戸愚呂弟の死と仙水の死の共通点 仙水編その4
お題「#おうち時間」
仙水と飛影はなぜ黒の章に興味を持ったか。仙水編1 - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記
コエンマの霊界告発と仙水とグレタさん。仙水編2 - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記
誰にでもある多重人格。幽白:仙水編3 - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記
前回のブログでは最後に戸愚呂(弟の方、以後、戸愚呂)の死と仙水の死って繋がってないのかと前振りをしたところで終わりました。
以前書いた文章で、遊助が否定した戸愚呂の価値観を、最後に肯定する設定にしたのは、戸愚呂への作者の弔いなのではと妄想しました。
遊助が否定した戸愚呂の価値観をなぜ肯定したのか 幽白その3 - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記
それで次は、戸愚呂の死と仙水の死も繋がってるんじゃないのかと言う妄想です(笑)
戸愚呂と仙水の違いってなんなんでしょうか。
それは戸愚呂が妖怪で仙水が人間だと言うことです。(仙水が妖怪探偵をやめたのはいつか知りませんが、戸愚呂と仙水が戦う可能性もよく考えればありましたよね。まあ、それは漫画なので…)
戸愚呂は弟子を惨殺された無念から強さに固執するようになり、人間よりずっと寿命が長い妖怪に生まれ変わることで強さを維持しようとしました。それはまるで弟子たちの死を忘れないための逆リストカットのようなものではないでしょうか。(生きていることを実感するためにリストカットをする人がいると聞いたため)
一方、仙水は物心ついた時から霊力があり、そのせいで小さい時から妖怪に殺されかける毎日を送っていました。その1でも書いたように、人間の酷悪の姿を見ることで自分が人間であることへの罪悪感と、自分もその一部である人間の嗜好の対象にされてしまっていた妖怪に対する罪悪感とが突然押し寄せ、人間への憎悪が生まれました。
そして、自分の妖怪に対する懺悔の気持ちから魔界に穴を空けることを画策する。そして恐らく、妖怪が背負わされてきた(人間が創り上げた)罪を人間に被らせようとした。
スケール感の差こそあれ、自分におきた極私的なことを、自分の根源的な罪として捉えてしまったという意味では同じです。
ただ、その罪に対する意識の方向性が違っていて、戸愚呂はひたすら自分を傷つけることでその罪を償おうとしますが、仙水は他人もその罪は持っているので全員で償うべきだとします。もちろん、戸愚呂と仙水とで起きたことの事象が違うため一概には言えませんが。
切ないのが、仙水が妖怪に憧れて魔界で死ぬことです。きっと彼も人間全員が罪を被るべきというのは空虚なことだと悟っていると思います。
「次こそ魔族で生まれますように。」
これが彼の死ぬ前の最後の言葉です。(妖怪と魔族の違いは漫画の中で説明されておらず、違いはわかりません)
人間のような煩わしい存在として生きるなら、むしろいっそ妖怪(魔族)として生まれて生きた方が仙水にとっては潔かったのでしょう。
とはいえ、今書いてて気づきましたが、もし仙水が戸愚呂のように暗黒武術会で優勝していたら妖怪に転生できたわけです。戸愚呂はできたわけですし、戸愚呂より仙水の方が強いわけですから。
でも孤独な戦いの中で多重人格者となってしまうぐらいですから、仲間を4人も集められなかったかもしれませんが…
でも、穴を空けて魔界に来れて、しかも妖怪(になった)の遊助に最後殺されて命を引き取ったわけですから、仙水は死の直前までずっと苦しんできたのに最後は成仏できたのかなぁという気がします。
戸愚呂も仙水も遊助と戦うことで、自分の無念、情念を浄化し死を迎えました。そういう意味では、他に倒された妖怪の話は正直忘れましたが、遊助は神のような存在なのかもしれません。
どういう要素が神と繋がるのか。それはハンターハンターのゴンにも共通していることだと個人的には考えています。
仙水への想いはこれぐらいにして、いつか、ゴンとの共通点については書きたいと思います。
また幽遊白書読みなおすかなぁ。
#幽遊白書 #戸愚呂 #仙水
誰にでもある多重人格。幽白:仙水編3
お題「#おうち時間」
前回までの続きはこちら
仙水と飛影はなぜ黒の章に興味を持ったか。仙水編1 - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記
