ロンドンの、船上の鍼灸師の日記

2012年から客船で鍼師として働いていましたが、2017年からロンドンで治療家として働いています。治療のこと、クルーズのこと。色々綴っていこうと思います。ウェブサイトはこちら。https://www.junjapaneseacupunctureandshiatsuclinic.com/

フォークランド諸島のペンギンと「何もない」がある場所

お題「#おうち時間

今週のお題「カメラロールから1枚」

 

前回のブログでは南極に行った話を書きました。

(リアル)南極でアドベンチャーワールド - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記

前々回の仙水の話の続きは後々書きます。

仙水と飛影はなぜ黒の章に興味を持ったか。仙水編1 - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記

 

南極の続きということで、どうしてもペンギンについて書きたくなりました。

僕は南極へ行ったついでにフォークランド諸島へ行きました。

そこでの思い出はここに書きましたが、

フォークランド諸島の印象を"何もない'と感じた考察 - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記

ここで考えたことは基本的に今でも変わっていません。

 

 

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フォークランド諸島のペンギン達

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フォークランド諸島のペンギン達2

 

そもそもフォークランド諸島をご存知ですか?

フォークランド諸島 - Wikipedia

アルゼンチンと戦争でもめたのは記憶に新しい場所ですが、本当になんの変哲も無い島です。というより、辺境の地に何か特別なものってないんだと思います。

 

ブログを久しぶりに読み返して、

「山登りをしているとわかると思うのですが、、厳しいところにいけばいくほど、自分のことを自然が気にしない、受け入れないという感覚に私は襲われます。

でも、一方で厳しいところに行けば行くほど、自然は美しさを我々に魅せてくれます。

つまり、自然が自然として自立している(=自然が厳しい)ほど、我々はそれを美しいと感じるということです。」

 

という文章を書いていました。その気持ちは今でも変わりません。最近は思うだけで、それを味わってないなぁという寂しさに襲われます。

 

上に載せた文章の続きで思うのは、「何もない」があるというのは、自分が都会から完全に切り離されることで、脳に寄りすぎた自分が、体(=動物)の感覚に戻ることなんだと思います。

 

ロックダウンによって強制的に都市から隔離されることで、ネットを通じてより脳へよっていく人と、その反対の体へよっていく人とに分かれていく気がします。

脳によっていくと、自分が求めたい刺激(不安になるというのも潜在的に自分が求めている刺激のように考えています)をどんどん求めるようになり、そこには「何かありそう」で何もない感覚に陥るように思います。

その一方で、動物の感覚に戻ると「何もなさそう」で何かある感覚を得られるように思います。

空が綺麗だったり、道端の花に目を落としたり。それは「何もないようで何かある」気がしています。

じゃあ、「何がある」んだろう。色々考えたんですが、「自然」があるんじゃないでしょうか。

 

「自ら」「然る」と書いて、自然。そのようなものが周りにあると気づくことで、脳に偏り、存在を他者から肯定してもらう「他存」(他に存する。勝手に自分で作りました笑)状態から脱却できるんじゃないかな。

 

と、思わせてくれるペンギン達でした。

(リアル)南極でアドベンチャーワールド

今週のお題「激レア体験」 

お題「#おうち時間

 

こうも家で時間があるとクルーズで働いていた時の写真をどうしても見返してしまいます。

もうクルーズ船での鍼師の仕事を離れて3年以上になりますが、実は大体クルーズって行くところが決まっています。

1)カリブ海(年中どこかのクルーズ船が小さなカリブの島に停泊しています。今はわかりませんが…)

2)アラスカ(夏のアメリカのメッカ)

3)地中海(夏のヨーロッパのメッカ。行かれたことがある方もいるのでは?)

