幸せだと思える時も、辛いなと思える・思えないぐらいしんどい時も、魔法がかかっていると思えるように。
今週のお題「もしも魔法が使えたら」
「魔法が使えたら」なんていう、「たら」は寂しいなぁ。
僕は、誰かが僕に魔法を使っていると思うからです。
ロンドンで鍼灸師とマッサージ師の仕事をしている今であったり、カリブ海に浮かびながら、地中海に浮かびながら、はたまた大西洋のど真ん中で浮かびながらであったり、患者さんの背中に鍼を打つ時に、「どうしてこの人に、今、鍼をしているんだろう。と不意に冷静になることがあります。
「マッサージならまだ可能性は低いかもしれないけれど、鍼を受けに来た人とは、その人と自分はどこかで会うことになっていたと思う。」とは、僕の先生の言葉です。
もう二度とその人に鍼を打つことはないのかもしれませんが、その人に私の鍼や施術を受けたということが記憶に残るように出来たらなと思います。
偶然を偶然と思うか思わないか、それをもう必然や運命と思っちゃうかは、本人次第で、運命なんて思えば、誰かが僕に魔法をかけたなと思う以外に、先の展開がありません笑
人の身体もそう思っていますが、人生も点・線・面で捉えられると思います。
点では何でもないことが、線となり、面となる。その線であったり、面であったことに気付いた時に、もしかしたら私たちはその出来事に対して「魔法がかかったみたいだ」と思うのかもしれません。
会社員になるまで鍼なんて受けたことがなかったのに、不意に鍼灸師になると決め、船で働くことになり、今イギリスで働いている。
会社員時代、その当時は毎日辛かったなぁと思い出すのもしんどくなりますが、その時代があったからこそ、今がある。辛い時は現状をみれませんが、その霧が晴れれば、振り返ることが出来る。
なんだったら、中学生や高校生の時にずっと考えていたことでさえ、今やっている仕事に繋がっているなと思うこともしばしばです。
平凡な言葉でしかないけれど、言われ慣れている言葉はだからこそ、普遍性があるんだろう。
魔法であるなら、魔法がいつかとける日が来るのかな。
でも毎日、なんで今この出来事が私に起こっているのかを考えれば、生活は魔法にずっとかかっているのかもなと思います。
僕への魔法は死ぬまでとけないものであって欲しいなぁ。
それを多分また来る、厄年的なものが来ても覚えて冷静になれますように。