喜怒哀楽のバランスと「いらいら」の未熟さ
前回書いた「人はなぜつながりたいのか」を考える中で色々なことが思い浮かびました。
その1つが今回のタイトルである「喜怒哀楽のバランス」です。
齢が30を超えて思うのが、身体のバランスが崩れてきているなぁということ。
例えば、動くときに一定の箇所・筋肉を重点的に使っている。
私の場合は、右足を軸にして立っていることが多いため、右足から踏み出すのが苦手です。
そういったくせの積み重ねが、膝の痛みや五十肩などの痛みの原因、はたまた脳の疾患にまで繋がっていくのではないか。
それが私の考えです。
それは感情にも言えます。
様々な感情表現が私たちにはありますが、ここでは喜怒哀楽とします。
こうした時に、喜怒哀楽のうち「怒」ばかりを私は使っているなぁと気づきました。
そして、喜・哀(哀しみ(かなしみ)や哀れ(あわれ))・楽を怒に比べると使っていないなぁとも。
寄り道
東洋医学では五行論というのがあり、木火土金水の5つに私たちの性質を振り分けるという理論があります。
その中で、私たちの性格や体型もそこに当てはめられると言われます。
例えば、怒りっぽい人は頭がとんがっているなど。(イライラしている状態を気が昇っている状態と捉え、気が頭を変形させたとみる)
話を戻します。
日常生活で怒ばかりを使っているのではと思う一方、「イライラする」というのは怒なのかとも思いました。
「イライラ」は怒というにはあまりにも幼い?未成熟な感情ではないかと。
怒という感情には色々あります。
例えば、オバマ大統領が被爆地の広島訪問で湧きましたが、被爆者の方々がこれ以上原爆が落ちないように尽力される。
ここには、「これ以上犠牲者を増やしてはいけない」という「怒」の気持ちが込められているように感じます。(もちろん他の感情もこもっていると思いますが、私は「怒」が根底にあるのではないかと考えています。)
ここの「怒」は、私が街に住んでいる中で感じる「イライラ」と一見似ているようで、質が全く違うように思うのです。
イライラは自分のすごく浅い思いであるのに対し、怒はもっと深い。
そういう観点では、喜怒哀楽も楽以外深い思い・感情のように思います。(楽も浅い楽しいから、深い楽しいまであるのかな。。。と考えてみたのですが、楽の本質は程度の差こそあれ一緒かなと考えます。)
自分の思いをイライラという浅い層で処理してしまうと、深いところ思いを持てないように思います。そして、深い感情が持てなければ、深い人間にもなれない。深い繋がりも人と築けない。
そこに気づいた時、いつもイライラしてしまう自分にショックを受けました。自分の未熟さ、浅はかさに。
喜怒哀楽という四文字熟語にイライラはどういう漢字を当てはめることができるのでしょうか。
私は「守」だと思います。なぜなら私がそうだからです。。。
私がイライラしている状況を分析してみると、「自分の中で勝手に規定したルールやリズム、パターンなどがあり、そのキャパシティを超えるとイライラする」のが共通としてあるなと思います。
つまりは自己中なんですね汗
「相手はこう動くだろう」とか「この場面でこうはしないだろう」というような、妄想が自分の中でできてしまい、それを超えると私はイライラします。
電車のヘッドホンの騒音問題なども、そういうものが根底としてあると思います。
その「守」をなくすには、自分の中の勝手な思い込み・妄想をなくしていくことだと考えています。
それは誰かを受け容れることになるし、また、それが喜怒哀楽という深い感情を持つことにつながるのではないか。
そう思います。
自分の未熟さを改善するため・私のイライラをなくすために、昨年末からて時々瞑想教室に通うようになりました。
最近マインドフルネスといってブームですね。
その模様・やり方はいずれ書きたいと思います