ロンドンの、船上の鍼灸師の日記

2012年から客船で鍼師として働いていましたが、2017年からロンドンで治療家として働いています。治療のこと、クルーズのこと。色々綴っていこうと思います。ウェブサイトはこちら。https://www.junjapaneseacupunctureandshiatsuclinic.com/

遊助は何を守ったのか。戸愚呂に勝てた理由。幽白その2

その1はこちら

幽遊白書その1、HUNTER×HUNTERとの性質の違い(主観) - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記

 

そういう意味で、暗黒武術会以降の話、つまり戸愚呂編と仙水編、あと魔界統一トーナメント編は終わり方がいいなぁと思うんです。(HUNTER×HUNTERのキメラアント編もたまりませんが)

戸愚呂兄(以後、戸愚呂)は自分が最強と思っていた時に、妖怪に弟子を惨殺されてその時の自分を責め続けて妖怪になる決意をする。彼は妖怪になり老いを止めて、強さを求め続けていく一方、格闘仲間の幻海は老いて弱っていくことは仕方ないという考えでしたが、そういう考えを持つ幻海の弟子の遊助に最後倒されます。(戸愚呂は弟子を惨殺した敵を以前に出場した暗黒武闘会で倒し、その望みとして妖怪に転生しました。)

 

目の前で殺されたことを責め、強さをずっと追い求める一方、どこかでその虚しさというか強さを求めるという答えのない疑問に誰かに終止符を打って欲しかった。自分が強くなること、なってしまったことに対し、それを相手(敵)にも求めるようになっていきます。

遊助は桑原が殺されることで、自分は強くなるために全てを捨ててもいいという戸愚呂の価値観に自分がついていけないことに気づき(彼はどこかで戸愚呂に憧れていました)、自分の中に眠っていた力を解放することができ、戸愚呂を倒しました。

遊助は言います、「オレは…どこかで、あんたに憧れてた」「あんたが捨てたものの重みが…ようやく…わかりかけた」「オレは捨てねー!!しがみついてでも守る!!」「もう誰もお前に殺させねー、そのためにテメーを倒す!!」(コミック12巻参照)

 

この言葉の後に遊助の眠っていた力が解放されて倒すわけですが、ここで疑問に思ったのが、遊助が守ったものって何だったのだろうということです。

戸愚呂と比較して考えてみると、彼が自分の人間としての生を捨てて(妖怪になると寿命が人間とは比較にならないほど長くなる。漫画に寿命が書かれてあったかどうかは覚えていません)、妖怪になることで強さを手に入れた。

遊助は自分の人間の生を捨てずに、老いることを肯定し、生が死に向かうことによる人の生の儚さであったり脆さが逆に強さを生み出す(=つまり老いるからこそ、今ある力を最大限に使い切る)、それを守ったのかなと思いました。それは幻海と桑原が死んだ(実際は死んでいなかった)ことのショックがそうさせたこととも繋がってきますね。

戸愚呂が死を放棄することで求めた「力」と遊助が死を肯定することで生から生み出される「力」がぶつかり、遊助が勝ったわけです。

 

と、ところがなんですが、ここまで書いて後々のストーリーで矛盾が生じてきます。これは僕も今回のブログを書いて、考えを整理するまで全く気付きませんでした…漫画を読んだことがある人はわかると思いますが。

 

続きはこちら。 

戸愚呂が否定した価値観をなぜ遊助は肯定したのか 幽白その3 - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記

 

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幽遊白書その1、HUNTER×HUNTERとの性質の違い(主観)

 僕が日本からロンドンまでわざわざ持ってきた漫画は6つあります。(もっと持ってくる予定ですが)

本棚にあるのが「陰陽師」「レベルE」「幽遊白書」「さよならも言わないで」「HUNTER×HUNTER」「ホムンクルス」です。半分が冨樫義博さんで偏りすぎだろうという話もありますが、僕はその中でもやはり幽遊白書が好きです。

何回も読み込んだ結果、僕は10巻からだけ持っていて、それはなぜかというと、そこら辺から単純なバトルものから少しずつ一線を画していくからです。

 

僕はドラゴンボールはそこまで読み込んでいませんが、だいぶ前に通して読んだ時にこの物語は「悟空がただただ強い相手と闘う、それが自分の生きる意味なんだ。」と確信をしていく物語なんじゃないのかなと考えていたことがありました。