コエンマの霊界告発と仙水とグレタさん。仙水編2 - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記
前回は仙水の死とコエンマの霊界の告発との関係について妄想しました。
今回は仙水の多重人格について思うところを書きます。どんだけ仙水編について書くんだという話ですが、僕はやはりそれぐらい幽遊白書が好きなんだなぁと改めて感じます。
仙水には7人の性格が彼の中にはいて、主人格と戦いを担当する人格が三人、別のことを担当する人格が三人いるらしいです。((別のことをする人格の一人は女性で泣き虫役だったそうで、内気で純情で傷つきやすかったそうです。)
終わりのない闘いの中で仙水が自ら創り上げた哀しい別人格だと樹は述べていました。
僕は人生で多重人格を持つ人がいるんだとこの物語で初めて知りました。それはなんとも言えず新鮮で奇妙な感じがしたのを何となくですが覚えています。
鍼灸師になるもうずっと前、20歳の大学生の時に知り合いの彼氏の元カノが多重人格者だったそうで、元カノがどうして多重人格を持つまでに至ったのか初めて会ったにも関わらず話してくれたことがありました。(変でとても長い一夜だったな…)
彼はその元カノが人格を統合するための治療を受けていた時にそばでいたために、どうして彼女が別人格を持つに至ったのかを知っていました。
どうして別人格を持つようになったかについて聞いてるだけでもきつかった内容でしたが、「孤独で終わりのない戦いを続けた」という意味では、彼女と仙水は対して変わりません。
話を聞いて思ったのは、孤独でかつ周りに支えてくれる人がいないと、自分で自分の中に支えてくれる人を作るようになってしまう心の構造が人間にはあるんだということでした。
あと、クルーズ船で働いていた時に、軍隊で働いていたカナダの方を診たことがあります。彼女はPTSDで苦しんでいました。ユーゴスラビア紛争の解決のために駐留した時の記憶が今でも蘇るそうで、その記憶が頭から離れないそうです。映画「アメリカンスナイパー」に出てきた主人公がイラク戦争後から帰ってきた後にPTSDで苦しんでいたように。
彼女は多重人格とは言っていませんでしたが、その時の記憶から逃げ出すために人格を作り出す可能性もあるのかなぁと考えたりします。
僕自身は別人格を創り上げるほど人格が分離したことはありませんが、会社員時代に感情を表に出すのも辛かったあの時の自分は今の自分とは明らかに違っていました。(鬱だった時のブログを載せる)
でもその一方で、ああいう風になる自分も、自分を形成している中にはあるんだなと思うと、多重人格って何なんだろうと思います。
こうして考えていけば、多重人格を作る可能性は人間誰しもこういうことは起こりうるんだと思いますし、女性の化粧という行為は別人格を作っていると言えなくもないのではないでしょうか。(だからこそ、すっぴんも綺麗だねと彼女に言う時、じゃあ化粧してる私はどうなのと不機嫌になる現象に説明がつきます。つまり、すっぴんの土台に化粧の自分があるのではなく、すっぴんの自分と化粧している自分が並行して存在している)
10歳にも満たない子供もがこういう物語を読むことに賛否両論あるとは思いますし、今だときっとジャンプには載せられない気がします。
物語をたくさん読む、聞くことの重要性の一つはあらかじめ学習しておくことで、自分が同じ境遇になる(かもしれない)時に苦しみ過ぎないことではないでしょうか。
その意味では10歳にも満たない年齢で仙水編を読むのは大切…なのかもしれません。
自分の子供にはもう少し大人になるまではお勧めできませんが汗
まだまだ続きます。次は戸愚呂(弟)の死と仙水の死って繋がってない??です
戸愚呂弟の死と仙水の死の共通点 仙水編その4 - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記
コエンマの霊界告発と仙水とグレタさん。仙水編2
前回までの続きはこちら。
仙水と飛影はなぜ黒の章に興味を持ったか。仙水編1 - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記
前回は仙水編のストーリーの説明と、仙水が変わるきっかけとなる黒の章になぜ飛影は惹かれたのか、また、その共通点ってなんなのかについて考えました。(幽白好きの皆さんは仙水と飛影の共通点派なんだと思いますか??)
