治療家は僧侶と医者の間にいる その1
私が初めて本格的に東洋医学の勉強をさせてもらったのは、鍼灸の学校に入る前に会社員をやっていた時です。
入学を夏に決め(会社には年末に言った記憶があるので、その頃は会社員を続けていました)、平日は東洋医学の辞書を片手に東洋医学の入門書を読んでいましたが、実践経験を積みたくて、私が鍼でお世話になった先生の師匠に当たる方を紹介していただきました。
考えてみたら、先生はよく自分の師匠を紹介してくれたなとつくづく思います。
時間の都合上、時々しか来れない一患者の私の願いに、応えていただいたことは感謝しかありません。
その師匠との出会いが、私の次の働き口につながっていくことを考えて行くと、今私が、イギリスという地で鍼業をしているのは、そこが全ての始まりでした。
縁というのは不思議なものです。
そのことは、機会があればいつか書くことにして、その師匠には今でも覚えている言葉をいただきましたが、タイトルに書いた「治療家は僧侶と医者の間にいる」はその1つです。
心身一如と言いますが、患者さんという方に対して、その2つに両方アプローチをして診る仕事は治療家以外に、もしかしたらいないのかもしれません。
つまり、僧侶や心理カウンセラー、精神科医はある症状に対して、心の側面からアプローチしますが、医者(ここでは、特に外科)はある症状に対して、身の側面からアプローチします。
ある患者さんがいました。
卵巣囊腫が酷く、何回も施術を受け、またそれにより身体に組織の癒着がひどくある方です。また、30代の方ですが、更年期の症状がかなりきつく、そのためホルモンセラピー(つまり、薬でホルモンを補う)で生理を誘発されておられました。
主訴は座っていられないほどの腰の灼熱感と痛み、及び、足の痛みです。
初めの3回ほど診るも、鍼やマッサージなど身の側面から私なりにアプローチしても全く効果がありませんでした。
あまりにも痛みが酷かったため、心からの救いを求めようと、懇意にしている、占いと言いますが、エネルギー等に敏感な方に電話で相談されたそうです。
そこで相談して、心はすっきりされたそうですが、痛みは改善されなかったそうです。
心でも医者の身でも、徒手という身でも駄目だった。
でも、一縷の望みをかけて、私を頼ってきてくれたいた中で、あの手この手のある一手が功を奏し、痛みが軽減していきました。
ちなみに、それはただただ、身体にある癒着を私の手の感覚でほぐしていくことでした。(鍼でもそこに着目してアプローチしましたが、駄目でした。あと、痛みに敏感すぎて私の鍼では痛みを誘発してしまっていました。)
感覚的に全然よい感触を得ていなかったにも関わらず、効果が出たことはただただ驚きです。
今回は、私の身に対するアプローチで今の所、痛みは改善されました。
患者さんが持つ、症状というのは本当に多岐に渡ります。
僧侶側によく来る症状を持つ患者さんも入れば、医者側によく来くる症状を持つ患者さんもいます。
治療家(徒手療法家のほうが正しいかもしれません)には、身体のコンディションで来られる方が大半かもしれませんが、ある痛みを患っておられる方が、実は心理的トラブルに因るものだったり、心の症状が身に端を発したものだったりもします(例:慢性的な痛みが鬱病を発する)。
一番多岐に渡る患者さんを診る機会に恵まれるのは、私は治療家だと思っています。
と、書いたところで、疑問に思ったことがあります。
「心を治療する」とはどういうことなのでしょうか。
私は心も診ているなんて、いい気になっていましたが、心を診るって何なのでしょうか。
立ち止まって、文が進みません。
続きは次回に。