ロンドンの、船上の鍼灸師の日記

2012年から客船で鍼師として働いていましたが、2017年からロンドンで治療家として働いています。治療のこと、クルーズのこと。色々綴っていこうと思います。ウェブサイトはこちら。https://www.junjapaneseacupunctureandshiatsuclinic.com/

鍼灸業界のアイドル

今週のお題「私のアイドル」

 

このお題をみて改めて考えると、鍼灸ないし治療の業界の人にとって、特にキャリアの初めに「自分のアイドル」となれる人が見つかるかはとても大切なことだなと思いました。

というのも、この業界で絶対と言ってもいいぐらいぶつかる壁の1つが「実費で食べていけるか」です。

整骨院や病院のように保険請求をして食べて行くのではなく、国民保険に頼らずに、実費だけで食べて行きたい!

と思う人は大勢いますが、そうは中々問屋が卸さない。

そこまで行くには、地道に力をつけないといけないし、もしかしたらそれ以上に、マーケティングのことや話すこと・話し方なんてのも必要になってきたりします。

そうして心が揺れ動いて、整骨院でこのまま働いていいのか、とか、でも収入が安定してるし整骨院で勤め続けようとか葛藤する鍼灸師の人は数多くおられます。

 

その時に心の支えとなるのが、自分にとってアイドルとなる人がいるかどうかだと思います。要は、師匠ですね。

 

私は脱サラしてこの業界に来たので治療師としてのキャリアは遅く始まりました。

でも、会社員の時に時々通っていた整骨院で、そこの先生に「会社を辞めてこの業界で働いてみたいんです。」と意を決して相談したところ、実費の鍼灸院を営まれているその先生の師匠に当たる方を紹介してくれたのです。

それを機に、週末に片道2時間以上かけてその師匠の元で勉強しつつ、平日は会社員で普通に働くという生活を1年半ほどしました。

会社を辞めて学生だった時も、週末はその師匠の方がされてる勉強会にお邪魔しつつ、平日は学校に行きながらクリニックで働いていました。

 

その後もその師匠の別のお弟子さんのもとで実費の鍼灸院で学んだりして、クルーズで働くキャリアへの道が続いて行きました。

 

実費で食べて行こうとするなら、実費で食べてる人の姿をみないと、食べて行けないと思います。

働けなかったのですが、何度か見学に行かせてもらったとても忙しい鍼灸院の先生が仰っておられて、残っている言葉があります。

そこは1回4千円という治療費だったのですが、見学してる私に「4千円がどういうものなのか知っておかないといけない。例えば、1回4千円でどういうものが食べられるかとか。4千円の価値、ないし、自分の治療がどういう価値と等価を知っておかないと、どういう思いで患者さんがこのお金を払って治療を受けに来てくれていただいてるかがわからないよ。」と言って下さいました。

 

その言葉はとても残っていて、来ていただいてることを当たり前に思っちゃ行けないなと、今この日記を書きながら改めて痛感しています。

でも、保険が収入のメインであったなら、そういうことを感じにくくなってしまいますし、実費をもらって生きているこういう方の考え方は出来ないかもしれません。

そういう意味で、私は働いているキャリアの中で自分にとって尊敬出来る「アイドル」

が何人もいて、恵まれているなと思います。

 

アイドルの先生方、ありがとうございます。

今日も精進していきます。

私もいつかイチローのようにレジェンドに…

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治療院で暇になると考えてしまうこと

私が働いているクリニックがロンドンにあるものの、日本人がメインのクリニックだからでしょうか、年末年始が暇になります。

日本だと年末年始の休みの時に治療院に行っとこうとかとなるかもしれません。

ですが、海外の治療院で働いている場合、どうしてもお盆や年末年始は「日本に帰る」となります。

 

私が患者さんの立場だとそう考えます笑

 

こんなに暇になったのが久しぶりだったなあと思うと同時に、1月末で在英1年となるのですが、この1年でどれぐらい患者さんがついたのかなと振り返ってしまいます。

実際、ここで10年いる方はそれなりに忙しくされておられたので、年末年始とか関係なく忙しい方は忙しいわけです。

 

そうなると、ひとえに私の実力が足りず結果を出せなかったので、1年たっても暇になってしまうんだなと痛感します。

私を贔屓にしてくれる患者さんから言われて、今でも覚えている言葉があります。

「5年のキャリアを1年に縮めることはできる。」

 

どうしたら縮められるんだろう。

「ただただ勉強して、どんな人が来ても結果を出す。」

それにつきるんじゃないかなと思ったりします。

 

