自分が匂うブログを書きたいな
なんでブログを始めたのだろう。最近お題をもとに、自分の記憶を思い返すのが楽しい。
ブログを始めたのは鍼灸師になって開業する時に、自分の考えを残しておくことが開業したときの財産になるからというものでした。まあいわば、クレジットカードの使用履歴があれば、大きな借金をしやすいというのに関係としては似ていると思います。(過去にクレジットカードでこれだけお金を前借りして返済してきたという記録があることで、もっと大きな借金をする、例えば家を買う、時に銀行から信用してもらえる)
そう思って、自分の考えをつづってきました。でも案外、自分の考えてたことって忘れ
るもんですし、こうして文章として形にすることで、自分だけど自分じゃない(考えてたことを忘れてるという意味で)ものを思い返すことって面白いなと思います。
改めて、自分はどういう人間なのか、どういうことが得意な人間なのかと昨日不意に考えることがありました。それはある方のこの記事がきっかけでした。
この文章に対して、Facebookグループのある方が、非公開のグループで批判に近い批評をされておられました。
コメントにはケアクルの文章があくまで鍼灸に対する宣伝文なんだからいいんじゃないですかという意見とか、とはいえこの内容は薄すぎて酷いんじゃない?など色々書かれてありました。
僕はこのケアクルの記事を書いた方も、批評をされた方とも面識があり、両方言いたいことがわかるなぁと思っています。
でも、この記事みたいな記事が多いからこそ、逆に僕なら鍼灸を受けないというか、受けたいなという用には響かないかなと思います。
僕がこういう文章を書けたらなと思っているのは糸井重里さんです。ほぼ日刊イトイ新聞
どういうことにも自分の見方・気持ちというスパイスを振りかけて、読んでいる人の目線でそのことを感じてもらう、そういう文章を書かれているなと、いつも感心してしまいます。
このほぼ日の中の対談なんかも読んでいると、糸井さんが自分の考えていることや現象など色んなことをずっと分析して言葉にして、それでなおわかりやすいように落とし込んでいるのがよくわかります。
こういう方が「鍼灸は最高だ!」なんていう文章を書くとどうなるんだろうと想像してみますが、そもそも最高だなんて言わないかなとも思ったり。
今までの文章を書いてみて、僕が文章に書きたくなることって、エッセイのような何気ないことに自分の想像を膨らませることなのかもと思いました。
ネットのコラムなんかを読んでいると、自分の言葉で書かれてない文章ってあるよなと思うんです。その書かれてある文章・言葉から書いた人の匂いがしないというか。
そういう文章を綴っていける人間でいたいな。
クルーズ時代、トリュフハントのツアーに参加した時の一幕@スロベニア