4)オセアニア(すいません、あまり知りません)

 

大体この4つなんじゃないのかなと思います。東アジアや東南アジアを巡るクルーズ船も随分増えました(今年および数年は減るだろうな)。

中型から大型のクルーズ船(乗客3ー6千人ぐらい)は大きくて身動きが取れないので、大体上記の場所にいます。

ただ、僕が好んで乗っていた小さなクルーズ船(一番小さいので550人)はそういう大きなに飽きた方や、あまり人が行かないところに行きたい!というニーズに合わせて、普段人が行かないところを巡ります。

 

何度かこのブログで書きましたが、silverseaという6つ星のクルーズ船(Silver spirit )とholland americaという5つ星のクルーズ船(prinsendom)鍼師として働いていた時、夏は地中海を巡りましたが、冬は南米を1周しました。どちらもフロリダからフロリダの約60日間。

なぜなら南半球は北半球が冬なら夏だからです!ちなみにsilver spiritはロサンゼルスからハワイ、オセアニアに行ってロスまで帰ってくる60日のクルーズと隔年で冬のクルーズを回していました。

 

さて南米クルーズ。僕は2度も南米を巡りました。給料は別にして(出来高制のため)、一生の思い出です。

カリブを少し巡って、フレンチギアナ、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ、南極と南米の南まで来てチリ、ペルー、コロンビア、パナマ海峡ときてカリブを少し巡り、フロリダへ。ブラジルではアマゾン川の大都市マナウスやリオではカーニバルを堪能しましたが、やはり一番の思い出は南極です。

だって、そう人が行ける場所じゃないです汗

 

南極へは特別な許可がないと降りられない(大陸の微生物を持ち込んで南極の生態系を壊さないようにするため)ので、僕らは南極大陸を遊覧しました。

「大きい氷」と思い浮かべて、みなさんはどれぐらいの大きさのものを想像しますか?

小さな仏像しか見てこなかった人が奈良の東大寺の仏像を見たときに、「なんじゃこりゃ!」と言いたくなるように、南極には想像以上に大きい氷の壁があります。

しかも、水の上に浮いています。

これは実際に見ないときっとわかりませんが、非常に変な感覚です。

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浮いている氷1

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浮いている氷2

南極はやはり不思議な感覚を持ってしまいます。白と黒しかない世界は美しいです。

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周りは僕らの船と大陸しかもちろんありません。ただ、ここに来た理由はクジラなど南極で生活している動物を観ることでもありました。

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クジラ


はしゃぎすぎた僕は、むちゃくちゃ寒かったんですが、ジャグジーに入ったりしました笑

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もちろん寒い

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お風呂@南極



翌日は晴れて、氷の大地がよりはっきり見えました。

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人生でもう一度行けるのか。いけないのか。

次は大陸に足を踏み入れたいな。
 

 #南極 #クルーズ #南米

 

仙水と飛影はなぜ黒の章に興味を持ったか。仙水編1

お題「#おうち時間

お題「好きなシリーズもの」

 

仙水編が書かれたのは1993年で僕は10歳でした。初めてこの漫画を読んだのは何歳か覚えていないのですが、10代の中頃から後半だったように思います。

初めて読んだ時は仙水編についてただ単純に面白い漫画だなぁと読み進めてい

ました。

でも、何度か読み込んでいくうちに幽遊白書って少年誌だから10歳に満たない少年だって読んでるんだよなって考え始めました。

僕なりに編集して仙水編のストーリーを書きますが、この内容はどう考えでも10歳とかで読む内容じゃないと思うんです…映画ならR15とか18になりそう。(ネタバレになるので、興味がある人はまず漫画を読んでください)

 

仙水は生まれた時から強い霊力を持っていたために小さな頃(絵から察するに10歳前後?)から邪霊や妖怪に命を狙われ続けてきました。彼にとって妖怪は自分の敵そして人間の的だった。

 彼はのちにこう言います。

「どうして僕だけ見える生き物がいるんだろう」「どうしてそいつらはボクを嫌っているんだろう」「きっとボクは選ばれた戦士であいつらは人間に害を及ぼす悪者なんだ」

彼はそういう疑問を持たずに、ただただ妖怪を倒していきました。

しかし、その価値観が180度ひっくり返る事件が起きます。

彼はその能力を買われ妖怪探偵となり、魔界に通じたトンネルを塞ぐという指令を受け敵を倒しに行きますが、そこでみてしまったのが人間の酷悪の極みとも言える営み…この世とは思えぬ悪の宴で、それは人間が欲望のままに妖怪を喰いものにしてる光景でした。