この治療業界に入って、芸人さんをとても尊敬するようになりました。

自分たちの身体のみで、世界とぶつかり渡り歩く。

 

さまざまな彼らのエッセーやコラムを読む中で何回も出てくる言葉が、「自分たちの芸を磨き続けるか、先輩などの意見を参考にしてスタイルを変えていくか。」ということ。

 

治療だってそうです。様々な治療法がありますし、同じ治療法でも触り方、施術の仕方は人によって異なります。

 

時間が不意にたくさん出来たことは、そういうことを考える機会を与えてくれたご先祖様のご褒美なのかもしれません。

ですので早速、受付の方などに、どうしたら患者さんが着くか相談してみました。

 

自分としてはそうじゃないと思っていても、客観的に見たら、そう思われることって結構あるもんですね笑

言われたことを素直に聞けるかな。

このままでいいと自分に自信を持って、集中していけるかな。(これは案外難しい)

 

新年を迎えて、去年とは違う人生の流れになったなと痛感する新年早々の日々です。

 

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写真はポルトガルリスボンの新しい観光スポット。ブッダのようになれるかな。

 

 

 

 

 

 

イギリスのクリスマスと距離感

イギリスで初めてのクリスマスを迎えました。

他の西欧諸国では知りませんが、イギリスの場合、クリスマスが一年で一番盛り上がりをみせると言っても過言ではありません。

 

初めて聞いた時は本当に驚きましたが、25日は全ての交通機関が止まります。

殆どの店は休みで、私の勤めるキリスト教徒でもなんでもないクリニックでさえ25と26日は休みです。

 

だから一日中街は静かなのかなと思ったら、案外道は混んでいてびっくりでした。

 電車もバスもないので、車しか交通手段がないのですから笑

御多分に洩れず、私もその日は知人に会いに車で出かけました。

 

この、何もやってない感覚を表現できないかと言葉を手繰り寄せようとしますが、中々うまくいきません。。。

 

 SIlent night holly night

以前は本当に静かなクリスマスだったと、ここに長く住んでいる人達は話していました。

 

 一度心を鎮めて、来年の祈願にふけるのもいいかもと思ったクリスマスでした。

 

 

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写真はセントポールというロンドンで大きな寺院のクリスマスのミサです。

 

 

 

いつどこで生まれるか

ロッコへ旅をして来ました。10日間。

砂漠へ行きたかったものの、引っ越しで色んな経費がかさんだり、1人だと思ったより高かったりで断念したため、モロッコの街を巡ってきました。

 

日本を離れて10ヶ月、久しぶりに発展途上国と呼ばれる国を旅してきました。

そこで改めて思ったのは、「いつどこで生まれるか」について。

1980年代に私は日本で生まれたわけですが、高度成長期時代を経て、ここ日本で生まれたことは、とても幸運だったと思います。しかも、私が就職活動をしていた時はリーマンショック直前で売り手市場。GW前に決まっていた友人はいっぱいました。

しかし、70年代終わりに生まれて、就職氷河期だった時はどこにも就職口がなかったわけです。

それをもう少し長い尺度で考えれば、戦後すぐに生まれたなら、私が生まれ育った時ほど物などに溢れた生活ではなかったのだと思います。

一方、その尺度を生まれた年度ではなく場所で考えれば、例え今2017年に生まれたとしても、日本で生まれるかモロッコで生まれるかで人の生涯で得られる年収や、すごい嫌な言い方をすれば人の価値だって違うかもしれない。

 

そんな「いつどこで生まれるか」なんて考えても仕方ないし、絶対に自分よりも境遇が良い人も悪い人もいるわけです。

患者さんにモロッコ地球の歩き方を借りて持って行っていたのですが、その中に「モロッコに旅をしに来れるだけでも恵まれている。」というような旨の言葉が書かれてあり、改めてそうだよなぁと感慨深くなりました。

 

船で働いていた時も、私より年を重ねている方が、ハウスクリーニングだったり、皿洗いをされてる方がいて、祖国より給料がいいからここで働いているんだといっていました。

世界中を旅してみたいからという理由も立派に成り立ちますが、劣悪な環境でも給料という現実的な問題から船での生活を選ぶ人だっています。

 

個人的な理由なんて、自分以外どうだっていいのかもしれませんが、今ここにこうして生まれてきたことを噛み締めて、感謝して行きたいなと思う、モロッコ旅でした。

 

 

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クルーズの経験を振り返って思う、どこが何が一番綺麗だったんだろうということ。

今週のお題「芸術の秋」

 

