ロンドンの、船上の鍼灸師の日記

2012年から客船で鍼師として働いていましたが、2017年からロンドンで治療家として働いています。治療のこと、クルーズのこと。色々綴っていこうと思います。ウェブサイトはこちら。https://www.junjapaneseacupunctureandshiatsuclinic.com/

AIが人間に興味がないのは、人間が他の動物に興味がないのと同じなのかも2

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優生保護法という法律が日本の戦後にもあり、最近まで存在していたのをご存知でしょうか。

 

この法律は知的な障害を持っている人に対して避妊手術を行い、彼らの子孫ができないようにするものです。

いわゆる健常者を優性のものとみなして出来た法律だそうです。

 

私はこの法律が存在していたことを、恥ずかしながら知りませんでした。

こんな非人道的なことを私たちはしていたんだということを知り、恥ずかしいと思う一方、時代の倫理観なんて時代時代で全く違うんだなと納得しました。

 

LGBTの問題も同じようなものです。

イギリスでは同性愛の結婚を認められているそうですが、エニグマを作った博士の映画(イミテーションゲームだったかな)の中で、同性愛者である主人公が同性愛でなくなるために薬物療法を受けていたのも、今では考えられません。壮絶なシーンでした。

しかし、今から振り返ってみるとそれもまた非人道的にみえますが、その当時はそれがある種「当たり前」と捉えられていたんだなと思います。

 

ヨーロッパではそういった歴史があるからこそ、LGBTの方への配慮がとても進んでいるんでしょう。

 

話を戻すと、優生保護法について放送後あれこれ考えていた時に気付いたことがありました。

 

私たちは犬や猫に避妊手術をさせているということに。

また、そのことに何の違和感を持っていない飼い主が少なくとも私の周りには何人かいました。

 

私が犬や猫の立場であるなら、避妊手術を受け、子孫ができないようにされるのは絶対に嫌です。

あなたならどうでしょうか。

でも、「無意識のうちに避妊手術はしなくちゃということで受けさせる。」

 

この行為は、優生保護法で避妊手術を受けさせられた人や、昔に同性愛者だからと薬物療法を受けさせられた人たちへの行為と全く差はないと思うのです。

 

それがなぜ問題になるかといえば、人が人に行うからです。

同じ種同士がそういうことを行うとありえない話になるのが、違う種となると盲目になってしまう。

 

これは人工知能と人間との関係にも言えるんじゃないでしょうか。

 

前回書いた、「人工知能が人の職を奪っているかどうかなんて人工知能自体は全く興味がない。」はきっとそうなんだろうなと、優生保護法の考察から思いを深めました。

 

それにしても将来、どうなるんだろう。

AIが人間に興味がないのは、人間が他の動物に興味がないのと同じなのかも1

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人工知能は将来人間の活動にどんな影響を与えるのか。

 

囲碁のプロに人工知能が勝ったことが話題になりました。

私たち治療家の業界では触診の研究が進んでいるそうで、もしロボットが人間のように人に触れることが出来るようになれば、何がどのように変わるのだろうと勝手にわくわくしています。

高級なマッサージ機は、下手な人間のマッサージより気持ちいいらしいとも聞いたことがあります。

 

その一方で、人工知能が私たちの今の仕事が奪われるなどの懸念も噂され、今後どうなっていくのか予想もつきません。

 

私は、人工知能がこういうことを将来するだろうと想像した範囲は全部現実で起こるだろうと思っています。

それどころか、想像以上のことが起きると思っています。

 

例えば、人間の医師以上に、コンピューターはMRIなどの画像からガンなどの腫瘍を見つけられるそうです。

今はそのコンピューターの診断をもとに医師が、そのガンにたいしどう対処するかというステップですが、コンピューターに医師がどう判断するかの情報が蓄積すれば、その判断もコンピューターでできるのでしょう。

病院で患者の顔を見ずに画面だけ見て会話するのがどうなんだと言われていますが、あれは、医師という人間がする必要はなく、コンピューターであれぐらいはもうできることを物語っているなと感じています。

 

他にも、今、有機食品の配達員をやっていて思うのは、自動運転が現実化すれば、トラックのドライバーは確実に必要とされなくなるなということです。

配送業にとってやはりネックになるのは人件費です。

配達員にかかる人件費が抑えられるようになるなら、配送会社の上層部は喉から手が出るほど欲しいと思います。

私がその立場なら絶対に欲しいですし。求人などを出す必要もなくなるなら、様々な手が省けるので、一石多丁でしょう。

 

