リアリズムはリアリティから生じる。じゃあ治療というリアリティは?
蛤御門のヘンという角田龍平さんがパーソナリティをつとめるラジオで塩田武士さん(罪の声という小説が代表作)がゲストで出演されていて、平成天皇の肖像画を描かれた野田弘志さんの言葉を引用していました。(ラジオはポッドキャストで聞けます)
それが「リアリズムはリアリティから生まれる」という言葉です。
https://www.kbs-kyoto.co.jp/radio/hen/2020/10/hen_106180.htm
人の身体の治療法はごまんと存在し、また、そこに解答は今のところありません。(=解答がもし仮にあれば、それが流通している)
施術する人によって身体の見立ては違い、施術する人のフィルターを通して患者さんの症状と向き合うわけです。
私は施術する時に「自分の中のリアリズム(=自分の考え方)からリアリティ(=患者さんの症状への解決策)を模索していないか?」
といつも自分に問いかけます。
なぜなら、「リアリティはリアリズムの中にはない」し(事実は小説より奇なりと同義とも言えるか)、「リアリティはより細かいリアリティの中にある」と考えているからです。いくつもの腰痛のパターンから動きや癖などを通して、どのパターンに当てはまるかを絞っていきツボを選んだり施術方法を選んだりする。
その意味で、一つ一つのツボにどういう身体の変化があるかを地道に研究されてきた整動鍼があっているなと改めて思いました。
その一方で知り合いの先生から教えてもらったセミナーや私の先生の教えを通して「患部」に対しても最近考えます。
遠隔で患部が緩んだとしてもきっちり取りきれてないケースってあるんじゃないのかなということです。
遠隔で緩めて、患部もきっちり緩めることって案外大切なんじゃないのかなと。
「どれが絶対に正しい」ではなく、常に遊びを持ちながらいい意味でのいいとこ取りをしていきたいなと改めて思います。
最近読んだ「医道の日本」から。頭には2つの凹みがある。という観察は改めて触れるとそうだなと納得。
東洋医学ってリアリティの中にリアリティを求めた医学なんだと思うんですが、リアリティが先行し過ぎてるところもあるんじゃないかなと考えるところもあります。
特に脈と舌の診断はどこまでがリアリティでどこまでがリアリズムなのか。
元々リアリティから生じていても、リアリズムに気化してる側面もあるんじゃないのかな。
なんて思ったりします。