「現代アート」のまやかしとそれが示す「正しさ」。棒人形がアートに見えてくるからくり
運転していたら聞こえてきたラジオでの一コマ。
新商品を紹介するコーナーで、ある方(仮にAさん)が車内の携帯スタンドを紹介していました。
すると、相手の方(Bさん)が、「単なる棒人形にしか見えませんね。」との激辛コメント。
言うなぁこの人、と思っていたら、Aさんが「でも、このスタンドは某有名車メーカーのデザインも手がけた有名なデザイナーによるものなんです。」と返します。
するとBさんが「そうなんですか。そう言われると、現代アートのように見えますね。」というコメント。
この現代アートという括り。
そして個々人によるその言葉の使い方。
個人的にはアートがかわいそうに思えてなりません。
有名な誰々が作ったもの。
というだけで観ている人の作品に対する見方や評価が変わる。
それってすごく寂しいです。
自分が美しいと思えば美しいといえばいいし、そう思わないのに、現代アートっぽいという解釈を差し込むことで、その作品を肯定しようというのは、自分の否定になるのではないでしょうか。
でも、ここまで書いてこうも思うのです。
現代アートという尺度を用いることで、自分の見方という枠から抜け出せるのではないかと。
32年自分の生を全うしていると、自分の物事の見方が自分の尺度に納まったものになっているなと思います。
興味のある話題や、イライラする事柄などなど。
数多ある生の中から自分がそれを選択し、全うしようと決めた。
自分の人生は、自分が選択した結果なのだと思います。
選択したものだからこそ、それを肯定しようとしてしまう。だから自分の尺度に固執する。
それが、「アートかも」という認識を入れることで、その尺度に穴が開くなら素敵なことなのかもしれません。
自分の生の肯定と否定のせめぎ合いは、きっと死ぬまで続くんでしょう。
人によって、各分野での知識の濃淡はありますから、自分がよく知っている分野では自分の意見が正しいと思って肯定すればいいし、知らないと素直に聞いて受け止め、知識の肥やしにすればいい。
そうあるべきなのは分かっているのに、その自分の知識に固執してしまうものだから、素直に聞くべき部分を自分の色(尺度)に無理に染めようとして、ややこしくなる。
自分はその分野に詳しくて正しい評価ができると思っていても、それ以上の知識を持っている人からすれば、間違っていてちんけな判断と映るかもしれない。
こういうことを書いていくと、何が正しいのかはよくわかりません。
きっと「正しい」ことなんてないのでしょう。
謙虚に生きたいなと改めて思う今日この頃です。