黒の章について続きがあると書きましたが、コエンマは仙水が遊助に倒された後に、黒の章を含めた霊界の資料を調べあげます。すると、その資料には改ざんされた後が膨大な量でありました。(大部分は人間が妖怪でやったとされる悪事の水増しだそうです)
そして、コエンマは父である閻魔大王を含めた上層部を告発しました。
上層部の言い分としては、「魔界を悪役にしておけば霊界には人間界を守る大義名分が立つ。」堂々と結界を張って領土維持をするためだそうです。
息子が父親を告発するなんて今の世の中では考えられなさそうですし、わざわざ告発しなくても父親に内密に言って魔界との結界を解けばよかったのではないかという気もします。それだと霊界は波風立たないわけですし。
でもそれはきっと、仙水への弔いじゃないのかと思うんです。
仙水を霊界探偵として雇ったのもコエンマですし、彼が人間の嫌な部分をみてしまい価値観が変わってしまったのもコエンマがある敵を倒すように命じたからでした。
コエンマがいなければ、ここまで自分の人生や性格が破綻することはなかったでしょう。きっと彼はそのことに気づいていますし、そのことに対する罪悪感に苛まれていたんだと思うんです(いや、僕が苛まれていてほしいと思っている)。
僕は仙水とグレタさんを重ねてみてしまう部分があります。環境活動家として様々な活動を展開されている彼女ですが、なんとなく感じるその危うさが、仙水が持つ危うさに似ている気がしませんか?
死の直前に仙水は言います。
コエンマ「なぜ…そうまでして魔界の穴にこだわるんだ。」
仙水「魔界へ来てみたかったんだ。本当にそれだけだったんだよ。」
「世の中に善と悪があると信じていたんだ。・・・だが違ってた。オレが護ろうとしてたものさえクズだった。そんな生き物の血が流れているのが無性に憎くなったよ。」
「浦飯…戦っている時の君は…すごく楽しそうだ。オレもほんの一瞬だが初めて楽しく戦えた。ありがとう。次こそ魔族に生まれますように…」
この善と悪があると信じていたという仙水の言葉にせめて報いるために、コエンマは告発したんじゃないかな。それがせめてもの自分の罪に対する贖罪となるような気がします。
グレタさんが今後成人となり、どのような人生を歩んでいっていかれるのかはわかりません。彼女には誹謗中傷も多いと聞きます。
地球環境という善と悪では割り切れないものを人生の(今のところの)糧として生きる彼女が、仙水のように絶望しませんように。
次は仙水の多重人格についての思いについて書きます。
誰にでもある多重人格。幽白:仙水編3 - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記
戸愚呂弟の死と仙水の死の共通点 仙水編その4 - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記
#幽遊白書 #グレタ #仙水 #コエンマ
フォークランド諸島のペンギンと「何もない」がある場所
お題「#おうち時間」
今週のお題「カメラロールから1枚」
前回のブログでは南極に行った話を書きました。
(リアル)南極でアドベンチャーワールド - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記
前々回の仙水の話の続きは後々書きます。
仙水と飛影はなぜ黒の章に興味を持ったか。仙水編1 - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記
南極の続きということで、どうしてもペンギンについて書きたくなりました。
僕は南極へ行ったついでにフォークランド諸島へ行きました。
そこでの思い出はここに書きましたが、
フォークランド諸島の印象を"何もない'と感じた考察 - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記
ここで考えたことは基本的に今でも変わっていません。
そもそもフォークランド諸島をご存知ですか?
