしたら是非ラジオで案内してください。
お待ちしています。
#JamJamラジオ #筋膜 #神経 #血管 #ロンドンで治療
末端を緩めて体癖を戻す
最近、「末梢から揺さぶりをかけて全身を緩めていく」「関節という制限の中で骨が自由に動く」ということが僕の施術における関心事になっています。
骨が身体の土台として存在し、関節は骨と骨とを繋ぎます。筋肉が骨と骨に付着する事で骨が動き、関節(及び周辺組織)が骨の接着剤としてその動きを滑らかにします。
肩、肘、手首、指と腕を分解して行った時、肩から順に骨は小さくなり、また骨の数も多くなります。(上腕骨は1本ですが肘から先は2本(尺骨と橈骨)になり、手首は手根骨といって8本あり、その先は指の骨が親指は3本、その他の指は4本となります)
その事実から考えるに、肩は体幹からのパワーを伝えていくことが大きな役割の関節として考えることができ、先になるに従い、肩から伝わってきたパワーを正確に対象物に伝えていくのが目的となると推察されます。
例えば「大根を切る」という行為を考えてみます。まず、背中ないし下肢から重力を押すことに対する反作用で生まれた力が肩を伝わります。
そこでは360度どこでも動かせる肩がまな板の上で固定されて力を送り、肘がその力をさらに斜め前に伝えつつ、捻りの力を伝え、手首と指が包丁の形に合うように骨の位置を変え、その力を対象である大根に伝えます。
肩は自分の力を伝えるだけの役割ですが指や手首は相手の対象に合わせて骨の位置を変える(対象物を持つ)役割を持つように、体幹に近い関節は「自分の力」を伝える(=能動的と言える)のに対して、末端の関節は対象物に合わせつつ力を伝える(=受動的と言える)と言えます。「本人」単位で考えた時、体幹→末端の流れは能動→受動の流れとも言えます。
本来、人間は様々な運動、行為をしてきました。洗濯物を干したり、食べたり、歩いたり。そのようなことを通して、対象に合わせて身体を様々に動かしてきました。
ところが最近は良くも悪くも、1日の中の行為が非常に限られてきています。料理をせずに外食をしたり、パソコンをしたり。
行為が制限されるということは、色々な行為を通して、体幹→末端、末端→体幹のやり取りがあったのに、その動きのパターンが減ってしまうということです。
つまり、能動→受動という形を通して私たちが外の世界に対して働きかけると同時に受動→能動という反作用を受け、自分たちの身体を外の世界に対して適応させてきたのが、パソコンやスマートフォンに向かう時間が増えすぎた為に私たちの体がすごく不自由になり、パソコンという形に私たちの身体を適応させるという外の世界の外圧が私たちの身体を形作るという現象が起きています。
「体幹→末梢=能動→受動」だったのが、「末梢→体幹=受動→受動」という図式になっているわけです。
今までもこういう形の職業というのは存在してきました。
料理人や金型職人、アスリート、僕たち治療家などいわゆる「職人」という範疇に入る人たちは、自分の力を伝えるという側面もさることながら、対象物を1日の大半触れて過ごすため、その対象物に合わせて身体が形作られていきます。
僕がどこかで聞いた金型職人の話ですが、ギックリ腰で来られた方の腰を治したところ、金型に対する感覚がわからなくなり納得のいくものが作れなくなった(痛みがなくなり時間が経つにつれ納得いくものがまた作れるようになったそうです)という話を聞いたことがあります。
ただ、僕ら職人とされる人たちとパソコンをずっと使っている人との違いは対象物からの情報の入力の仕方の違いです。
例えば、僕は基本的にベッドの上で患者さんをマッサージをするような時間が多いため、そのような骨格になっていきます。
基本的な形は決まっていますが、足、腰、肩、背中などは形がもちろん違い、パーツ、場所など状況に合わせて自分の身体も形を変えます。
料理人だって、魚もあれば肉、野菜もあるなど、手は微妙に形を対象物に変えています。
一方、パソコンに一日向かう人の場合、キーボードの中だけで指の形が成立し、目からの情報の入り方、距離感も基本的には変わることはありません。オンライン会議での聴覚情報だって同じところからしか聞こえてきません。
つまり、触覚も視覚も聴覚も情報が基本的に固定されています。