その光景をみて仙水は人間を護る側から、人間を倒す側へと価値観が変わっていきます。実際、彼はその場にいた人間を全員殺しました。

 

仙水の精神が崩れてから、彼は魔界に来たいという夢を持つようになりそれを遂行するために同士を集め魔界へ行くための穴を空けようとします。

 その穴を塞ごうとする遊助と戦うわけですが、ちなみにその戦いの中で、仙水は多重人格者であったことが判明します。

前のブログにも書きましたが、遊助は一度敗れ死んでしまいますが、実は妖怪を先祖に持つことがわかり、妖怪として転生します。そしてその妖怪として眠っていた力を呼び覚ますことで仙水を倒した。

 

ざっとこういうストーリーです。

 

仙水の価値観が変わったり、仙水が多重人格だったり、ストーリーとしては中々に濃厚な伏線があり、これを少年誌でよく書けたなと思います。

価値観が変わる部分を丁寧に見ていきますと、酷悪の極みとされる人間の営みを見た時に、コエンマは「彼は人間の存在そのものに悪を感じてしまった。」「人間全てに罪の償いを求めようとしている」と彼の気持ちを推察しています。

 

遊助と仙水が対決している時、樹という彼の仲間のうちの一人が言います。

「オレは彼が傷つき汚れ堕ちていく様をただ見ていたかった」「「キャベツ畑」や「コウノトリ」を信じている可愛い女の子に無修正のポルノをつきつける時を想像する様な下卑た感覚さ。その点人間の醜い部分を見続けた仙水の反応は実に理想的だったな。割り切ることも見ぬふりもできずにただ傷つき絶望していった。」

 これに続いて仙水が、「霊界探偵を続けていく内にね、心が何処かから腐っていくのがわかるんだ。だがそれを止めようとする気がおきない。何故かわかるかい。その腐食部分こそ本当のオレだということもわかってくるからさ。」

 

 幽遊白書HUNTER×HUNTERでは、この仙水編以外に登場人物がこのように自分の内面を赤裸々に語るシーンはないように思います。特に樹のセリフなんて、どう考えればこんなセリフを思いつくのかなと思います。(小児性愛者などはもしかしたらこう考えるのかもしれません…)この時期、作者の冨樫さんは精神的に相当追い込まれていたそうで、その精神状態がこのような設定を生んでしまったのかなぁ。

 

あと、この仙水編では黒の章という、このような人間の残虐な行為のみを集めたとされるビデオテープも存在しているとされます。何故かここで飛影がこのビデオテープに興味を示し、連れ去られた桑原を助け、仙水を倒す協力をしてくれたお礼として遊助はこのビデオを渡しました。

 

どうして飛影に興味を持たせる設定したのか。漫画には書かれていませんが、仙水と飛影に似たような根っこがあるからだと思います。

魔界統一編で躯が飛影の半生を語るシーンがありますが、飛影は「忌み子飛影」 として名を轟かせるほど、小さな時から盗賊として有名だったそうです。母の友人から生まれた時点で谷から落とされ、血が噴き出す寸前の真っ赤な肉の切れ目が好きで悲鳴を聞くと薄く笑うような壮絶な幼少期を過ごした彼の人生を考えれば、彼の嗜好も、もしかしたら仙水のように倒錯した部分があってもおかしくないなと思います。黒い服だけ着てるところとか、設定が似てる部分もありますしね。

 

この黒の章に関することには続きがありますが、長くなってしまったので今回はこの辺で。多重人格の部分ももちろん続きで。

 

コエンマの霊界告発と仙水とグレタさん。仙水編2 - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記

誰にでもある多重人格。幽白:仙水編3 - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記

 

戸愚呂弟の死と仙水の死の共通点 仙水編その4 - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記

 

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遊助が否定した戸愚呂の価値観をなぜ肯定したのか 幽白その3

前回まではこちら。

幽遊白書その1、HUNTER×HUNTERとの性質の違い(主観) - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記