それは初めに強い敵が来たら小さい悟空は死ぬし、そういうことってバトルものではありがちな矛盾なのですが、ドラゴンボールに詳しい患者さんに悟空が闘うことに関して考えるシーンがあったのか聞いてみたところ「オラワクワクするぞ」と言うコメントがメインだが、セルと闘った後に「自分がいるから強い奴らが現れる」という意味深なコメントを残していたそうです。

 

それはさておき、今回は齢36歳のおじさんの僕が改めて漫画を読み返して考えたことを書こうと思います。まずは幽遊白書から。設定などは説明し出すと長くなりすぎるので、興味がある方はこちらを参考になさってください。幽☆遊☆白書 - Wikipedia

未だにHUNTER×HUNTERは続いていますが、改めて両方を読み返した時に感じるのは、幽遊白書の方が内省的なストーリーになっていることです。敢えていうなら、HUNTER×HUNTERがサスペンスで幽遊白書がヒューマンドラマというか。

訳がわからないと思うので説明を加えると、僕個人の中で、サスペンスって「人が死ぬ」ことで展開するなと思うんです。その「死」という、もう過去には引き返せない事柄を巡り、どうしてそのことが起こったのかを読んだりすることで読み手の感情を揺さぶるわけです。

でも、死んでしまったら、なんというか、ある意味そこで終わりじゃないかと僕は思うんです。人ってそんなに簡単に死なないと思うし、ブログでも書きましたが、鬱っぽかった時に死ぬ以外に方法はないと勝手に思いつめて、急なS字カーブに自転車で毎日突っ込んでいましたが、中々死ねるもんじゃありません。

 

そこに至るまでに感情がとても揺さぶられることはあってもその後の余韻は残らないというか、僕の中で死を選ばせるのは「作り手にとって無難な手を選んだ」そんな気がします。

その一方で、ヒューマンドラマの特徴は人が死なない。(もちろん死ぬこともありますが、あえてサスペンスとそのように区別してみます)そして、その死なないことによって、物語が終わらないので登場人物の心情がズンと心に響くことがある。

そういう性質の違いが両者にはないかなと考えています。

 

続きはこちら。

遊助は何を守ったのか。戸愚呂に勝てた理由。幽白その2 - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記

 

戸愚呂が否定した価値観をなぜ遊助は肯定したのか 幽白その3 - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記

 

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これ何回読んだかなぁ。1993年発刊なので、もう25年以上前ですね。

未だに僕は読んでしまいます。

ゴーストタウン化したロンドンと時間が増えたのに全く足りないと感じる自分自身と

ロンドンは今ゴーストタウンのようです。

先々週ぐらいから不要不急の外出はやめるように勧告が出て、今週からついに私が勤めているマッサージ、鍼灸施術を行うクリニックも閉まりました。

自営の治療も休まざるを得ない状況になり、ここ1週間近くは仕事をすることなく基本家で家族と過ごしています。

 

日本がお花見をしたり、患者さんから電車は満員だという話を聴くと日本は本当に今のような対策でいいのかな、本当にコロナウィルスの感染者ってあんなに少ないのかなと勘ぐってしまいます。

それぐらい、ロンドン(きっとイギリスのそれ以外の都市はもっと酷いはず)の街は郊外も含め人気がありません。

 

それはさておき、じゃあ基本家に居ることになると自分の時間が増えるはずなので色んなことができるはず!と思っていたのに全然時間がない。1日1時間ぐらいは本が読めていますが、もっと時間はあるはずなのにどうしてなんだ!と思い、どうやって時間を消費しているか考えてみました。

 

考えた結果、子供と接する時間が大幅に増えていました。前まではクリニックへ週3回行っていたので、9時半ー20時まではいなかったですし、それ以外にも出張や自宅で診ていたので、1日1時間も接していなかった日がありました。それが今では基本ずっと一緒にいるわけで、今までいかに子供と一緒に時間を過ごしていなかったかを通過します。

子供といる時間は自分の時間のようで全く違うので、何かしてるようで何もしていないもどかしさがあります。

今まで自分中心で生活をしてきて自分の思うように時間を使ってきたのが、子供といるとそれができなくなる。勉強もしたい、映画も観たい、漫画も読みたい。世の中にはすでに自分の人生を全て文化に費やしたとしても、それを上回る量の文化の遺産があります。

 

