フォークランド諸島のペンギンと「何もない」がある場所
お題「#おうち時間」
今週のお題「カメラロールから1枚」
前回のブログでは南極に行った話を書きました。
(リアル)南極でアドベンチャーワールド - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記
前々回の仙水の話の続きは後々書きます。
仙水と飛影はなぜ黒の章に興味を持ったか。仙水編1 - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記
南極の続きということで、どうしてもペンギンについて書きたくなりました。
僕は南極へ行ったついでにフォークランド諸島へ行きました。
そこでの思い出はここに書きましたが、
フォークランド諸島の印象を"何もない'と感じた考察 - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記
ここで考えたことは基本的に今でも変わっていません。
そもそもフォークランド諸島をご存知ですか?
アルゼンチンと戦争でもめたのは記憶に新しい場所ですが、本当になんの変哲も無い島です。というより、辺境の地に何か特別なものってないんだと思います。
ブログを久しぶりに読み返して、
「山登りをしているとわかると思うのですが、、厳しいところにいけばいくほど、自分のことを自然が気にしない、受け入れないという感覚に私は襲われます。
でも、一方で厳しいところに行けば行くほど、自然は美しさを我々に魅せてくれます。
つまり、自然が自然として自立している(=自然が厳しい)ほど、我々はそれを美しいと感じるということです。」
という文章を書いていました。その気持ちは今でも変わりません。最近は思うだけで、それを味わってないなぁという寂しさに襲われます。
上に載せた文章の続きで思うのは、「何もない」があるというのは、自分が都会から完全に切り離されることで、脳に寄りすぎた自分が、体(=動物)の感覚に戻ることなんだと思います。
ロックダウンによって強制的に都市から隔離されることで、ネットを通じてより脳へよっていく人と、その反対の体へよっていく人とに分かれていく気がします。
脳によっていくと、自分が求めたい刺激(不安になるというのも潜在的に自分が求めている刺激のように考えています)をどんどん求めるようになり、そこには「何かありそう」で何もない感覚に陥るように思います。
その一方で、動物の感覚に戻ると「何もなさそう」で何かある感覚を得られるように思います。
空が綺麗だったり、道端の花に目を落としたり。それは「何もないようで何かある」気がしています。
じゃあ、「何がある」んだろう。色々考えたんですが、「自然」があるんじゃないでしょうか。
「自ら」「然る」と書いて、自然。そのようなものが周りにあると気づくことで、脳に偏り、存在を他者から肯定してもらう「他存」(他に存する。勝手に自分で作りました笑)状態から脱却できるんじゃないかな。
と、思わせてくれるペンギン達でした。