ロンドンの、船上の鍼灸師の日記

2012年から客船で鍼師として働いていましたが、2017年からロンドンで治療家として働いています。治療のこと、クルーズのこと。色々綴っていこうと思います。ウェブサイトはこちら。https://www.junjapaneseacupunctureandshiatsuclinic.com/

自分の感覚と客観視と

文章っていろいろな書き方があると思うんですが、最近気になったのが、自分の感覚を伝えるか、状況を客観視して伝えるかということです。

 

例えば怪我をして血が出たときに、
自分の感覚で書けば「道端で転んで怪我をした。膝からどろどろとした赤いものが流れてきた。」となるのに対し、客観的に書くと「道端で転んで怪我をした。膝をすりむいて血が出てきた」となる。

 

その後、歩いていて痛みを感じたときに、
「歩くと血が出たところから、いなずまのようなものが走り、膝から下が自分のものじゃないような気がする」
「歩くたびに転んだ箇所に痛みが走り、自分の体重をのせられなかった」

と書き分けられたりする。

 

ある女優さんのエッセーを読んでいるときに、この人の文章なんか素敵だなーと思っていて、どうして素敵なのかと考えたところ、一番はじめに書いたことに思い当たったわけです。

僕は堅い文章を書く人間で、例だと後者の書き方をブログでも日常生活でもしてきました。ちなみにその女優さんは前者のような書き方をされてるように感じています。

前者のような書き方を真似てみたときに感じたのが、「言葉は呪文だ」ということ。「どろどろとした赤いもの」ってもちろん「血」のことなんですが、「血」が誰にとっても同じように「血」であることは、客観的に伝えるという意味では正しいと思うのです。
でもその「血」ってどういう感じ、感覚なのかを考えると、人によって違ってきます。状況によってももちろん。そうなら「血」は「血」であるようで「血」じゃなくなる。

 

だから、その転んだときの「血」を「血」というただの記号で伝えないその時の「私の血」を文章として書くために、「血」ということばを使わずに血を表現する。
その時に、文章は書いた人独自の個性を持つんだろうし、小説家というのはその文章を紡いで物語を書く人のことなんじゃないでしょうか。

文章を書いて自分の独自の感覚を伝えるってすごく難しいなぁと改めて思います。

 

施術家でも、理論的に考えて身体をみる人と感覚を大事にして身体をみる人とにわかれる気がします。

僕はどうなんだろう。。。と考えたのですが、理論的に考えていそうで、最後は感覚を大事にしているなと思います。

 

カイロプラクターは背骨の骨の何番がどう傾いているかを分析して調整します。そこはとても理論的で、細かいところまで見る必要もあります。

僕はそれに挑戦しようと何度もしましたが、全然できない。ある程度のイメージを理論的に見ますが、そこまで精密にみる時間も集中力ももてません。。。

全体を触ってイメージを持って得た違和感からアプローチしていっています。

 

どっちが正しいのかはわかりませんし答えはありませんが、自分は全体のイメージから絞っていくやり方の方が性に合っている気がします。

精密さはもてていませんし、持つ努力はしていますが、どうしてもできないので自分に合うと感じるやり方で精緻さを持てないかなと今は考えています。

 

師匠に怒られる気もしますが、まあ仕方ないと諦めて頑張ります。

 

自分にもっと素直に。文章も自分の感覚を磨いて書いていこうかな。

 

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「身体が弱い」の考察。横隔膜と肝臓、胃、食道がどう繋がっているんだろう。

お題「マイブーム」

 

施術家にとって施術を考えるのは、マイブームという名のライフワークですが、前回に続いてお腹について考えます。

 

横隔膜の動きを撮影した動画があります。

www.youtube.com

 

これを見ると、吐く動き、つまり、横隔膜が縮まる(=上に上がる)動きは活動的に見えます。その一方、吸う動き、つまり、横隔膜が緩み下に拡がる動きはほとんど見られません。(付いている胸郭の底部より下にはほとんど下がりません。)

普段意識して呼吸をしてみると、少なくとも私にとっては横隔膜が胸郭より下に下がって大きく吸えてるなぁと勝手に思っていましたが、実際身体に起こっている動きは私たちが勝手に想像している動きとは全然違うことがよくわかります。