それを考えれば、職人的な職業の人よりも「末梢→体幹=受動→受動」とい流れが促進されざるを得ません。
人間は怠惰な生き物で、歳を重ねれば重ねるほど、自分が見たいものを見、聞きたいものを聞き、動くのが好きな人だけが身体を動かし、また、動かす筋肉だけを動かします。
そういう性質が備わっているので、入力を受ける情報がワンパターンだと、身体もワンパターンな形にしかなりません。
それをほどいていくには、マッサージによって筋肉を柔らかくしていくのも重要ですが、固定されてしまった末端の手や足の形を元に戻していく、固定された癖を戻していく必要があるように感じています。
筋肉は動きを作り出すことはできますが、動きを固定させることは苦手です。
癖を根本からほどいていくには、固定するために作られた組織(靭帯など関節周囲の組織)を緩めていく必要があるんじゃないかなと考えています。
つまり筋肉は骨と骨とを繋いで動きを作り出しますが、筋肉を使わない関節の動きというのも存在し、その自由を獲得させていく必要があると思うわけです。
具体的には骨や関節の動きの中で制限があるギリギリのところでアプローチをする(この形のままでは身体がどんどん固まってしまうよというメッセージを送っていく感覚)ことで形の記憶を薄めていくイメージで施術しています。
あるポジションを獲得する(パソコンの姿勢)為に筋肉が一定の形で固まり、それが骨にも影響を与えていく。
筋肉をほぐして一定の範囲内で自分の動きの自由を獲得できたとしても、その筋肉を使わない部分までが(筋肉が硬いのが恒常化して)固定されてしまっていたら、そこは筋肉をほぐすだけでは元に戻らないので、「自由な動き」の幅が制限されてしまうのではないでしょうか。
そんな気がしています。
上記のような考えから、手足の緊張をほどいていくことの大切さを最近よく思います。
YouTubeでとある先生が神経は末端をほぐす方が効果が出ると言っておられました。
神経は木のように中枢にあるものが末端に散らばっていく形をしています。
そのため、末端を刺激すれば中枢に届くし、(これは先生が言っていたかどうか定かではないのですが)中枢から距離があればあるほど、末端から引っ張った刺激がしなりを受けて中枢に届くのではないかという気がしています。
末端の神経に揺さぶりをかけて筋肉の緊張を落とし、「パソコンに向かうこと」に適応させていった身体を自由にさせていく。
まだまだ深掘りできそうな内容ですが、まだこれ以上は思索が及んでいません。
また何か考えがまとまれば書いてみようと思います。
#体癖 #手足の緊張 #末端
海外で育つ日本人の日本語の現実
僕の娘はイギリスで日本人夫婦の元で生を受けました。
彼女は日本で生まれた親を持ちつつ、イギリスで育っていくことになります。父親(僕)はコミュニケーションは英語でできるけど流暢と言えるレベルからは程遠く、妻はこっちで育ったので日本語も読み書きできるし英語も話せるような環境で。
2歳半になる娘をもって、最近日本語とか日本人とか日本っぽさについてよく考えます。
イギリスないし外国で生まれ育つ日本人(ないしハーフ)の日本語は、日本で産まれ育った人からすると想像できないと思います。


例えば、
1)衣服に関して全てを「着る」と言ってしまう。靴を着る、帽子を着る など。
2)男の子なのに女性言葉で話してしまう
などなど
それはどうしてだか考えたことはありますか?
1)は英語の場合、wear the hat, wear the shoes など、衣服に関してwearという単語を使います。そのため、その感覚で日本語を使ってしまいます。
その子にとって、靴は履くんじゃんくて着るだし、帽子は被るんじゃなくて着るものです。
2)はお母さんが日本人でお父さんが外国人だと、普段接する言葉はお母さんの言葉、つまり女性言葉となってしまいます。幼稚園でも学校でも日本語を話す人がいなければ、普段接する日本語はお母さんの日本語しかありません。
それだと、その言葉しか使えなくなってしまうのは当たり前です。
アニメで育った人がアニメ言葉で日常会話をしてしまうのと同じです。
こういった例からもわかる通り、海外で生まれ育つ日本人の日本語は彼らに悪気がなく、日本で生まれ育つ日本人からすると変な日本語になります。
でもこれは逆に言うと、日本で普通に勉強した外国語が現地の人からするとどうしても変に聞こえてしまうんだろうなとも想像します。

日本語の家庭教師をつけて日本で学ぶのと同じぐらい流暢な日本語を身に付けるか、はたまた最低限だけさせて日本語を勉強させないか…
イギリスに永住している日本人の親の間でよく言われることの一つに「イギリスで日本語を話せてもあまりアドバンテージがない」と言うものがあります。
たとえば、仮に日本語が話せたとしても勤めるのに有利になるのは日系企業のイギリス支社でしょう。
そこで現地採用の社員として働く場合、日本から来た駐在員からは日本語が話せるということでこき使われ、現地のイギリス人からは日本語も英語もできると言うことでこき使われるらしいとのこと。
これは結構よく聞く話で、よく言えば駐在の方と現地の方の橋渡し、悪く言えば両方からこき使われる、しかも給料は現地のままとなるそう。
イギリスの会社で採用されず日系企業でしか採用されなかったという見方もできるので仕方ないと言えばそれまでですが…
採用という観点で言えば、イギリスではなく日本で現地採用されて日本で働くことを望む人も多くいるそうで、それはイギリスの逆で英語がきちんと話せる人が少ない日本だからこそ帰国子女より英語が強い即戦力として日本では重宝されると聞きました。
日本で働きたいかどうかがネックになりますが、それさえ構わなければ、自分のキャリアと比較すればそれ以上の給料がもらえることもあるそうです。
ものは考えようです。
2歳半になった娘はまだ日本語を話し始めたばかりです。
そんなことを考えるのは早すぎるんじゃないかなと思う反面、今から考えて親としてどういうスタンスで接すればいいのかを決めるのに早すぎることはないのではとも思ってしまいます。
色んな患者さんに聞いていますが、答えはないというのが答えです。
どうしますかね…
#海外子育て #日本語 #海外永住
