英国の、船上の鍼灸師の日記 the diary of acupuncturist on Great Britain, cruise ship

2012年から客船で鍼師として働いていましたが、2015年はイギリスで働くために有機食品の会社で働き、2017年からロンドンで再び治療家として働いています。治療のこと、クルーズのこと、食べ物のこと。色々綴っていこうと思います。

生かされている生き方と被害者意識1

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ある朝目覚めた時に、なぜかこういう感覚を持ちました。

 

「自分のことを何かにつけて被害者だと思っている」

 

覚えていませんが、そういう夢を見たのかもしれません。

 

私が見たり聞いたりとしているものは、脳が視覚や聴覚を通して得た情報の再現であり、すべてを等しく処理しているわけではなく、自分が見たいものや聞きたいものを見聞きしています。

そうなると、記憶もまた自分の都合のいいように書き換えていることになると言えそうです。

 

1週間ほど前、お盆という事で亡くなった友人の仏壇に線香をあげに行きました。

 

一緒に行った友人の中で、高校時代に私をいつもいじっていた人がいました。

 

私はそれをいじめと認識し、鬱屈した高校生活の原因の1つとなったのですが、彼はそれをからかっただけと捉える。

 

普通そういう場合、一生会うことはないと思いそうですが、私の場合、彼はすごく仲のいい友人の1人です。

 

仲がいいぶん、一緒に呑むと、あの時はああだったよなというよくある会話の中で、この高校のいじりが話題になります。

 

そして、お互いの認識の差を目の当たりにします。

痴漢には具体的な行為がありますが、いじめの場合、「からかう」の延長線上にあるのであれば、その境界線はとても難しい。

むしろ、「からかう」の先にあるからこそ、からかっている側はいじめだと認識できない。

とはいえ、からかわれる側は徐々にエスカレートしていくのがわかり、また、からかわれている行為がいじめという行為に変わる瞬間というのがあります。

その瞬間こそが、からかわれる側にとって、「からかわれる」から「いじめられる」に認識が変わるのだと私は思います。

 

だいぶ前に確か和田アキ子さんと島田紳助さんの番組で、いじめた人がいじめられた人のところへ謝りに行くという企画があり、そこで、いじめられた人が拒否したというシーンがあり、とても覚えています。

 

NHKドラマで藤原竜也さんが主演のいじめをテーマにしたものがあり、彼がいじめ後遺症で苦しんでいる姿が映されていました。

同窓会が催されるに際し、いじめた側やそれを静観してみていた人たちは何気ない気持ちで主人公に声をかけるも、彼はフラッシュバックで苦しんだりしていました(一部記憶があやふやです。)

 

例にあげた2つのテレビの番組をみても、加害者と被害者には埋められない大きな壁がある。

加害者が大人になって、被害者にどんなことをしたのか後悔したとしても、被害者にしたことをご破算にはできない。

そうであるなら、加害者なんかほっといて、被害者が自分の受けた傷を見つめ直し、立ち直るしかないと思いました。

 

そして初めに書いた、起きた後の感覚に戻るのです。

 

私がその友人と話してから1週間ぐらい経っていましたが、無意識にずっと考えていた結果、その感覚を持ったのかもしれません。

 

いじめ後遺症でもそうですが、1度「自分は被害者だ」と思うと、その呪縛からなかなか抜けられません。

 

それは自分の性質が「被害者」という意識を持たせるのか、それとも体験(ここではいじめ)が意識を持たせるのか。

後者であれば、誰しもが「被害者」という意識を持つことになります。

ですが、例えば戦地に行かれた方が全員後遺症に悩まされPTSDになるかと言えばそうではないように、結局は個人の性質と体験が混ざり合い、被害者という意識を持つ人は持つし、持たない人は持たないのでしょう。

(もし仮に全員がPTSDに悩まされることがあれば、戦争なくなっているのかなと思ったりします)

 

 

「自分のことを何かにつけて被害者だと思っている」

 

この意識がどこから来たのか、また、それによって被害者意識以外にもどんな意識を持っているのか。

 

次回以降考えていきたいと思います。