生かされている生き方と被害者意識3
生かされているという生き方は、自分よりもっと大きな存在の恩恵を受け、それらに敬意を払って生きるという考えもできますが、そこに自分の核や信念のようなものがなければ、自分の生き方に自信が持てず、受動的に自分の生を捉えているともとれると思ったのです。
私の場合、それは自分の精神状態で持ちようが変わります。
元気な時であれば生かされている生き方に感謝の気持ちが溢れます。
でも、落ち込んでいる時は、核のない自分に自信がなくなり、淡々と過ぎる毎日に対して、この先に将来があるのならこのままゆっくり衰えていく自分に未来はないと不安が募ります。
であるなら、「自分は生かされている」と思うことは大切ですが、それは「自分は生きている」と信じていることの上にもしかしたら成立しているのかもしれません。
その時、その「生かされている」という意味がより強さを持って輝き出すのではないでしょうか。
次に考えたのは、「自分が生きている」と思えるようになるにはどうしたらよいのか?ということです。
ぱっと思いついたのは、子供を持つことでした。
子供ができると、人間として大きく変わる人がいると聞いたことがあります。
自分がある存在に100パーセント依存される。自分はその存在を生かすために生きる。
それは「自分が生きる」ための何よりの理由になるのでしょう。
ですが、私のように30を過ぎても独身の人たちや結婚をしても子供に恵まれない方々、同性愛者の方々などは、どのようにして「自分が生きている」という感覚を持つのか。
「リア充」という言葉があります。船で働いている時は毎日違う港に着き、その場所場所で観光しつつ、患者さんを診るという生活は確かに充実していました。
今現在の生活は、週末のために働き、安定しているようで、目に見えない不安に押しつぶされそうな感じがします。
陸で働くと、不安となる情報がテレビからラジオからネットから入ってくるため、大なり小なりそのような感覚に襲われるのかもしれません。
諸々を突き詰めていくと、やはり自分が好きなことを仕事にするのが、なにより「自分が生きている」と思える人生になるのかもしれません。
子供のために自分が生きるのも、裏を返せば、子供が巣立てば、自分が生きている感覚を失くす可能性もあるわけですから。
自分が生きていると思えた瞬間っていつなのだろう。
改めて考えると、私にとっては、自分が治療家として患者さんに接し、その人のエネルギーが前向きなものに変わって行った時のように思います。
その過程は、どんな美術作品よりも美しいなぁと何度も思いました。
あなたは、どんな時に自分が主体的に生きていると感じますか。
時々振り返って、将来の自分を見失わないしたいものです。