私がクルーズで働いていたと患者さんに伝えた時に、「一番よかった国や街はどこですか?」と聞かれることがあります。

卑怯だろうと思われるかもしれませんが、それはずばり「南極」です。

 

 

 

クルーズ船での鍼灸師として働いていた時に、幸運なことに私は南米を2度周遊する機会に恵まれ、そのうち2度目はフォークランド諸島と南極の南米側の端を遊覧するという機会に恵まれました。

フォークランド諸島は夏でもとても風がきつい地域らしく、1度目の南米周遊でも立ち寄ろうとした時に風が強くて断念したという苦い経験があります。

ちなみに、その時に横にいたクルーは、「僕はフォークランド諸島には5度目だが、未だに立ち寄れないんだ」と言ってたので、2度目で立ち寄れたのは運がいい方なのかもしれません。

 

フォークランド諸島でも南極でも、びっくるするのはペンギンが普通にいることです。

世界の南端に行ったことがない人にとって、ペンギンは水族館にいるものであり、陸地にいるものではありません。

私にとってもそうでした。

ところが、当たり前の話ですが、ペンギンはそもそも野生の動物であり、水族館に生息している動物ではありません。

 

そのペンギンが、何の隔たりもなく目の前に在る。

くじらが船の横で優雅に潮を吹く。

アザラシが氷の大地の上でふてぶてしく座っている。などなど

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それは彼らにとって当たり前でも、私たちにとって当たり前じゃない。むしろ当たり前じゃないのに、水族館という場所で当たり前にみれることが、昔じゃ考えられない、当たり前じゃないことです。(水族館のすごさに今回改めて気付きました)

 

患者さんを治療していて、不意に気付かされるのは、その人が命を持って存在していることの存在感であり、すごさです。

それは美術品としてどんな綺麗な絵画や彫刻などを目の前にして感動したとしても、やはりそれは生きておらず、その存在感には敵いません。(気を宿していることはあっても)

オノ・ヨーコさんが発表した、「暮れていく太陽を、窓ガラスか何かに映した」作品(タイトルを検索してみたものの見つからず…)のように、生きているモノが宿す、自然に生きている中で醸し出される存在感に勝るものはありません。

 

うつ伏せになっている患者さんの、浅く早かった呼吸が少しずつ鎮まっていき、深くゆっくりとなっていくあの瞬間は、いつでも私に命を宿していることの尊さを思わせてくれます。

 

囲われた場所でしか見たことのなかった動物が生き生きとその動物本来の姿を見せてくれた南極。

やっぱりそこがクルーズの経験の中で一番綺麗であり感動した場所です。

 

 

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俳優は「人にあらず人を憂う」の意味を考える。ある俳優さんの施術を通して

ご縁がつながり、うちのクリニックにある俳優さんの出張依頼があり私が行くことになりました。

 

その方には合計4回施術させていただいたのですが、診せてもらったのが舞台の本番1日前、本番直前の楽屋、2日目の午前中、3日目(最終日)終了後の夜でした。ちなみに、3回目と4回目の間に私はチケットをたまたま取っていたので観劇しました。

 

俳優の方を施術させてもらうのは初めてで、有名な方だったので若干緊張しましたが私にできるのはその方がいい役を演じられるようにサポートするだけです。そう思うとリラックスしてきて、普通に施術に臨めました。

 

その方の筋肉のつき方や、私に接してくれる態度、ものの見方や、性格などなど面白いことは多々ありましたが、書き出すとキリがないので一番私が感銘を受けたことだけ。

 

それは人(特に俳優)は容れ物なのかもしれないということです。

 

初めて診せてもらった本番1日前はとてもリラックスされていて、色々なところに気がつき、誰も傷つけないように配慮してくださる素晴らしい方だと思っていました。

でも2度目の本番直前は、顔が引き締まり、目の色が違う。それは昨日にはなかった何かが、その方に入った気がしたのです。昨日までのその方とは違う何か誰かがそこに居る気がするのです。

実際、私がそういう風に感じたことを素直に伝えたところ、「役を演じている時は、演じている役を遠くで自分が見ている。」というような旨のことを仰っていました。大竹しのぶさんは「93パーセントが役で7パーセントが自分ぐらいの状態がいい」とか言ってた気がします。

 

それで迎えた観劇本番。どこのチケットを買ったのか忘れていたのですが、なんと1番前の真ん中でした汗 もし施術することを知ってたら、わざわざそんな場所とらないのに。。。

でももしかしたら、それは俳優さんの容れ物について色々考えさせてもらうために与えられた機会なのかもしれません。

 