 

身体が弱っている高齢者や、そうでなくても体調が優れなかったり、元々身体が弱い人で胸郭と臓器とが離れているなと思う人がいます。胸郭の底部つまり、横隔膜がつくところがくっきりと浮き出ている方です。

どうしてこの方は身体が弱いのかなと考えていたのですが、この呼吸の動画を見て思いついたのが、吸う時に胸郭・横隔膜が密接に接続する胃・肝臓・食道をうまく押せないからだと思うのです。

 

オステオパシーという治療法にヴィセラルマニュピレーションというテクニックがあり、これは内臓が持つ独自の動きを回復させようとするものがあります。

例えば肝臓と胃の間には肝胃間膜というものがあり、この膜が何らかの理由で硬くなってしまうと、肝臓と胃はそれに邪魔されて独自の動きができません。この膜をセラピストの手で緩めて、独自の動きを回復させるわけです。

セラピストの圧でもって膜の圧・抵抗を感知し、その膜の硬さをとるわけですが、よく考えると呼吸という動作が胸郭と腹部臓器の隔たりとなっている膜を仕切りとして上と下が押し競饅頭のように押し合いっこしているわけです。

ところが、上記の方のように肋骨が浮き出ているとような方だと、横隔膜が胃や肝臓を押そうと思っても、うまく押せません。

つまり、硬くなってしまった肝胃間膜を横隔膜で押して緩めることが出来ないわけで、自分で自分の身体に対してヴィセラルマニュピレーションができないということになります。

それは自分で自分を治療する力が弱い→免疫力が弱いということになり、一般的に言われる「身体が弱い」人になります。

 

一方その逆もあり、特に今のような忘年会シーズンに多いのですが、食べ過ぎ飲み過ぎで、胃や肝臓が横隔膜を押し上げてしまい、胸郭にストレスがかかって肩がこる人。

食べ過ぎ飲み過ぎの方の肩こりというのは、独特の硬さがあり、初めにうつぶせで肩を触った時になんとなくわかります。

これはまさしく、押し競饅頭で腹部臓器の圧が勝り、上に圧を押し上げた結果といっていいでしょう。重力にも勝るわけですから、相当な圧であることは間違いありません。

 

お互い気をつけましょう。

 

呼吸の動画を見て抱いた違和感を実はこの1ヶ月ぼんやり考えていたのですが、今回ブログにするにあたってかなりクリアになりました。

文章にするというのはやっぱりいいもんですね。

 

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内蔵の輪郭

最近施術をしていて、内蔵の輪郭が気になっています。

というより、以前からそういう変化が生じていたのに、気づいていなかったというのが正しいんだと思う。

僕の仕事が鍼や指を通して、身体に圧を加え調整していく仕事なら、どこかに偏っていた圧を解放することで、圧が分散して圧の足りてないところに移動する。

 

始めは弱っていたのでだらしなかったお腹にいつのまにか圧が集まってきて引き締まっていく。それは肩や腰に溜まっていた圧が移動していった結果ではないのかと思うのです。

(その一方で、輪郭が出て来たと思ったら、また少し緩んだりしている。これはうまくいったのかいってないのか。まだはっきりわかっていません汗。。。)

 

身体は部分と全体がお互いに関連しあいながら引っ張り合いっこをしているなぁとよく思います。

純粋な物理現象に対して、感情や記憶(外傷含む)が物理というものを超えた存在として圧の偏りを生じさせる。

東洋医学に気と血という概念があり、気が血を動かすなんて言いますが、それはまさしくこういうことを指しているのかもと思います。

 

便秘も考えようによれば、「腹圧が弱ったお腹に圧を生じてかろうじて身体が立てるようにしている」とも撮れます。そうであるなら、なぜ便秘が起きるのかの糸口になりそうな気がするのです。

じゃあ下痢はどうなんだろう。圧を保持すらできないのか。もしくは、圧を保持する必要がないのか。その両方か。

 

