森達也監督のフェイクにみるあの世とこの世の間
森達也監督をご存知でしょうか。
オウム真理教をテーマにした「A」などが有名なドキュメンタリー監督です。
ご存知の方もいれば、全くご存知でない方もおられるでしょう。
佐村河内守さんを覚えておられますか?
耳に障害のある作曲家です。
森達也監督の「FAKE」はこの佐村河内氏を佐村河内氏側から追っていったドキュメント映画です。
私はちょうど船で働いていたため、この映画で実は佐村河内さんの事件の詳細を知りました。
実は耳が聞こえてるんじゃないかという疑惑や、佐村河内さんを取り上げた文春の記事の信ぴょう性など様々な事柄を佐村河内さんと彼の奥さんの視点から取り上げたものです。
内容は映画に譲るとして、私が1番感じたのは、佐村河内さんをとりまく事柄にうごめく、幽霊のような「何か」の気味悪さです。
それは「佐村河内さんの実際の聴覚の状態」や「作曲活動においての事実」などという「本当のこと」に、マスコミや私たち視聴者などの取り巻きが根も葉もないことを色付けしていった、その色付けの部分です。
それは、例えば凶悪な殺人事件を犯した方の家族は殺人事件を犯していないのに、世間から後ろ指を指されることにも似ているように思います。
浅草キッドの水道橋博士さんが、芸能界のことを「あの世」と呼んでいるそうですが、色付けを排した現実の事実の世界を「この世」とするなら、世間とは世の間、つまり妄想が先行する芸能界のようなあの世と事実世界のこの世との間にある、妄想と事実がこもごもになったものを言うのではないでしょうか。
(自分には被害の及ばないところでの妄想の色付けほど、美味しいものはありません。ゴシップはその最たるものの1つではないでしょうか。ちなみに、私の人生もそんなものの1つのようで、友達としては興味がとてもあるけど、家族にはなれないと複数の友人に以前言われたことがあります。。。)
結果と原因という関係において、その2つを繋げようとする時に私たちは想像力を働かせます。
佐村河内さんの実際の状態と、メディアによって「作られた」事実や、本当の事実や様々な証拠(これもまた解釈次第で様々な作られた事実を作り得る)や、佐村河内が語った・語らない自分の気持ちなどなど。
本当に色々なピースを、それらをまた私たちが都合のいいようにくっつけ、ことの真相を理解しようとする。
どういう情報(=ピース)にどんな心理状態で接するかで、ピースの組み合わせ方も変わるのであれば、ある事件の真相なんてのは永遠にわからないのかもしれません。
それは事件の当事者であっても、自分の起こした事実が、どう色付けされて広まっていき、それらをみている傍観者に解釈されて、巡り巡って、当事者に影響を与えるのかがわからないのと同じように。
森監督の作品は、「A」でもそうですが、私たちが判断材料として持っているピースが本当に正しいものなのかという揺さぶりをかけます。
佐村河内さんに対して勝手にレッテルを張る世間に対して、そのレッテルという先入観がいかに正しくないかということを。
幽霊という名の世間に誰も彼も踊らされています。
どうしたら踊らされないかなぁ。