遊助は何を守ったのか。戸愚呂に勝てた理由。幽白その2 - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記

 

前回の最後に「妖怪となった戸愚呂が死を放棄することで求めた「力」と遊助が死を肯定することで生から生み出される「力」がぶつかり、遊助が勝った。」と勝ちました。

つまり、遊助は妖怪を選んで力を求めた戸愚呂の価値観を否定したわけですが、この戸愚呂との闘いの後に展開される仙水編で仙水と遊助が戦っている最中に、なんと、遊助は妖怪になります…

遊助のずっと前の先祖は妖怪で人間と交わった時にできた遺伝子が数十世代もの隔世を経て受け継がれる魔族大隔世という現象が、遊助には起きていて、仙水と戦い一度死んだ後に、妖怪となって甦るのです…

 

これ、どう考えれば、いいんだろう。どうして作者はそういう設定にしたんだろう。自分の妄想をベースに考えています。僕は戸愚呂のトラウマの浄化がここで行われたのかなと思いました。

 

目の前で弟子を惨殺されて二度とこのようなことが起きないようにと人間から妖怪に転生し、戸愚呂は自分の強さを求め続けたわけですが、自分の強さを求め続けても、もはや人間界に彼に匹敵する力を持つ相手がいなかった。

それは結局、生は死に向かっていくからこそ、その時に持てる力を出し切れた人間の遊助に倒される。(死までが長すぎる妖怪はそういう概念がないのかもしれない)

でも、そういう価値観を持っていた遊助が妖怪に転生することで(=死んでしまうからこそ発揮できる力の否定)、死なないことを持って弟子たちの死を償おうと決意した戸愚呂の無念が初めて浄化されたように感じます。

 

戸愚呂は冥獄界という、地獄の中でも1番の過酷なもの自ら選びます。

コエンマは戸愚呂を霊界から見送る時に、「たとえ優勝して(弟子たちを惨殺した)敵を討っても自分自身の中で罪の意識が消えなかったのだろうな。それからのヤツの人生は償いというより拷問だ。強さを求めると自分を偽って…」と述べていました。

 この償いの意識が消えた時に、遊助は妖怪に転生したんじゃないのかなと思っています。

ストーリー上、仕方なく編み出された結果なのかもしれませんが、そうであってほしいなという思いを込めて。

 

仕事も出来ず暇なので、幽遊白書について書こうかなと思ったら、とても長い文章になりました。

お付き合いいただきありがとうございました。

幽遊白書に関してはまだ書いてみたいことがあるので、いつか書いてみようかと思います。

 

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遊助は何を守ったのか。戸愚呂に勝てた理由。幽白その2

その1はこちら

幽遊白書その1、HUNTER×HUNTERとの性質の違い(主観) - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記

 

そういう意味で、暗黒武術会以降の話、つまり戸愚呂編と仙水編、あと魔界統一トーナメント編は終わり方がいいなぁと思うんです。(HUNTER×HUNTERのキメラアント編もたまりませんが)

戸愚呂兄(以後、戸愚呂)は自分が最強と思っていた時に、妖怪に弟子を惨殺されてその時の自分を責め続けて妖怪になる決意をする。彼は妖怪になり老いを止めて、強さを求め続けていく一方、格闘仲間の幻海は老いて弱っていくことは仕方ないという考えでしたが、そういう考えを持つ幻海の弟子の遊助に最後倒されます。(戸愚呂は弟子を惨殺した敵を以前に出場した暗黒武闘会で倒し、その望みとして妖怪に転生しました。)

 

目の前で殺されたことを責め、強さをずっと追い求める一方、どこかでその虚しさというか強さを求めるという答えのない疑問に誰かに終止符を打って欲しかった。自分が強くなること、なってしまったことに対し、それを相手(敵)にも求めるようになっていきます。

遊助は桑原が殺されることで、自分は強くなるために全てを捨ててもいいという戸愚呂の価値観に自分がついていけないことに気づき(彼はどこかで戸愚呂に憧れていました)、自分の中に眠っていた力を解放することができ、戸愚呂を倒しました。