お腹に圧が戻ると、横隔膜が下がって、胸郭も落ち着き呼吸がしやすくなります。

深呼吸は深く息をすると書きますが、最近それは注意しないといけないと思っていて、「楽に」深く息をしないとかえって、息が浅くなるんじゃないのかな。

なぜなら、楽にしないと呼吸をさせようとする神経が無理に興奮してしまって、いたずらに交感神経を煽るからです。

 つまり、自分の身体が無理をしない範囲で深く呼吸をする。

これはやってみると、案外気持ちがいいです。

 

今日アトピーの人が来られたが、全体がむくんで圧の偏重がとてもわかりにくかった。内蔵が弱るというのはこのことか!という典型例だったと思う。一回では難しいけど、回数重ねればある程度改善できるはず。 

 

もっとうまくさばけるよう、さばけるよう。

 

 

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方法論より原理原則

お題「マイブーム」

 

人を施療し、改善が見込めるようにする。

その意味ってすごく広い。肉体的なものもあれば、精神的なもの、神経的なもの筋肉系、はたまたそれ以外。。。

 

それは複合的なものでその中でも得意なものお、自分が好きなものを選んで仕事にしていきます。

占いを通して施療する人もいれば、マッサージを通してする人もいるわけで。

 

僕はもちろん鍼灸師あん摩マッサージ指圧師なので、身体の組織(筋肉や神経、臓器などはすべて細胞なわけで)を勉強して施療するわけですが、組織をどのように勉強するかというのは本当に色々ある。

脈診や腹診、筋肉の起始停止などなどあげればもちろんキリがないけれど、その中で今ハマっているというかずっとやっているのが、骨です。

骨の解剖図を見て、ここにはこういう筋肉がこうついているとかを妄想する。

 

基礎中の基礎と言えばそれまでなのですが、だからこそ自分の中でまだまだ見落としていることがあり、その見落としていることが、身体にとってとても重要なことじゃないのかと改めて思っています。

例えば、この絵。(ネッターより拝借)

 

 

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肩甲骨から肘までの写真で、筋肉がどこについているかを色分けしています。

これで僕が注目したのが、上腕筋と上腕三頭筋

よく見ると肘より上の上腕筋の下半分はこの2つの筋肉に包まれていることがわかります。

上腕筋なんてのはあまり僕の中では施術のアンテナにひっかからなかったのですが、こうみると肘の安定性においてとても重要な機能を果たしているんじゃないかと思うのです。(そんなことは知ってるわ!という声も聞こえてきそうですが。)

 


解剖の教科書だけではわからないことというのが、骨の形や筋肉の位置情報をみることでみえてきます。そしてそれは、言葉だけを羅列して覚えるより生きたものとして僕の中に出てきます。

治療法という方法論をたくさん知るより、骨に事実として存在する、身体の原理原則を知る方が応用も効くし大切なんじゃないかと思う今日この頃。

 

 

 

精神的なものが精神を隠してしまう

お題「最近知った言葉」

 

この言葉をご存知でしょうか。

MixBというサイトでロンドンで本を引き取った時に、河合隼雄さんの対談集「こころの声を聴く」を偶然いただいて、その中で白州正子さんと河合隼雄さんの対談の中で出てきた言葉です。

白州さんの「いまなぜ青山二郎なのか」という本の中で青山さんが元々言った言葉らしいけど、対談集を読んでいて、心の裏側をぐっと掴まされたような気持ちになった。

青山二郎 - Wikipedia

 

この言葉は本当に色んな意味を持っていて、人によってもきっと捉え方が違うと思います。

僕はこの言葉を自分なりにどう解釈して日記に残すかうまく言えないので、代わりに最近体験したことを例として書いてみようと思います。

以前、鶏をさばいた日記を書きましたが、その友達の家に先週行ってきました。

動物が肉になる、その行為はまさしく「精神的なものと精神との差」の1つだと思うけど、その友人の家で今回彼の育てている畑を手伝ってきた時の一こま。

 

さつまいものつる返しって知ってますか?