子供が生まれる前は、あんなにライブや映画館に行っていたのに、どちらも行けていません…子供の成長する姿を見れれば何を犠牲にしても…なんていうのは、未だに僕は思えず、それなら自分の好奇心を満たしてくれる何かに接していたいという欲は消えません。

 

大人になると欲がなくなっていくといいます。高齢者になると同じものを食べる傾向が強いなと感じていますが、それは欲がなくなっていることの例だと思いますし、逆に言えば、それは自分の時間を自分の欲のためではなく、子供など人のために使えるようになるための人間の動物としての自然なプロセスなのかもしれないな。その一方、マーケティングという言葉が流行る中、私たちの脳を刺激しようとする業界は発展していくなら、僕の欲はいつになればなくなっていくのだろうか…

ずっと刺激を求めている気がしてなりません。

 

歳を重ねるにつれ、新しいものに挑戦したいという欲が消えていくのかな…と思うと寂しくなりますが、そんなことより目の前に子供がいるとそんな悠長なことも言っていれません。

 

子供と接しながら、いかに自分の欲を刺激できるか。それが僕の至上命題です笑

 

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こんなイベントはもうありません…

  

私の治療の特長

1.鍼とマッサージを組み合わせることで効果を最大限に高める
私はイギリスでは数少ない、日本で鍼灸と指圧師の両方の国家資格を持っている施術者です。(マッサージはしてるけど、鍼灸の資格しか持っていない人の方が実は多いです)。その特徴を活かし、治療の効果を最大限に発揮するために両方を組み合わせられます。
例えば、手では取りきれないコリを鍼で取り除き、柔らかくなった箇所と他の箇所とを調和させるためにマッサージを取り入れます。そうすることで深いコリをほぐしまた、それが長続きさせることができます。

 

2.人体の構造と生体力学(動き)から痛みの原因を取り除く
私は患者さんを治療するに当たって、まず身体の構造や動きを分析します。
私は痛みは原因ではなく様々な要因による「結果」だと考えています。
違う箇所にも書きましたが、あなたの過去(病気、怪我、手術)や今(趣味、健康状態、癖)、無意識の習慣や性格などがあなたの身体を作っています。それを丹念に紐解いて、あなたの症状の緩和に繋げます。
整動鍼の説明にも詳しいことを書いたので、ご参照ください。


3.鬱に苦しんだ経験
会社員時代、私はストレスと鬱に苦しんでいました。動悸で何度も目覚めたり、自転車で急カーブをわざと突っ込んだり、笑えなくなったりしていました。
その時に受けた鍼が私の人生を救ってくれたと考えていて、その状況から脱するためのエネルギーをくれたと心から思っています。
もし似たようなことで苦しんでおられる方がおられたら、ぜひ私にサポートさせてください。いつか、底が来る日がきます。
ブログにも書きましたので、よければ読んでください。

 

鬱だったのかという時期を振り返ってー最終回。会社に復帰をして。

その1〜3はこちら

鬱だったのかという時期を振り返ってーその1。鬱から回復した人に鍼を受けたいか。 - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記 

 

鬱だったのかという時期を振り返ってーその2。鍼に出会うまで。 - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記

 

鬱だったのかという時期を振り返ってーその3。会社を逃げ出したこと。 - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記

 

前回書いたのが、会社を飛び出して、滋賀から大阪の堺まで向かったものの途方にくれて警察へ保護されに出頭したのが論文提出前日の日曜日のこと。

 

僕は月曜日の論文提出の日に会社を休みました。噂では会社が騒然となったらしいです。親が会社へ連絡したのかは忘れました。

月曜日か火曜日の夜に両親と食事へ行きました。この後どうすればいいのか検討もつかなかった中で父親が言ったのは「ここで会社を辞めるな。」と言うことでした。

それに後を押されて、僕は翌日だと思いますが出社しました。どういう挨拶をHさんにしたのかは覚えていません。無視されていたような記憶があります。

ただ、論文の指導教官は彼が外れて、僕と課長とでやることになりました。

もちろん夜中までかかることはありましたが、論文は無事に提出(と言っても、課長が殆ど作成した記憶があります)して1年目の大イベントは終わりました。

 

それでまあ、H氏との関係は一応ひと段落するかと思いきや、相変わらず僕とH氏との関係は論文を逃げ出す前の段階に戻り、5時間以上怒られ1日もメールが送れない日々は続きました。