その流れは抵抗して止められるものではなく、もう今からの将来、そうなるものと仮定して自分がどうその仮定の中で生き残っていくかを考えていかないとどんどん貧しい側に追いやられていくなと思います。

 

で、今回のテーマです。

以前テレビで、誰かは忘れましたが、人工知能を研究している方が、「人工知能が人の職を奪っているかどうかなんて人工知能自体は全く興味がない。」

 

と、言っていました。

なるほど、そういう意見もあるなぁと思って心に留めていたのですが、その意見を思い起こすドキュメントを見ました。

NHK教育の「ハートネットTV」でやっていた「優生保護法」に関するものです。

 

続きは次回に。

ラジオでのリスナーとパーソナリティのすれ違い それは甘えなのか愚痴なのか

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先日のラジオでの一コマ。

リスナーが、自分たちの不満をぶちまけるというコーナーでした。

 

「ある主婦からの投稿で、旦那さんが大きなマラソン大会に行くことにした。トレーニングをするのはいいが、トレーニングしてない日でもマッサージをさせられたり(トレーニング後はもちろん)、当日には応援かけつけたりしないといけない。こんな旦那にうんざりです。」

と言った内容。

 

これに対して、パーソナリティの人が、「旦那さん甘えてるなぁ。微笑ましいね。」というコメント。

同情というよりは、そんな関係いいなぁというようなコメントをされておられました。

 

皆さんはどう思われますか?

リスナーは同情して欲しいから投稿したものの、パーソナリティからはその逆でむしろやっかみ的なものを受けてしまう。

 

実はラジオで時々あるシーンです。

リスナーが精神的に落ち着いていて、自分の状況を相対的にみれる人であれば、そのコメントを聞いて嬉しいと思えるでしょう。

でも、とりあえず聞いて欲しい!自分の不満にパーソナリティの人達が理解して旦那にきつく言って欲しい!という気持ちで投稿してたら、私ならそのラジオを嫌いになります汗

 

投稿の場合、とりあげてもらうのはそれだけで有り難いですが、そのコメントが期待していたものでないと、投稿なんてしなければよかったと思われてしまうでしょう。

 

当たり前かもしれませんが、投稿者は投稿したあと、何もできないことが多いんだなと気づきました。

先ほどの例で言うと、パーソナリティのコメントに対して、「そんなつもりで言ったんじゃない。」とリスナーがツイッターやメールで再度投稿しても、まあ取り上げられませんよね。。。

討論番組だと取り上げられる可能性はあるでしょうが。

その一方で、パーソナリティの場合は、仮に自分が失言したとしても、すぐに自分でフォローできるので挽回できるチャンスはあります。

 

ラジオはほとんど生放送であり、リスナーとパーソナリティのやり取りが生で行われるとても魅力的なメディアだと、私は今の仕事に就いてから思うようになりました。

でもだからこそ、投稿でのディスコミュニケーションが起きても訂正がききません。

 

生放送、特にリスナーのコメントを紹介して番組を展開するラジオはパーソナリティのコミュニケーションスキルが相当に求められることを知った一コマでした。

30を過ぎると自分の人生は見えてくるのか。その2

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以前ブログに書きましたが、船から降りて同世代の友人と日本で久しぶりに会った時に「彼らは大地に根がはり、住んでいる土地と繋がっている。」という印象を持ったと書きました。

 

前回書いたように、私は大学を卒業してからの10年強は何もかもが目まぐるしく変わり、今イギリスに向けて準備しています。

ちなみに、自分がまさかトラックの運転手をやるなんて、考えてもみていませんでした笑

 

振り返ってこの10年、自分の人生を不安に思うことは多々ありました。

1番の理由は、周りに手本・道標となる人がいないことです。自営業をされている両親の元で育った子供は、人とのやり取りがうまい。自営業をやっても成功しやすいなんて言われますが、それは両親という手本がいるからなのだと思います。

 

私も会社に入るまでは、日本人としていわゆる典型的な人生のコースを辿っていました。

でも「鍼灸師になる」とどういう因果か決めてから、急に周りに手本がいない人生に。

鍼灸整骨院でお世話になった先生のお師匠さんのところに週末だけ勉強させてもらい始めたのが、この世界を知る第一歩になりました。

もしその整骨院に縁あって通っていなかったら、今までの道は全てなかったんだなと思うと、不思議な縁を感じざるを得ません。

そして学校に入学後、もちろん、鍼灸の学校ではクラスメイトや務めたり勉強させてもらった先生がいたため、新たに参考となる生き方を知りました。

でも、船で働こうと決めたら、再び手本のない状態に汗

それもまた、船で働くために斡旋された英会話学校を通して紹介されたSNSのコミュニティで参考になる生き方を知りました。

 