サツマイモのツルが伸びすぎて歩く場所がなくなってきました。ツルを切るの... - Yahoo!知恵袋

僕は全く知らなかったのですが、さつまいもは地中に塊根としてさつまいもを育てますが、地上には葉っぱが育ち、つるが地面を這うように伸びます。

そのつるが地面に付くと、そこからまた水分を吸い上げようと根を生やすのです(そこにさつまいもはできません)。根が生えてしまうと、塊根としてのさつまいもに栄養が行き渡らないため、芋が小さくなってしまう。

それを防ぐために、つる返しと言って、つるから根が生えるのを防ぐために、地面からつるをあげていく作業をします。

 

畑に入って作業をするなんて、人生で初めてでした。家庭菜園を実家ではやっているため、それを手伝うことはありましたが、さつまいもなんて育てたことはありません。

つる返しをさせてもらってほんとに実感したのが、さつまいもは生きるのに一生懸命だということです。

鶏をと殺する時に、僕らが捉まえることから逃げるのと同じように、さつまいものつるは自分たちが育つように地面に触れれば根を生やす。

つるを地面からひっくり返したらわかりますが、彼らは生き延びるために本当に一生懸命になっていることを実感します。

そして、その一方で、食べ物としてのさつまいもをよりよく収穫するために、人はまたそれに対抗しようとする。

 

さつまいもはただ本能のままに地面一杯に自分たちのつるを葉を拡げていきますが、その本能をうまく調整してやって、人がさつまいもを大きくし、収穫する。

それは植物と人間の会話のように感じられました。

 

その一生懸命に生きるその様はまさしく「精神」だと思うのです。

「栄養たっぷりの野菜」とか、オーガニックの野菜は人工的に作られた野菜や農薬まみれの野菜なんかより「生命力がある」とかなんとか、色々な飾り言葉を目にします。

でも、そんな「精神的なもの」を言う人はその「精神」をどれだけわかっているのだろうか。

地面に根を一生懸命早そうとするいもとその生命そのものの「精神」に勝てるはずがない。

 

本当に美味しい肉を食べたことがある人と、自分で殺めた肉を美味しいと思うこと。そこには大きな、本当に大きな差がるのではないでしょか。

 

わかりやすい言葉に僕らは往々にしてだまされてしまいますが、その「精神的」ではない、その「精神」に少し近づけたとき、いかに精神的なものが見せかけで言葉に重みのないものかが、すぐにしてわかってしまうように思います。

もちろん、農家の方が「精神的なもの」を消費者に伝えることがあると思いますが、そこにどれだけ「精神」が反映されているか、また、その言葉を受け取る側にも「精神的なもの」ではなく「精神」を拾い上げる度量がなければ伝わらないと思います。

 

偉そうなことをつらつら書きましたが、精神を少しでもわかって、優しい人間になれたらなと日々思います。

 

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山には、登らないとわからないことがある@Ben Navis, Scotland

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

指もみと飲尿と安心すること

仕事柄、教科書をみながら自分の身体に触れて色々と確認します。

その時不思議に思うのが、自分の身体に自分が触れているとなぜか落ち着くということです。

例えば自律神経の体操としてよく言われる指もみ。

指もみ 健康法 - Google 検索

指もみ、健康法と入力するだけで、色々と出てきます。

ただ爪の周りのツボを揉めばいいというわけではなく色々コツがあり、中々奥が深いよなぁと個人的には考えています。そんなことより、左手で右の人差し指を丁寧にほぐしていると、「右捻りはしにくいけど、左捻りはしやすいな」とか、「肘の方にまでなんか指をほぐす感覚が来ているな」とか色々感じます。

それはただ右の指を動かすだけでは感じづらく、左手で右の指をほぐすことによって得られる感覚で、身体の右側と左側が繋がることで初めてそういう感覚が得られます。

 

 

こういう新しい発見もそうですが、ただ無心に左手で右の指をほぐしているととても落ち着く時もあり、右と左が繋がることで、身体が輪っかとして一続きになっている感覚になります。

 

あーだこーだと頭を巡らしていた時に思い出したのが、日本にいた時に参加していた勉強会である先生が言っていたことです。

その方は飲尿健康法を実践したことがある方なのですが、その方曰く、飲尿後に「お尻のおできが治った」というのです。

で、その方が飲尿健康法のメカニズムを考えたのですが、「尿という口から入って最後に尿道から出てくる。つまり、身体全身を巡ったからこそ、尿には身体全体の情報が詰まっている。脳は身体の全ての情報を把握しているわけではなく、全身の情報を持っている尿を再度飲んで再度全身に巡らせることで、お尻のおできと言う情報が脳に入り、おできが治ったなじゃないか」というものでした。