遊助は言います、「オレは…どこかで、あんたに憧れてた」「あんたが捨てたものの重みが…ようやく…わかりかけた」「オレは捨てねー!!しがみついてでも守る!!」「もう誰もお前に殺させねー、そのためにテメーを倒す!!」(コミック12巻参照)

 

この言葉の後に遊助の眠っていた力が解放されて倒すわけですが、ここで疑問に思ったのが、遊助が守ったものって何だったのだろうということです。

戸愚呂と比較して考えてみると、彼が自分の人間としての生を捨てて(妖怪になると寿命が人間とは比較にならないほど長くなる。漫画に寿命が書かれてあったかどうかは覚えていません)、妖怪になることで強さを手に入れた。

遊助は自分の人間の生を捨てずに、老いることを肯定し、生が死に向かうことによる人の生の儚さであったり脆さが逆に強さを生み出す(=つまり老いるからこそ、今ある力を最大限に使い切る)、それを守ったのかなと思いました。それは幻海と桑原が死んだ(実際は死んでいなかった)ことのショックがそうさせたこととも繋がってきますね。

戸愚呂が死を放棄することで求めた「力」と遊助が死を肯定することで生から生み出される「力」がぶつかり、遊助が勝ったわけです。

 

と、ところがなんですが、ここまで書いて後々のストーリーで矛盾が生じてきます。これは僕も今回のブログを書いて、考えを整理するまで全く気付きませんでした…漫画を読んだことがある人はわかると思いますが。

 

続きはこちら。 

戸愚呂が否定した価値観をなぜ遊助は肯定したのか 幽白その3 - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記

 

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幽遊白書その1、HUNTER×HUNTERとの性質の違い(主観)

 僕が日本からロンドンまでわざわざ持ってきた漫画は6つあります。(もっと持ってくる予定ですが)

本棚にあるのが「陰陽師」「レベルE」「幽遊白書」「さよならも言わないで」「HUNTER×HUNTER」「ホムンクルス」です。半分が冨樫義博さんで偏りすぎだろうという話もありますが、僕はその中でもやはり幽遊白書が好きです。

何回も読み込んだ結果、僕は10巻からだけ持っていて、それはなぜかというと、そこら辺から単純なバトルものから少しずつ一線を画していくからです。

 

僕はドラゴンボールはそこまで読み込んでいませんが、だいぶ前に通して読んだ時にこの物語は「悟空がただただ強い相手と闘う、それが自分の生きる意味なんだ。」と確信をしていく物語なんじゃないのかなと考えていたことがありました。

それは初めに強い敵が来たら小さい悟空は死ぬし、そういうことってバトルものではありがちな矛盾なのですが、ドラゴンボールに詳しい患者さんに悟空が闘うことに関して考えるシーンがあったのか聞いてみたところ「オラワクワクするぞ」と言うコメントがメインだが、セルと闘った後に「自分がいるから強い奴らが現れる」という意味深なコメントを残していたそうです。

 

それはさておき、今回は齢36歳のおじさんの僕が改めて漫画を読み返して考えたことを書こうと思います。まずは幽遊白書から。設定などは説明し出すと長くなりすぎるので、興味がある方はこちらを参考になさってください。幽☆遊☆白書 - Wikipedia

未だにHUNTER×HUNTERは続いていますが、改めて両方を読み返した時に感じるのは、幽遊白書の方が内省的なストーリーになっていることです。敢えていうなら、HUNTER×HUNTERがサスペンスで幽遊白書がヒューマンドラマというか。

訳がわからないと思うので説明を加えると、僕個人の中で、サスペンスって「人が死ぬ」ことで展開するなと思うんです。その「死」という、もう過去には引き返せない事柄を巡り、どうしてそのことが起こったのかを読んだりすることで読み手の感情を揺さぶるわけです。

でも、死んでしまったら、なんというか、ある意味そこで終わりじゃないかと僕は思うんです。人ってそんなに簡単に死なないと思うし、ブログでも書きましたが、鬱っぽかった時に死ぬ以外に方法はないと勝手に思いつめて、急なS字カーブに自転車で毎日突っ込んでいましたが、中々死ねるもんじゃありません。

