「世界は広いかもしれないけど、世間は狭い」とおざけんの天使たちのシーンの一節
「世間って狭い」
自分の知っている人が僕の知ってる人の知り合いだった時に、この言葉使ったりしたことってありませんか?
先日も大学時代の友人(=A)がイギリスで修士を取りに1年間来ているのですが、僕の患者さんがその友人の知り合いだったことがありました。
また、Aの上司は、Aの友人も知ってたりして、関係が鎖のように繋がってたりします。
でも、こういう経験を何度もしてきて学んだことがあります。「世間は狭いもんなんだ。」と。
小学校に入学して、中学高校と進んでいくにつれて、いじめって少なくなると思いませんか?そして、大学になると所属してる部活などではあるのかもしれませんが、学部では僕の大学ではそんなの一切ありませんでした。
なぜかと言えば、「中高と進んでいくにつれて、自分がどういう人間かわかってくるので、合わない人とは交わろうとしないから」だと思います。
自分がどういう人間かわかれば、例えば自分の趣味が会う人同士で固まるので趣味趣向の合わない人と話はしません。
でも、学校という強制的に共生する場所があると、自分と合わない人とでも生活して過ごさないといけないから、そういう人を排除しようとして「いじめ」が例えばおきるのではないでしょうか。
そういう人生の通過儀礼を終えて社会人になったにも関わらず、イギリスで駐在員同士で人間関係のいざこざが起きるという話を聞く時、学校の時のように「合わないにも関わらず日本人コミュニティの一員として強制的に共生しないといけなくなる」からこういうことが起きるんじゃないだろうか。
話がそれましたが、一方で、そういういざこざが好きな人もいます。人の悪口やうわさ話を酒のつまみにして盛り上がったり。僕も嫌いなわけじゃもちろんないですが、すぐ飽きるというか今に生きてないなと思って、そういう話に付き合わなくなります。
それでこういう感性を持っている僕の友達も、だいたいそういうのが苦手な人が多いです。つまり、そういう似たような属性というわけです。
そこから想像を膨らませると、(僕は知らない)僕の友達の友達もそういうのが苦手な人が多い。つまり、A=B, B=CならばA=Cというわけです。
だからこそ、始めに書いた、僕の友人と僕の患者さんが知り合いだったにするわけです。
その時にはたと気づいたのです、
だから「世間は広い」なじゃなくて、「世間は狭い」もんなんだと。全世界の人口は60億人以上いるとされていますが、その中で自分と気が合う人なんてたかがしれてます。きっと500人もいないんじゃないでしょうか。
だとすれば、その500人はお互いどこかで繋がり合うもんですよ。今の時代じゃ尚更です。
その時に、僕の好きなオザケンの歌の一節が浮かんできました。(「天使たちのシーン」より。)
愛すべき 生まれて育ってくサークル
君や僕を 繋いでる緩やかな止まらない 法則
10分以上続く長いもので、詩の朗読を聞いているような歌です。その中で繰り返し歌われているのがこのフレーズ。
どういう意味なのかなぁと聞く度に思ってたのですが、僕なりの1つの答えがこの「世間は狭い」ということなのかなと。
これは「歳を重ねれば重ねるほど、少し話しただけで初めて話した人とは仲良くなれるかがわかる」というのにも似てるなと思ってます。
自分に正直になっていれば、色んな繋がりが生まれて、素敵な出会いが起きたりする。それは次会うことはもうなかったとしても、そこで繋がった瞬間は、各々の心の中にどこかに残ってたりしませんか?
それが「過去にあったなぁ」って思うんじゃなくて、いつでも今日でもそのサークルは育って作れると僕は思ってます。
治療家として僕は色んな人と出会いがありますが、僕を介して他人が出会えないかなといつも思います。
自分で店を持った時には、そういうことをしたいな。
ストーンヘンジ@イギリス
途切れない虹@St.Kits and Navis