 

それはあくまでも一諸説ですが、面白いなと思っています。

自分(つまりは脳)の中では、自分のことを全てわかっているように思いますが、飲尿とおできの関係じゃないですが、わかってないことは本当にいくらでもあります。

だからこそ、自分の左手が自分の右手に触れて、自分が自分として存在していることを、感覚的に、本能的に感じられるから落ち着くんじゃないのかな。

 

皆さんも是非やってみてください。(飲尿も含めて。)

 

 

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20年後の「8月31日の夜に」 その2。2歳の僕は何を僕に言いたいんだろう。

お題「夏休みの思い出」

 

前回の最後に、2歳の時の自分の写真を載せました。

あの写真を見て、彼は僕に何を言いたいんだろうとずっと考えていました。

 

考えてもらちがあかず、その後、母親をお茶に誘い自分の幼少期がどういう風に見えていたのかを聞いてみようと思って、2人で話をしました。

僕がその当時はずっと不安だったことを伝えると、母はとても驚いて、彼女はとてもそのようには見えなかったとのこと。

彼女は未熟児で生まれた弟にかかりきりだったでしょうし、そらそうかなと今30数年後になれば冷静に受け止められますが、その当時の自分自身にとっては、寵愛を受けていたのが突如引き離されて一人になってしまったことにショックを受けていたんじゃないかと思っていました。

 

小一時間ほど話し、家に帰って部屋に戻った時のこと。

また写真を取り出してみていたら、不意に言葉が彼から返ってきたように思いました。

それは、

 

「おかえり。」

 

という言葉だった。

それを聞いたとき、僕は正直「ん!?」という反応しか出なかった。

だって、僕は2歳の時の自分を励ます言葉を探していたからです。

例えば、「ずっと不安に思っているかもしれないし、今でもそうだけど、今でも元気にやってるよ。」とか、ある人に聞いたのは、その子を抱きしめてあげるといいとか言ってたのに…

 

なので、「おかえり」という言葉にあっけにとられました。

でも、そういう言葉を言われたのには意味があるはずだと思ったし、なぜかその言葉に安心する自分がいたので、またその意味を考える。

ねじまき鳥クロニクルの1シーン、井戸の底で主人公が考え事をするように。

 

それからさらに数日。

「おかえり」に対して、彼に「ただいま」ととりあえず返したままでしたが、自分なりに出た結論は、なぜか生じてしまう不安、きっとそれは未来がある限りずっと持ち続けるものかのかもしれませんが、その不安を2歳の時に起きた出来事のせいにしてないかということ。

自分が幼い時に(記憶している限り生まれて初めて)感じた「不安」のせいで今も「不安」を感じていると錯覚している。

つまり、過去の自分に不安の責任を押し付けてるんじゃないのかなと思ったわけです。

 

それに気付いた時に、「甘ったれるんじゃない」という言葉も降ってきました笑

 

2歳の時、母親が大変で父親も忙しく、弟も頑張って生きようとしている、そのことに言葉には出来なくてもきっと気付いていたはず。

でも、それに不満を言うこともなく、不安を悟られまいと隠しながら、一生懸命生きていた。

言語を獲得していないからこそ、色々な感情を言葉で区別しないまま、感じて飲み込んだからこそ、衝撃がその当時の僕には大きかったのかもしれないけど、それでもなお平然としていた。

だからこそ、母はそのように見えなかったんだから。

 

そんな彼に、大きくなった自分が「甘えていいんだよ」というのは、僕の場合違ったようです。(きっとそう言うことで、解放される人もいると思います。)

 

34年と数ヶ月しか経っていませんが、自分を振り返る中で1周回って戻ってきた。

2歳の自分は、自分を起点に1周回ってくることを知っていたのかもしれない。

だからこそ、

 

「おかえり」

 

と言ってくれたんじゃないのか。

そう思うと、なぜか、すっと楽になれました。

 

自分の家のように、自分が不安定になった時に戻れる記憶という名の場所を手に入れた気がします。

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