遊助が否定した戸愚呂の価値観をなぜ肯定したのか 幽白その3
前回まではこちら。
幽遊白書その1、HUNTER×HUNTERとの性質の違い(主観) - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記
遊助は何を守ったのか。戸愚呂に勝てた理由。幽白その2 - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記
前回の最後に「妖怪となった戸愚呂が死を放棄することで求めた「力」と遊助が死を肯定することで生から生み出される「力」がぶつかり、遊助が勝った。」と勝ちました。
つまり、遊助は妖怪を選んで力を求めた戸愚呂の価値観を否定したわけですが、この戸愚呂との闘いの後に展開される仙水編で仙水と遊助が戦っている最中に、なんと、遊助は妖怪になります…
遊助のずっと前の先祖は妖怪で人間と交わった時にできた遺伝子が数十世代もの隔世を経て受け継がれる魔族大隔世という現象が、遊助には起きていて、仙水と戦い一度死んだ後に、妖怪となって甦るのです…
これ、どう考えれば、いいんだろう。どうして作者はそういう設定にしたんだろう。自分の妄想をベースに考えています。僕は戸愚呂のトラウマの浄化がここで行われたのかなと思いました。
目の前で弟子を惨殺されて二度とこのようなことが起きないようにと人間から妖怪に転生し、戸愚呂は自分の強さを求め続けたわけですが、自分の強さを求め続けても、もはや人間界に彼に匹敵する力を持つ相手がいなかった。
それは結局、生は死に向かっていくからこそ、その時に持てる力を出し切れた人間の遊助に倒される。(死までが長すぎる妖怪はそういう概念がないのかもしれない)
でも、そういう価値観を持っていた遊助が妖怪に転生することで(=死んでしまうからこそ発揮できる力の否定)、死なないことを持って弟子たちの死を償おうと決意した戸愚呂の無念が初めて浄化されたように感じます。
戸愚呂は冥獄界という、地獄の中でも1番の過酷なもの自ら選びます。
コエンマは戸愚呂を霊界から見送る時に、「たとえ優勝して(弟子たちを惨殺した)敵を討っても自分自身の中で罪の意識が消えなかったのだろうな。それからのヤツの人生は償いというより拷問だ。強さを求めると自分を偽って…」と述べていました。
この償いの意識が消えた時に、遊助は妖怪に転生したんじゃないのかなと思っています。
ストーリー上、仕方なく編み出された結果なのかもしれませんが、そうであってほしいなという思いを込めて。
仕事も出来ず暇なので、幽遊白書について書こうかなと思ったら、とても長い文章になりました。
お付き合いいただきありがとうございました。
幽遊白書に関してはまだ書いてみたいことがあるので、いつか書いてみようかと思います。