英国の、船上の鍼灸師の日記 the diary of acupuncturist on Great Britain, cruise ship

2012年から客船で鍼師として働いていましたが、2017年からロンドンで再び治療家として働いています。治療のこと、クルーズのこと、食べ物のこと。色々綴っていこうと思います。

鶏を殺める2 死が食に変わる。デジタルではなくアナログの生→死を

前回は鶏の首に包丁を入れ、殺めたところまで書きました。

 

前回も最後に書きましたが、屠殺を行う前に包丁を研ぐ人の気持ちが今思い返すとわかる気がします。

いのちの食べかた」なんかを観ると、そういう価値観とは全く違う、車にガソリンを入れるように私たちの食べ物が作られてる様子が映されていますが、本当に私たちは「死」を目の当たりにする機会が減ったし、「死」を実感することも減ったなと思います。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/いのちの食べかた

きっとそれはいいも悪いもなく、人類のある地域の意識の総意としてそういう選択をしたんだろうな。

 

話を戻すと、まず首から下の鶏を逆さまにして、血を鍋の中に全て入れます。モツ煮で食べる時に使うためです。

普段イギリスにいると蚊がいないため、滅多に肌をかかず血を見る機会が減りました。こうして鶏に流れていた血を集めて固まっていく様子を見るのは不思議な感じです。

想像以上に早く固まっていき、血小板の凝固作用の凄さを垣間見た気がしました。

  

次のステップが前回書いたお湯です。

お湯で何をするかといえば、鶏についている羽や毛をむしります。プチプチっという音を立てながら、羽は思ってるより簡単にむしれました。

きちんとむしらないと、食べる時に毛が口に絡まってとても食べにくいらしいのでピンセットまで使って丁寧に全ての羽・毛を抜きす。

友人がむしる前に言っていました。

「この行程が終わったら、よく知ってるあのチキンになるよ。」

 

その言葉はとても的を得ていて、イギリスだとよく売られてるあの形です。

当たり前なのですが、その当たり前ができる前と後の間を自分がしたのだと思うと、当たり前の後の姿に敬意を払いたくなります。

それはまるで、デジタルの0から1をアナログの0から1として認識し直したような感覚です。

 

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そして、次に鶏を捌きます。

人によって様々なさばき方があるらしいです、例えば、まず内臓を出すかどうかなど。彼は基本農家で鶏をさばいた経験があまりないため、内臓を取り出すのではなく、モモ、手羽など表面にある筋肉をとっていくやり方をしていたので、僕もそれに倣いました。

内臓を先に取り出すのが、一般的らしいのですが、万が一内臓に傷が入り、糞などの汚物が筋肉などにまみれたり、尿が逆流して鶏が汚くなると、鶏肉が美味しくなくなるそうです。

まずは包丁を人でいう剣状突起からお尻まで入れ、剥けた皮をすべて取り除きます。

そして、肋骨のラインに合わせてモモを取り除き、次に手羽を取り除く。

これらは人の手足にあたる訳ですが、まずは取り除きやすくするために体幹と分離させる必要があります。そうでなければ、体幹と一緒に動くため、うまく捌けません。

 

そのためまず何をするかと言うと、脱臼させます。

書くと簡単で今思うとずいぶん機械的にやっていたなと思うのですが、「バキッ」と音をさせながら、体幹と手足を分離します。

僕らは手羽先を食べる時に、何も考えず関節部を取り外しますが、もしあれを生きている人間にやれば、猛烈に痛いんだろうなとさばきながら考えていました。

 

そして手羽とモモを除いて、次に剣状突起の下の部分から背中の方に手を入れ、胸郭を開きます。ここはコツがつかめず苦労しましたが、ぱかっと外すと、内臓が全て出てきます。

横隔膜はどこにあるのかと思うかもしれませんが、実はありません。横隔膜は進化論でいうとかなり最後に発生したもので、哺乳類にしか存在しません。

横隔膜ができたことで、哺乳類は呼吸器循環器と消化器系を分けることができ、2つの機能をより発達させることができたのです。それは口腔でも同じことが言え、人の場合、食べる機能としての口と呼吸する機能としての鼻が口蓋で分離していますが、例えば蛇はしていないので食べている間は呼吸ができません。

 

話を戻すと、横隔膜がないので、胸郭を外すと、心臓や大腸、肝臓、小腸など全てが突然出てきます。

それは背骨を軸にぶら下がっている果実のようにさえ見えます。

腹膜や心膜を剥がしつつ内臓を取り出していきますが、 心を揺さぶられたのが、心臓がまだ暖かかったことです。

血液は体温保持のために必要とは知識で知っていましたが、それを身をもって体感しました。

それはホルマリンに漬かった献体を対象にした解剖実習では知ることのなかった感覚であり、医者が人に麻酔をかけて手術している時に体感する感覚なのでしょう。

でも、その心臓の暖かさはただヤカンに触って熱いというのではなく、もっと物質的な熱さ、柔らかい熱さ、実感のこもった熱さ、いや、赤ちゃんを抱っこした時に感じる生々しい熱さのもっと柔らかい熱さでした。

死がどういうものか説明出来ないように、生もまた、根源的な意味、つまり心臓が止まるという物質的な意味において、説明が難しいです。

それは21グラムのように、魂の熱さなのかもしれません。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/21グラム

 

内臓を食べられるものと食べられないものにわけ、食べられるものはモツ煮としていただき、他は炭で焼いて、食べました。

 

スイスに住んでいる友人は動物を肉として食すことに抵抗があり、もう20年以上ベジタリアンです。彼はスイスではその当時義務だった兵役を拒否して刑務所を選んだ、自分の意思を貫く人でした。

彼のその姿勢はずっと僕の心にあり、初めは食べるのに抵抗がありましたが、美味しく食し、何も罪の意識と言うものは今のところ感じていません。

 

それがいいのか悪いのか。正直わかりません。

ただ、誤って切断してしまい生気を失った、鶏の首は忘れません。

 

今日は広島に原爆が落とされた日です。

 

死についてもう少し思いをめぐらし、デジタルの1から0への死じゃなくて、アナログの死の余白について少しでも埋められたらと思います。

 

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 長崎のものですが、行ったことがあります@原爆犠牲者慰霊平和記念式典

今でもなんとなく、この紙を見てると、少なくとも僕はこの時生かされたのかなと思ってしまいます。実家の神戸だって落とされたかもしれないわけだし。