アルゼンチンと戦争でもめたのは記憶に新しい場所ですが、本当になんの変哲も無い島です。というより、辺境の地に何か特別なものってないんだと思います。
ブログを久しぶりに読み返して、
「山登りをしているとわかると思うのですが、、厳しいところにいけばいくほど、自分のことを自然が気にしない、受け入れないという感覚に私は襲われます。
でも、一方で厳しいところに行けば行くほど、自然は美しさを我々に魅せてくれます。
つまり、自然が自然として自立している(=自然が厳しい)ほど、我々はそれを美しいと感じるということです。」
という文章を書いていました。その気持ちは今でも変わりません。最近は思うだけで、それを味わってないなぁという寂しさに襲われます。
上に載せた文章の続きで思うのは、「何もない」があるというのは、自分が都会から完全に切り離されることで、脳に寄りすぎた自分が、体(=動物)の感覚に戻ることなんだと思います。
ロックダウンによって強制的に都市から隔離されることで、ネットを通じてより脳へよっていく人と、その反対の体へよっていく人とに分かれていく気がします。
脳によっていくと、自分が求めたい刺激(不安になるというのも潜在的に自分が求めている刺激のように考えています)をどんどん求めるようになり、そこには「何かありそう」で何もない感覚に陥るように思います。
その一方で、動物の感覚に戻ると「何もなさそう」で何かある感覚を得られるように思います。
空が綺麗だったり、道端の花に目を落としたり。それは「何もないようで何かある」気がしています。
じゃあ、「何がある」んだろう。色々考えたんですが、「自然」があるんじゃないでしょうか。
「自ら」「然る」と書いて、自然。そのようなものが周りにあると気づくことで、脳に偏り、存在を他者から肯定してもらう「他存」(他に存する。勝手に自分で作りました笑)状態から脱却できるんじゃないかな。
と、思わせてくれるペンギン達でした。
(リアル)南極でアドベンチャーワールド
今週のお題「激レア体験」
お題「#おうち時間」
こうも家で時間があるとクルーズで働いていた時の写真をどうしても見返してしまいます。
もうクルーズ船での鍼師の仕事を離れて3年以上になりますが、実は大体クルーズって行くところが決まっています。
1)カリブ海(年中どこかのクルーズ船が小さなカリブの島に停泊しています。今はわかりませんが…)
2)アラスカ(夏のアメリカのメッカ)
3)地中海(夏のヨーロッパのメッカ。行かれたことがある方もいるのでは?)
4)オセアニア(すいません、あまり知りません)
大体この4つなんじゃないのかなと思います。東アジアや東南アジアを巡るクルーズ船も随分増えました(今年および数年は減るだろうな)。
中型から大型のクルーズ船(乗客3ー6千人ぐらい)は大きくて身動きが取れないので、大体上記の場所にいます。
ただ、僕が好んで乗っていた小さなクルーズ船(一番小さいので550人)はそういう大きなに飽きた方や、あまり人が行かないところに行きたい!というニーズに合わせて、普段人が行かないところを巡ります。
何度かこのブログで書きましたが、silverseaという6つ星のクルーズ船(Silver spirit )とholland americaという5つ星のクルーズ船(prinsendom)鍼師として働いていた時、夏は地中海を巡りましたが、冬は南米を1周しました。どちらもフロリダからフロリダの約60日間。
なぜなら南半球は北半球が冬なら夏だからです!ちなみにsilver spiritはロサンゼルスからハワイ、オセアニアに行ってロスまで帰ってくる60日のクルーズと隔年で冬のクルーズを回していました。
さて南米クルーズ。僕は2度も南米を巡りました。給料は別にして(出来高制のため)、一生の思い出です。
カリブを少し巡って、フレンチギアナ、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ、南極と南米の南まで来てチリ、ペルー、コロンビア、パナマ海峡ときてカリブを少し巡り、フロリダへ。ブラジルではアマゾン川の大都市マナウスやリオではカーニバルを堪能しましたが、やはり一番の思い出は南極です。
だって、そう人が行ける場所じゃないです汗
南極へは特別な許可がないと降りられない(大陸の微生物を持ち込んで南極の生態系を壊さないようにするため)ので、僕らは南極大陸を遊覧しました。
「大きい氷」と思い浮かべて、みなさんはどれぐらいの大きさのものを想像しますか?
