生かされている生き方と被害者意識2
「自分のことを何かにつけて被害者だと思っている」
この言葉はこうも言い換えられるかもしれません。
「自分のことを何かにつけて受け身だと思っている」
そう捉え直した時に、ある思い出が蘇りました。
あれは確か大学2回生か3回生の時。
今でもそうですが、大学生の時は「何で生きてるんだろう」ともっとずっと考えていました。
それで、どこかの最果てに行ってみようと、本州の最果ての1つ、龍飛岬へ行くことにしました。
それは年末の出来事で、夏に仙台で小説を書くと銘打ち、3週間滞在していたことの延長線上にありました。
もはや海外よりも遠くなった日本の僻地。北海道や沖縄へは飛行機でびゅんと行けるなら、関西から日本で1番遠いのは東北じゃないのかと思い、その当時は東北に憧れがありました。
彼女もいない12月の冬休み、大阪の天王寺から夜行バスに乗り仙台へ。
そこから特急やバスを乗り継いで、わざわざ冬の竜飛岬まで向かいました。
そして岬に立ち、対岸の彼方先にある北海道を見たとき、この言葉が脳に体に降ってきたのです。
「私は生かされている。」
理由はわかりません。自分という小さな存在が、この厳しい自然、ある大陸の果てにいることにただ感動しました。
探検部で色々な自然の断片を垣間見ても、感動こそすれ、その感覚が襲ってくることはありませんでした。
その言葉を聞くために、竜飛岬まで赴いたのかとすら思ったほどです。
ずっとこの言葉を大切にしてきたつもりですが、私が冒頭の「自分のことを何かにつけて受け身だと思っている」
という人間かもしれないと思ったときに、「生かされている」と思うのは自分の弱さかもしれないと思いました。
続きは次回に。