そして今、イギリスへ。

船で働いていた鍼灸師の方は、その後海外で働いている方は(私の知る中では)ほとんどおらず、日本に戻って就職・開業という方が大半です。

海外で働き口を見つけるのは、船で働くよりも狭き門になるためです。あと、船で働く目的が「旅」であるなら、海外で働くことを視野に入れないのも当然かもしれません。

 

イギリスへ行けば、職場に日本から渡って働いておられる先輩方がおられるので、また私にとって手本になる生き方をされている方に出会うのでしょう。

 

ここまで振り返って、4度ぐらい自分の人生の方向を変えてきたわけですが、その度に、そういう生き方をされている人たちに出会ったなと思います。

生き方を変えようとすると、必ず不安が伴います。

それは言葉では言い難い不安です。

 

その不安が嫌だからこそ、人は大学を卒業して、ある会社に就職したら、基本的にはそこで働き続けようと思うのでしょう。

 

大学の友人に会った時、「10年社会人をやって、自分が会社でどれぐらいの地位にまでいけるかとかの将来の絵が描けるようになったわ。」と言っていました。

私はすごく寂しかったのですが、それが現実なのかもしれません。

 

30を過ぎれば自分の人生は見えてくるのか。

寂しいその諦めは良いものであり悪いものでもあります。

家庭をもって女性が専業主婦になるというのも1つの諦めであり、それはまた新しい覚悟とスタートであるのと同じように。

 

私は所帯のない身であるからこそ、このように身軽に動けるわけですし。

私は私の道を邁進していこうと思います。

30を過ぎると自分の人生は見えてくるのか。その1

 
 
先日、誕生日を迎えました。

その時に、もうほぼ時期も確定したため、SNS上で自分がイギリスへ行くことを伝えました。
実際あったり、個人的な話になった時は自分の今後を伝えていたのですが、知らない人も大勢いたためです。

書いた文章が以下のようなものでした。


思えば、大学を卒業してから10年ぐらい経ちました。
会社に入り、会社をやめ、鍼灸の道に進み、客船で働くという、色々会った10年間だったなと振り返って思います。

日本に帰ってきて10ヶ月強。
ご存知の方もいますが、もうほぼ確定なので言いますと、実は早くて12月からイギリスで鍼灸師もといセラピストとして働きます。

特に鍼灸の学校に入ってから、この不安定な未来に自分がやりたいと思うことをやりつつ、どうやったら生き残っていけるんだろうとずっと考えてきました。
イギリスに行く話をした時、何人かの友人から「夢が叶っていいね。」と言われましたが、夢というより、違う国にも拠点を構えたいというのは、現実を考えた先の「目標」でした。

24時間あれば、大抵の国や場所に行ける時代。
腕一本で勝負するなら、何カ国かで働けたらいいなと思っていました。(施術家としては、センスもないしまだまだですが。腕何本あれば足りるだろう。)

そんなことを考える中で、掴んだ客船での仕事。
船で現実を目の当たりにしましたが、同じことをしていても、給料がアメリカドルで貰えるか、フィリピンペソで貰えるかで、フィリピンでのフィリピン人の生活が変わるという事実は、私にとって衝撃でした。
日本だって、もしかしたら出稼ぎに行く時代が来るのかもしれない。私は勝手にそう思っています。


そして、今回掴んだイギリスへの道。
いつかは何カ国かを転々と巡りながら、縁がある方に治療を出来たらなぁ。そう遠くはない未来だと、妄想はひろがっています笑

来年、そして5年後、10年後にはどうなっているのか。
自分に嘘だけはつかず、精進していこう。

 

この先に書きたかったことをここでは書いてみようと思います。

続きは次回に。


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海外に住んでいる日本人が日本の良さを伝えたいという違和感3

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前回は気候が病を作ることについて考えを書きましたが、今こうしてグローバルにものや人、情報が行き交っていると、このグローバリズムもまた、ある種の気候的な要素を持っているのかなと思うときがあります。

 