小さな仏像しか見てこなかった人が奈良の東大寺の仏像を見たときに、「なんじゃこりゃ!」と言いたくなるように、南極には想像以上に大きい氷の壁があります。
しかも、水の上に浮いています。
これは実際に見ないときっとわかりませんが、非常に変な感覚です。
南極はやはり不思議な感覚を持ってしまいます。白と黒しかない世界は美しいです。
周りは僕らの船と大陸しかもちろんありません。ただ、ここに来た理由はクジラなど南極で生活している動物を観ることでもありました。
はしゃぎすぎた僕は、むちゃくちゃ寒かったんですが、ジャグジーに入ったりしました笑
翌日は晴れて、氷の大地がよりはっきり見えました。
人生でもう一度行けるのか。いけないのか。
次は大陸に足を踏み入れたいな。
#南極 #クルーズ #南米
仙水と飛影はなぜ黒の章に興味を持ったか。仙水編1
お題「#おうち時間」
仙水編が書かれたのは1993年で僕は10歳でした。初めてこの漫画を読んだのは何歳か覚えていないのですが、10代の中頃から後半だったように思います。
初めて読んだ時は仙水編についてただ単純に面白い漫画だなぁと読み進めてい
ました。
でも、何度か読み込んでいくうちに幽遊白書って少年誌だから10歳に満たない少年だって読んでるんだよなって考え始めました。
僕なりに編集して仙水編のストーリーを書きますが、この内容はどう考えでも10歳とかで読む内容じゃないと思うんです…映画ならR15とか18になりそう。(ネタバレになるので、興味がある人はまず漫画を読んでください)
仙水は生まれた時から強い霊力を持っていたために小さな頃(絵から察するに10歳前後?)から邪霊や妖怪に命を狙われ続けてきました。彼にとって妖怪は自分の敵そして人間の的だった。
彼はのちにこう言います。
「どうして僕だけ見える生き物がいるんだろう」「どうしてそいつらはボクを嫌っているんだろう」「きっとボクは選ばれた戦士であいつらは人間に害を及ぼす悪者なんだ」
彼はそういう疑問を持たずに、ただただ妖怪を倒していきました。
しかし、その価値観が180度ひっくり返る事件が起きます。
彼はその能力を買われ妖怪探偵となり、魔界に通じたトンネルを塞ぐという指令を受け敵を倒しに行きますが、そこでみてしまったのが人間の酷悪の極みとも言える営み…この世とは思えぬ悪の宴で、それは人間が欲望のままに妖怪を喰いものにしてる光景でした。
その光景をみて仙水は人間を護る側から、人間を倒す側へと価値観が変わっていきます。実際、彼はその場にいた人間を全員殺しました。
仙水の精神が崩れてから、彼は魔界に来たいという夢を持つようになりそれを遂行するために同士を集め魔界へ行くための穴を空けようとします。
その穴を塞ごうとする遊助と戦うわけですが、ちなみにその戦いの中で、仙水は多重人格者であったことが判明します。
前のブログにも書きましたが、遊助は一度敗れ死んでしまいますが、実は妖怪を先祖に持つことがわかり、妖怪として転生します。そしてその妖怪として眠っていた力を呼び覚ますことで仙水を倒した。
ざっとこういうストーリーです。
仙水の価値観が変わったり、仙水が多重人格だったり、ストーリーとしては中々に濃厚な伏線があり、これを少年誌でよく書けたなと思います。
価値観が変わる部分を丁寧に見ていきますと、酷悪の極みとされる人間の営みを見た時に、コエンマは「彼は人間の存在そのものに悪を感じてしまった。」「人間全てに罪の償いを求めようとしている」と彼の気持ちを推察しています。
遊助と仙水が対決している時、樹という彼の仲間のうちの一人が言います。
「オレは彼が傷つき汚れ堕ちていく様をただ見ていたかった」「「キャベツ畑」や「コウノトリ」を信じている可愛い女の子に無修正のポルノをつきつける時を想像する様な下卑た感覚さ。その点人間の醜い部分を見続けた仙水の反応は実に理想的だったな。割り切ることも見ぬふりもできずにただ傷つき絶望していった。」
これに続いて仙水が、「霊界探偵を続けていく内にね、心が何処かから腐っていくのがわかるんだ。だがそれを止めようとする気がおきない。何故かわかるかい。その腐食部分こそ本当のオレだということもわかってくるからさ。」
幽遊白書やHUNTER×HUNTERでは、この仙水編以外に登場人物がこのように自分の内面を赤裸々に語るシーンはないように思います。特に樹のセリフなんて、どう考えればこんなセリフを思いつくのかなと思います。(小児性愛者などはもしかしたらこう考えるのかもしれません…)この時期、作者の冨樫さんは精神的に相当追い込まれていたそうで、その精神状態がこのような設定を生んでしまったのかなぁ。