舞台の上で演じておられる顔つきや動作をみていると、前回の本番直前に入った何かがより具体性を帯びていることがわかります。

それは内面にある弱さや葛藤、気が狂っていく中で芽生える狂気と不安などです。映画ではカメラがクローズアップするなどで俳優さんの表情をじっくり見て感じることができますが、舞台となると自分でフォーカスしていかないといけないためそうはいきません。

そんな中でもその方が醸し出す表情、それは映像越しに観るのとは違うより生々しいものでした。イタコをみたことはありませんが、のり移るとはこういうことを言うのかもしれないとまざまざと感じさせてくれます。

また、若手の俳優さんが発する声がその俳優さんの声であって、演じている人物の声ではないと思った一方、その方の声は役と馴染んでいるようにも感じたのも私にとってはいい経験でした。

 

なんだか褒めてばっかりですが、ほんとにそう感じて自分でも驚くほどです。

 

最終日の夜に診せていただいたときは疲れ果てて、治療中は子供のようにずっと寝ておられましたが、俳優さんというものの生き様(生きる様子)をこの数日で垣間見れて、本当に勉強になりました。

 

俳優は「人に非ず、人を憂う」と書きますが、その詳細は「人に非ざるもの(演じた人物の魂のようなもの)が人の世界で人を憂うがため、物語を演じている」なのかもしれません。

私の人生で、とても刺激を受けた5日間でした。

 

 

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昔からある音と今ある音とは美しいハーモライズが出来るのか

最近、コンサートをよく聞きに行っています。

Julius Eastman Memorial Dinner | Barbican

Susheela Raman: Sacred Imaginations 1 | Barbican

 

特に先週行ってきたSacred Imaginationsはとてもよく、私にとっては、日本で観たモーリス・ベジャールボレロ以来、スタンディングオベーションをしたくなるくらい感動しました。

このコンサートはオーソドックスの男声合唱から始まり、インドのタブラや中東のウードや琴(名前はわかりません)などがクラリネットとセッションなどしつつ、一方でロシアの宗教音楽をベースにした歌い方(恐らく)の方やいわゆる歌手の方々のライブもあったりと、本当に色々盛りだくさんでした。

タイトルにもある通り、Christian east(どうやくせばいいのかわかりませんが、ギリシャ正教会ロシア正教会などのいわゆるヨーロッパの東側で主に信仰されている宗教のことを指すのだと思います)の古典と現代の曲を弾いたり歌ったりしてくれました。

また、Julius eastmanは70年代に活躍した音楽の作曲家で、ダンサーでもあったりと色々な活躍をされていたアーティストで、有名なのはEvil Niggerという曲です。

Jace Claytonというアーティストが彼の曲にアドリブで電子音を重ねていくというコンサートでした。

 

Eastomanのコンサートで感じたのは、昔からある音楽や音、楽器に、最近できた音や楽器が組み合わさることは出来るのかなぁということです。

例えば、電子音とピアノという組み合わせで出来た曲って、ありそうでないなと聞きながら思ったのです。なんでないのかと言えば、きっと私が色々聞く中で、あまりいいコンビネーションじゃないと思ったから、私のItunesの中にないのかなと思いました。

きっと、世界中の音楽シーンではそんな組み合わせざらに在ると思います。

でも、基本的には電気を通した楽器はそれ同士で組み合わせ、生の音の出る楽器はそれ同士で組み合わせるのが基本なのではないでしょうか。

Eastmanの曲が現代音楽、現代クラシックというジャンルにカテゴライズされるなら、クラシック音楽で(現代クラシック含め)交響楽団に対してソロプレーヤーとして電気楽器(例えばエレキギターなど)の人が弾いてるのってイメージ出来ません。

でも、やはりそれは相性の問題で、ピアノとテルミンの曲を聞いたことがありますが、それはとても美しかったです。

そういう意味では組み合わさることは出来るけど、慎重に選ばないとやはり音としての組み合わせは悪そうです。

 

あまり組み合わさったことがない曲を聞くというのは、自分の中で未知の部分の感覚が拡張しているような気がして、脳が興奮してるんだけど、どう興奮していいのかわからないという不思議な感覚に襲われます。

それは食べたことのないものを食べた時のような感覚に近く、ウサギを初めて食べた時に近いなということに今回書きながら気付きました。(私にとってはとても奇妙な味でした。)

 

映画が好きなのも、自分がまだ味わったことのない感覚・場面・感情に出会えるからなのだと考えています。

 

もっと未知のものに出会いたい。

そう思えるコンサートでした。

 

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ピサの斜塔も、色々な塔が傾いていたらまったく特別なものにはなりません笑