治療家は僧侶と医者の間にいる その2 心を診るってなんだ
治療家は僧侶と医者の間にいる。
なぜなら、「心と身体両方からアプローチするからだ」と書きました。
じゃあ、心を診るって何なんだろう。
人の話を聞く。
それだけでいいのかもしれないし、それだけじゃ不十分なのかもしれません。
励ます。
励まされたい人もいれば、励まされたくない人もいるかもしれません。
それは音楽に近いものなのかもしれない。
女性の声が聞きたい時もあれば、男性の声が聞きたい時もある。
また、歌声が聞きたい時もあれば、声が邪魔で、楽器からの音だけを聞きたい時もある。
混乱していると、でも、どういう音楽が聞きたいかわからなくなることがありませんか?
i-Tunesを立ち上げて、ランダムに音楽を流して行くと、どうも落ち着かないなと、どんどんスキップしていく。その行為がまた、集中力を削ぐのですが笑、ふとした時に、▶︎▶ボタンを押さずに音楽が流れていることがあります。
そして、私は、こんな音楽が聞きたかったのだと、ざわざわしていた心が落ち着きます。(このブログを書きながら、あれこれ考えていた時に、流れてきて心に落ちた音楽は DucktailsのPorch Projectorでした。)
それは、川から桃が流れてきた桃太郎の一節みたいに、音楽の大河から、自分が何かをつかみ取ったようでした。
これが心を診るということかも。
ふいに思います。
その人が悩んだり、苦しんだりしていると、何がどうだか冷静に自分を客観視できなくなってしまいます。
治療家のもてる財産の1つは、治療を通して得られた多くの患者さんの身体と心の人生を過去・現在・未来でもって知っていることだと思います。
上に書いた音楽の大河から、その時聞きたい音楽がふっと届くように、私の財産が、その時知りたい言葉を贈ることが出来るのかもしれません。
治療院には、身体に表出する症状を改善するために来院されます。
それが心の癖から来ていたら、心を診ないといけません。(その1に書いたように、心身一如ですから。)
その時、知りたい言葉を贈ることが出来れば、心は癖を修正出来るかもしれません。
(それを身体に置き換えると、「身体にその時受けたい刺激を贈ることが出来れば、身体は姿勢を修正出来るかもしれない」と言えるかもしれません。)
でも、身体の姿勢が元に戻るように、心も癖が戻ってしまう。
その時に応じて、患者さんへ言葉を贈ることが出来れば。
そうありたいな。