その一方で僕の東洋医学鍼灸に対する想いは募っていき、週末の休みはお世話になった鍼の先生の師匠の治療院へ見学に行ったり、勉強会に参加するようになりました。

 そして論文を出した翌年の3月に会社を辞め、4月から鍼灸師あん摩マッサージ指圧師になるために学校へ通うことになりました。

有給はほとんど使っていなかったので、全部使わせて欲しいと言ったら何を抜かしているんだと言われたり、最後の出社日もすぐに終わって家に戻れるのかなと思ったら、Hさんはなかなか帰らせてもらえなかったのも覚えています。


僕が鬱だった時にどういう風に鍼灸に救ってもらったかを改めて書こうと10年以上ぶりに記憶を思い返して書いてみましたが、やはり会社を逃げ出した日のことは殆ど記憶がなく、また逃げ出すまでの数ヶ月は精神的に本当に辛かったです。思い出す各シーンは自分の感情も含まれているせいで苦しく、途中で書くのも嫌になるほどでした汗

 

結局自分の思い出を消化したいためだけに、この日記を書いたのかもしれません。

でも、自分が鬱だった時に鍼に出会ってなければ、あの時どうなっていたのかなと思うことはあります。

会社の同僚にも話しづらかったし、親やその時の彼女にも自分のことを言いにくい中、治療師という他人(他人だけれども、肌に触れられることをこちらは許した人)にしか気や心を緩められないことってあると思います。

 

もし色々悩んでおられる方がおられたら、お金はかかるけれどもそういう距離感の存在に頼ってみるのもありなんじゃないのかなというメッセージも込めて書きました。

もし治療費は高いというのなら、宗教に救いを求めたっていいと思います。(ただ、周りの人に強要しないでください。)

 

お互い、悔いなく生きれるようにしましょうね。

読んでいただきありがとうございました。

 

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これぐらい無為自然な心持ちになれるように@フィレンツェ、2019

 

鬱だったのかという時期を振り返ってーその3。会社を逃げ出したこと。

その1、2はこちら

鬱だったのかという時期を振り返ってーその1。鬱から回復した人に鍼を受けたいか。 - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記

 

鬱だったのかという時期を振り返ってーその2。鍼に出会うまで。 - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記

 

僕が務めていた会社は入社1年目の期末の3月に論文を提出し、プレゼンをしなければなりません。

上司と1年目がゼロから課題を設定し論文を書き上げるため、それは新入社員のみならず直属の上司にとっても一大事でした。

 

理系の人は課題を作りやすく成果もまとめやすいのかもしれませんが、文系はなかなか課題を策定しにくく、論文としても書き上げにくかったのを覚えています。

僕の場合は、担当していた製品の世界拡販戦略という壮大なテーマでした。この論文を書き上げるにあたって、僕にとっては大きな出来事がありました。

 

正直、論文提出までの最期の半年間の記憶はほとんどありません。ただ、毎日遅くまで残ってメールを書いたり、論文を作成したりしていました。鍼も受付時間に間に合わないので受けられないし、悪循環となっていきます。

精神面の方はどんどん悪くなっていくばかりで(苦笑)、その1にも書きましたが自転車に乗っている時に毎日S字カーブに直進したり、怒られている間ひたすら下を向いてました。

もちろん、笑えない。笑うのがしんどい。感情が身体から出てくるのがしんどく、感情に浮き沈みがないよう必死に生きていました。

 あと、どうしてかはわからないのですが、とりあえず怒られてる時間を短くしたいという思いと、その場から逃げたい一心で、上司の質問に対して嘘をつくようになってました。

 

すぐバレる嘘とわかっていても、もうその場にいるのが嫌で嘘をついてしまうようになってしまってた。本当にどうしてかはわかりません。これ嘘ついてるよなと客観的にわかるし、これをつくことでまたもっと怒られるよなぁと心のどこかでわかっているのですが、もう2、3個手先を考える余裕が一切ありませんでした。

Hさんが怒っている中でちょっと冗談を言っても、口角を上げて笑うのがきつくて全く笑ってなかったな。他の鬱の人もこういう状態があるのでしょうか。

 

そういう日が続く、ある日曜日。確か翌日の月曜日が論文の最終〆切だったように記憶しています。

論文は何十回も何百回も書き直すもほとんどできてなくて、もう、なんともどうしようもない状態でした。

日曜日ですが出勤してHさんと2人で論文を書き上げていましたが、夕方になって「もう俺は帰る。あとは好きにしろ。」と突然の放棄宣言。彼は僕を置いて帰りました。上司と入社1年目の2人での共同さ御意じゃなかったっけ…???