 

そこに至るまでに感情がとても揺さぶられることはあってもその後の余韻は残らないというか、僕の中で死を選ばせるのは「作り手にとって無難な手を選んだ」そんな気がします。

その一方で、ヒューマンドラマの特徴は人が死なない。(もちろん死ぬこともありますが、あえてサスペンスとそのように区別してみます)そして、その死なないことによって、物語が終わらないので登場人物の心情がズンと心に響くことがある。

そういう性質の違いが両者にはないかなと考えています。

 

続きはこちら。

遊助は何を守ったのか。戸愚呂に勝てた理由。幽白その2 - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記

 

戸愚呂が否定した価値観をなぜ遊助は肯定したのか 幽白その3 - ロンドンの、船上の鍼灸師の日記

 

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これ何回読んだかなぁ。1993年発刊なので、もう25年以上前ですね。

未だに僕は読んでしまいます。

ゴーストタウン化したロンドンと時間が増えたのに全く足りないと感じる自分自身と

ロンドンは今ゴーストタウンのようです。

先々週ぐらいから不要不急の外出はやめるように勧告が出て、今週からついに私が勤めているマッサージ、鍼灸施術を行うクリニックも閉まりました。

自営の治療も休まざるを得ない状況になり、ここ1週間近くは仕事をすることなく基本家で家族と過ごしています。

 

日本がお花見をしたり、患者さんから電車は満員だという話を聴くと日本は本当に今のような対策でいいのかな、本当にコロナウィルスの感染者ってあんなに少ないのかなと勘ぐってしまいます。

それぐらい、ロンドン(きっとイギリスのそれ以外の都市はもっと酷いはず)の街は郊外も含め人気がありません。

 

それはさておき、じゃあ基本家に居ることになると自分の時間が増えるはずなので色んなことができるはず!と思っていたのに全然時間がない。1日1時間ぐらいは本が読めていますが、もっと時間はあるはずなのにどうしてなんだ!と思い、どうやって時間を消費しているか考えてみました。

 

考えた結果、子供と接する時間が大幅に増えていました。前まではクリニックへ週3回行っていたので、9時半ー20時まではいなかったですし、それ以外にも出張や自宅で診ていたので、1日1時間も接していなかった日がありました。それが今では基本ずっと一緒にいるわけで、今までいかに子供と一緒に時間を過ごしていなかったかを通過します。

子供といる時間は自分の時間のようで全く違うので、何かしてるようで何もしていないもどかしさがあります。

今まで自分中心で生活をしてきて自分の思うように時間を使ってきたのが、子供といるとそれができなくなる。勉強もしたい、映画も観たい、漫画も読みたい。世の中にはすでに自分の人生を全て文化に費やしたとしても、それを上回る量の文化の遺産があります。

 

子供が生まれる前は、あんなにライブや映画館に行っていたのに、どちらも行けていません…子供の成長する姿を見れれば何を犠牲にしても…なんていうのは、未だに僕は思えず、それなら自分の好奇心を満たしてくれる何かに接していたいという欲は消えません。

 

大人になると欲がなくなっていくといいます。高齢者になると同じものを食べる傾向が強いなと感じていますが、それは欲がなくなっていることの例だと思いますし、逆に言えば、それは自分の時間を自分の欲のためではなく、子供など人のために使えるようになるための人間の動物としての自然なプロセスなのかもしれないな。その一方、マーケティングという言葉が流行る中、私たちの脳を刺激しようとする業界は発展していくなら、僕の欲はいつになればなくなっていくのだろうか…

ずっと刺激を求めている気がしてなりません。

 

歳を重ねるにつれ、新しいものに挑戦したいという欲が消えていくのかな…と思うと寂しくなりますが、そんなことより目の前に子供がいるとそんな悠長なことも言っていれません。

 

子供と接しながら、いかに自分の欲を刺激できるか。それが僕の至上命題です笑

 

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こんなイベントはもうありません…