あと、この仙水編では黒の章という、このような人間の残虐な行為のみを集めたとされるビデオテープも存在しているとされます。何故かここで飛影がこのビデオテープに興味を示し、連れ去られた桑原を助け、仙水を倒す協力をしてくれたお礼として遊助はこのビデオを渡しました。
どうして飛影に興味を持たせる設定したのか。漫画には書かれていませんが、仙水と飛影に似たような根っこがあるからだと思います。
魔界統一編で躯が飛影の半生を語るシーンがありますが、飛影は「忌み子飛影」 として名を轟かせるほど、小さな時から盗賊として有名だったそうです。母の友人から生まれた時点で谷から落とされ、血が噴き出す寸前の真っ赤な肉の切れ目が好きで悲鳴を聞くと薄く笑うような壮絶な幼少期を過ごした彼の人生を考えれば、彼の嗜好も、もしかしたら仙水のように倒錯した部分があってもおかしくないなと思います。黒い服だけ着てるところとか、設定が似てる部分もありますしね。
この黒の章に関することには続きがありますが、長くなってしまったので今回はこの辺で。多重人格の部分ももちろん続きで。
コエンマの霊界告発と仙水とグレタさん。仙水編2 - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記
誰にでもある多重人格。幽白:仙水編3 - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記
戸愚呂弟の死と仙水の死の共通点 仙水編その4 - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記
遊助が否定した戸愚呂の価値観をなぜ肯定したのか 幽白その3
前回まではこちら。
幽遊白書その1、HUNTER×HUNTERとの性質の違い(主観) - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記
遊助は何を守ったのか。戸愚呂に勝てた理由。幽白その2 - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記
前回の最後に「妖怪となった戸愚呂が死を放棄することで求めた「力」と遊助が死を肯定することで生から生み出される「力」がぶつかり、遊助が勝った。」と勝ちました。
つまり、遊助は妖怪を選んで力を求めた戸愚呂の価値観を否定したわけですが、この戸愚呂との闘いの後に展開される仙水編で仙水と遊助が戦っている最中に、なんと、遊助は妖怪になります…
遊助のずっと前の先祖は妖怪で人間と交わった時にできた遺伝子が数十世代もの隔世を経て受け継がれる魔族大隔世という現象が、遊助には起きていて、仙水と戦い一度死んだ後に、妖怪となって甦るのです…
これ、どう考えれば、いいんだろう。どうして作者はそういう設定にしたんだろう。自分の妄想をベースに考えています。僕は戸愚呂のトラウマの浄化がここで行われたのかなと思いました。
目の前で弟子を惨殺されて二度とこのようなことが起きないようにと人間から妖怪に転生し、戸愚呂は自分の強さを求め続けたわけですが、自分の強さを求め続けても、もはや人間界に彼に匹敵する力を持つ相手がいなかった。
それは結局、生は死に向かっていくからこそ、その時に持てる力を出し切れた人間の遊助に倒される。(死までが長すぎる妖怪はそういう概念がないのかもしれない)
でも、そういう価値観を持っていた遊助が妖怪に転生することで(=死んでしまうからこそ発揮できる力の否定)、死なないことを持って弟子たちの死を償おうと決意した戸愚呂の無念が初めて浄化されたように感じます。
戸愚呂は冥獄界という、地獄の中でも1番の過酷なもの自ら選びます。
コエンマは戸愚呂を霊界から見送る時に、「たとえ優勝して(弟子たちを惨殺した)敵を討っても自分自身の中で罪の意識が消えなかったのだろうな。それからのヤツの人生は償いというより拷問だ。強さを求めると自分を偽って…」と述べていました。
この償いの意識が消えた時に、遊助は妖怪に転生したんじゃないのかなと思っています。
ストーリー上、仕方なく編み出された結果なのかもしれませんが、そうであってほしいなという思いを込めて。
仕事も出来ず暇なので、幽遊白書について書こうかなと思ったら、とても長い文章になりました。
お付き合いいただきありがとうございました。
幽遊白書に関してはまだ書いてみたいことがあるので、いつか書いてみようかと思います。