最近は流行の移り変わりが早いなんて言われます。

その最たるものの1つが、芸人さんではないでしょうか。

記憶が定かではありませんが、私が子供の頃は「一発屋」の芸人さんはほとんどいなかったように思いますが、いつの頃からか毎年、流行のギャグが生まれ、いつの間にか消えていく。

流行の食べ物もそうかもしれません。ココナッツオイルが流行っていたのはいつの日か。

そのサイクルが借金の自転車操業のように、加速して行っている気がします。

 

私が高校生の時はルーズソックスが本当に流行った時期でしたが、あのブームもいつの間にか終わっていました。

大学生でそのことを振り返った時、流行やそれを扇動するマーケティングはある種の感染症だなと思っていました。

 

それは手塚治虫ブッダでも出てきたような、大量のイナゴがある村を襲ってすべてのものを食べ尽くす姿に似ているなと個人的には思っています。

 

でも、そういう感染症にさらされているからこそ、自分の選んできた人生は正しいはずだというカウンターの意識が出てくる。

だから、今回のテーマとして書いた「海外に住んでいる日本人が日本を非難する」ことに日本に住む日本人は違和感を覚えるのだと思います。

 

日本で名を馳せた日本人が、外国に住んで日本で働いています。

本木雅弘さんや葉加瀬太郎さん、渡辺謙さん。。。などなど、あの方々はどうしてに海外に住んでいるのか。

日本が活動の拠点なら、わざわざ住む必要はないんじゃないかと誰しもが思うはずです。

彼らが「日本が好き」と言うなら、どういう点が好きでなぜ外国に住むのか。

伺ってみたいものです。

 

私はイギリスへ行って何か価値観は変わるのか。

感じたことがあれば、またここで書きます。

海外に住んでいる日本人が日本の良さを伝えたいという違和感2

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東洋医学の考え方の1つに、「気候や風土が病を作り出す」というものがあります。

例えば、湿度の高い地域では湿邪というものが関係した病がおき、寒い地域では寒邪が人の病を作るといったもの。

なんとなく想像できるのではないでしょうか。

 

私はその考えの延長として、「気候や風土が国民性を作り出す」と思っています。

寒い地域と暖かい地域で住んでる人の気質が違っている一例として、東北や北海道に住む人と沖縄に住む人との気質の違いでわかるかと思います。

 

であるなら、日本に馴染めないのは日本の気候や風土に馴染めないからだと言えないでしょうか。

特に島国であり、近年まで日本の島々の民族以外から侵略されてきた経験のない歴史を持ってきた地域はやはり他とは違う国民性を有しているのではないかと思っています。

 

日本が嫌いな日本人だっていてもいいと思うんです。日本が好きな外国人と真逆なわけですし。

 

ただ、お互いがお互いの人生にプライド(=自分で今の人生を選択してきた)を持ち、そのプライドを否定されたように思うことがポイントなんじゃないかなと思います。

 

海外で働く日本人の知人が、「私は日本が好きだが、欧米の文化・考え方が入ってきている今の日本が好きではない。」というようなことを言っていました。

 

欧米の文化や考え方って何なんだろうと考えることがあります。

どの国もそうかもしれませんが、ある文化が違う地域から流入してきたときに、咀嚼してその国に合わせた文化に変わり馴染んでいきます。

 

例えば、中国から来た漢字。

そのまま中国語として日本でも採用すればいいものを、ひらがなやカタカナを用いつつ、漢字も用いるという変化を遂げたと学校で学んだ記憶があります。

 

そうであるなら、欧米の文化だって日本流に吸収されて採用されているのでしょう。

ただ、ここまでグローバルになり、世界が均質化していくと、吸収する前に、文化を押し付けられているのではないかと思います。

 

私はその最たるものが消費主義、特に大きな資本がその資本をさらに拡大させるためにとるマーケティング戦略面、消費戦略だと思っています。

 

昨今、SNSで「いいね」が欲しいがために、見た目重視の料理が流行っていると見聞きしました。

そこには吸収し考え、咀嚼していくという人間の文化のプロセスを無視し、マーケティングで人間の思考を分析し、ただ消費させていくという構図が浮かび上がってきます。

 

こうは書いている私ですが、きっと想像以上にそのマーケティング戦略に洗脳されていることでしょう。

 

可能な限り抗いつつ、うまくすり抜けるには個人で生き抜いて行く力が必要だと思っています。(渡英はその考えの1つです。)

 

話が脱線してしまいました。

 

続きは次回に。