「聴」ということについて。 FAKEとクリスティーンさんとLISTENと
LISTENという映画をご存知ですか?映画『LISTEN リッスン』
今日たまたま時間ができ、映画でもみようかとネットサーフィンしてたらたまたま見つけたこの映画。
今年は、森達也監督のFAKE(映画『FAKE』公式サイト)やNHKのスーパープレゼンテーションでやっていたクリスティーン・ソン・キム(すてきな手話の響き|スーパープレゼンテーション)など聴覚について考える機会が多いなぁとこの映画を観て考えました。
*FAKEは今関西だと、最近はアンコール上映もされているようですね。佐村河内さんを巡っての音楽に関するドキュメンタリー。
*クリスティーンさんは音を視覚化することで作品を発表しています。
どちらも聴こえる、聴くなど「聴」ということを考えざるを得ません。
このLISTENは聾の人たちの音楽に対する表現を追った映画。(監督も聾の方です)
聾の人たちから見た世界が映像となるのは、初めてで本当に新鮮でした。
この映画を観て、私は取り残された気がしました。彼らが手話を通して話したり、踊ったりしているのに、それがわからないシーンがある。(あるシーンで、俳優の動きが手話だったのがわからなかった。)
この映画の中では、聾の人が主役で会話をし、観ている側(いわゆる健常者と言われる私)は、その会話に入れずその様子を観ているだけ。
この取り残された感覚は、でも、聾の方々がいわゆる健常者の中にいる時の感覚そのものなんだろうなと思うと、FAKEやクリスティーンさんのものとはまた違うことを考えることが出来ました。
私たちは脳を経由してでしか世界を構築できません。
目にある光を感じる細胞を通して、世界を見て、耳にある振動を感じる細胞を通して世界を聞く。
最近読んでいる脳科学の本の中にこういう一文がありました。
「脳にとっては実際に見たものとされるものと、錯覚として見たものとに違いはない」(光を感じる細胞が興奮して「見た」と判断するから)
LISTENを観た時、その言葉が揺らぎます。映像の中に出てくる言葉は、私に取っては言葉ではないのです。聾の人たちが理解出来ることが私には理解出来ないわけですから。
彼らが理解している世界と私が理解している世界は違っている。そのことがよくわかりました。
治療を生業としていて、人の知覚や記憶ことの危うさに向き合うことがあります。人は自分が生きていることを肯定するために、自分の都合のいいように起きたことを解釈しようとする。例えば、他人がどれだけ「考えすぎだよ」と言っても、その当人にとっては、過去の経験からそのように「考えざる」を得ないのです。たとえそれが杞憂だとしても。
そういう前提がある中で、どのように患者さんに接することが出来るか。それが私が人を診る中で大切になるなと思っています。
そういう意味でも、私の視野を拡げてくれる映画となりました。(想田さんの精神とかもそんな映画かなぁ映画『精神』)
シン・ゴジラのようなマクロなテーマの映画もいいし、このLISTENのようなミクロなテーマの映画もいい。
映画を観た!という気になれないのがミクロなテーマの映画の弱点で、それがネックで観る気になれないという人もいるかもしれませんが、この映画は「耳栓をつけて映画を観る」という新しい体験ができます。
無音の58分間。
いい映画をみれてよかった。