その時の愕然とした気持ちは今でも忘れません。人ってこういう風に人を置いてきぼりにして、人を絶望させることってあるんですね。

 

彼が帰ったあと、どうしたらいいのかわかりませんでした。本当に文字通り頭が真っ白です。

目の前にある課題は終わっていない、論文の提出は明日。何回も書き直したのに上司からはダメ出しをくらい、そのダメを出した上司は帰った。

軽いパニックが起きた僕がとった行動は「会社を逃げ出す」ことでした。(ここから断片的にしか記憶がありません。。。) というより、それしかないと言う思いに襲われました。

 

工場は駅から歩いても30分以上かかったはずなのですが、その駅からJRに乗って滋賀から大阪へ。

会社でパニックになった瞬間と、電車で外を見ながらどうしたらいんだろうと思ったのは覚えています。

姫路まで向かえるその電車で過呼吸に襲われてとりあえず大阪駅でおりました。そこからどうしたらよいか分からず、ひたすら南へ向かって歩いて行きました。

そして気づいたら堺まで来ていました。(さっきグーグルマップで調べたら3時間かかるそうです。) 夜はもう真っ暗でした。夜道の上に街頭が照っていたのを何となく覚えています。

「どうしよう、どうしよう。」不意に我に返って、言いようもない不安に襲われました。心の底にあるこの後どうしたらよいかわからない不安が身体の外に吹き出し、泣け叫びながら道を走る。そしてまた我に返り、どうしようもなく不安になる。これを確か何度か繰り返していました。(側から見たら気狂いですね…)

 

それを繰り返して、僕はもう本当の本当にどうしたらいいかわからなくなり、どこかにあったビジネスホテルをとりました。その部屋でベッドにうずくまりながら、どうしようか途方にくれていたのは覚えています。

そして、不意に「警察に保護されに行こう。」と思いつき警察へ行きました。自分の状況をどう説明したのかは覚えていません。ただ、警察員が親に連絡をとってくれました。

 

この時のことは両親に聞いたことはありませんが、実家から堺までの片道1時間を彼らはどういう思いで迎えに来たのかなと思います。

それで家に帰り着いたのが、明け方の3時か5時だったように思います。会社を出たのが夕方だったので、それから10時間ぐらい。僕は保護されて実家に戻ってきました。

雨戸が閉まったドアにもたれたまま、眠れずにずっと目を開けていた気がしています。

 

次回に続く。

 

最終回はこちら 

鬱だったのかという時期を振り返ってー最終回。会社に復帰をして。 - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記

 

f:id:acupuncturistontheship:20200310004206j:image この時はこれぐらい人生に荒波が…

 

 

閑話休題、雲ばかりのロンドンとオレンジのように太陽が眩しいバルセロナと

今、所用でバルセロナに来ています。

ここしばらく雨と曇りが続くロンドンからバルセロナに降り立った時、「あ、僕は太陽に浴びていなかったんだ。」と痛感しました。

この感覚は自分が意識的に感じるというより、本能というか無意識に味わうものでした。「パッと花が開いた」感覚かなと何となく思って、でももう少し実感のある言葉にしようと考えていたら、「植物が太陽が感じる方向に向かって茎を伸ばす」、あの感覚に近いんじゃないかと思いました。 


それは脳で感じるというもにではなく、脳や神経など感覚というもの以前の、植物であった頃の記憶からの悦び(植物に悦びなんてあるのかもちろんわかりませんが、バルセロナに着いた時に味わったあの太陽に対する悦びは植物のそれときっと通じるんじゃないかと思う)に起因する気がします。

ロンドンで生活していると、10ー11月の冬至に向かって日々日没が短くなっていく時が、1番精神的に堪えます(住んでいる人ならわかるはず…)

自営に切り替わるための自分なりの再スタートの気持ちを込めて、鬱になった頃のブログを書いていますが、ロンドンのあの季節がそうさせてくるのかな。

バルセロナにいるとああいうテイストの文章は書くのがバカらしくなる気がしてきます。


人は技術を発達させて自分のライフスタイルに自然を適応させてきても、やはり自然には叶わないしコントロールされているなと思うロンドンの冬とバルセロナの太陽でした。

 

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休みを利用してアンドラ公国へ行ってきました。何もなかった首都でしたが、アンドラの硬貨がお土産になりました。