指もみと飲尿と安心すること
仕事柄、教科書をみながら自分の身体に触れて色々と確認します。
その時不思議に思うのが、自分の身体に自分が触れているとなぜか落ち着くということです。
例えば自律神経の体操としてよく言われる指もみ。
指もみ、健康法と入力するだけで、色々と出てきます。
ただ爪の周りのツボを揉めばいいというわけではなく色々コツがあり、中々奥が深いよなぁと個人的には考えています。そんなことより、左手で右の人差し指を丁寧にほぐしていると、「右捻りはしにくいけど、左捻りはしやすいな」とか、「肘の方にまでなんか指をほぐす感覚が来ているな」とか色々感じます。
それはただ右の指を動かすだけでは感じづらく、左手で右の指をほぐすことによって得られる感覚で、身体の右側と左側が繋がることで初めてそういう感覚が得られます。
こういう新しい発見もそうですが、ただ無心に左手で右の指をほぐしているととても落ち着く時もあり、右と左が繋がることで、身体が輪っかとして一続きになっている感覚になります。
あーだこーだと頭を巡らしていた時に思い出したのが、日本にいた時に参加していた勉強会である先生が言っていたことです。
その方は飲尿健康法を実践したことがある方なのですが、その方曰く、飲尿後に「お尻のおできが治った」というのです。
で、その方が飲尿健康法のメカニズムを考えたのですが、「尿という口から入って最後に尿道から出てくる。つまり、身体全身を巡ったからこそ、尿には身体全体の情報が詰まっている。脳は身体の全ての情報を把握しているわけではなく、全身の情報を持っている尿を再度飲んで再度全身に巡らせることで、お尻のおできと言う情報が脳に入り、おできが治ったなじゃないか」というものでした。
それはあくまでも一諸説ですが、面白いなと思っています。
自分(つまりは脳)の中では、自分のことを全てわかっているように思いますが、飲尿とおできの関係じゃないですが、わかってないことは本当にいくらでもあります。
だからこそ、自分の左手が自分の右手に触れて、自分が自分として存在していることを、感覚的に、本能的に感じられるから落ち着くんじゃないのかな。
皆さんも是非やってみてください。(飲尿も含めて。)
20年後の「8月31日の夜に」 その2。2歳の僕は何を僕に言いたいんだろう。
前回の最後に、2歳の時の自分の写真を載せました。
あの写真を見て、彼は僕に何を言いたいんだろうとずっと考えていました。
考えてもらちがあかず、その後、母親をお茶に誘い自分の幼少期がどういう風に見えていたのかを聞いてみようと思って、2人で話をしました。
僕がその当時はずっと不安だったことを伝えると、母はとても驚いて、彼女はとてもそのようには見えなかったとのこと。
彼女は未熟児で生まれた弟にかかりきりだったでしょうし、そらそうかなと今30数年後になれば冷静に受け止められますが、その当時の自分自身にとっては、寵愛を受けていたのが突如引き離されて一人になってしまったことにショックを受けていたんじゃないかと思っていました。
小一時間ほど話し、家に帰って部屋に戻った時のこと。
また写真を取り出してみていたら、不意に言葉が彼から返ってきたように思いました。
それは、
「おかえり。」
という言葉だった。
それを聞いたとき、僕は正直「ん!?」という反応しか出なかった。
だって、僕は2歳の時の自分を励ます言葉を探していたからです。
例えば、「ずっと不安に思っているかもしれないし、今でもそうだけど、今でも元気にやってるよ。」とか、ある人に聞いたのは、その子を抱きしめてあげるといいとか言ってたのに…
なので、「おかえり」という言葉にあっけにとられました。
でも、そういう言葉を言われたのには意味があるはずだと思ったし、なぜかその言葉に安心する自分がいたので、またその意味を考える。
ねじまき鳥クロニクルの1シーン、井戸の底で主人公が考え事をするように。
それからさらに数日。
「おかえり」に対して、彼に「ただいま」ととりあえず返したままでしたが、自分なりに出た結論は、なぜか生じてしまう不安、きっとそれは未来がある限りずっと持ち続けるものかのかもしれませんが、その不安を2歳の時に起きた出来事のせいにしてないかということ。
自分が幼い時に(記憶している限り生まれて初めて)感じた「不安」のせいで今も「不安」を感じていると錯覚している。
つまり、過去の自分に不安の責任を押し付けてるんじゃないのかなと思ったわけです。
それに気付いた時に、「甘ったれるんじゃない」という言葉も降ってきました笑
2歳の時、母親が大変で父親も忙しく、弟も頑張って生きようとしている、そのことに言葉には出来なくてもきっと気付いていたはず。
でも、それに不満を言うこともなく、不安を悟られまいと隠しながら、一生懸命生きていた。
言語を獲得していないからこそ、色々な感情を言葉で区別しないまま、感じて飲み込んだからこそ、衝撃がその当時の僕には大きかったのかもしれないけど、それでもなお平然としていた。
だからこそ、母はそのように見えなかったんだから。
そんな彼に、大きくなった自分が「甘えていいんだよ」というのは、僕の場合違ったようです。(きっとそう言うことで、解放される人もいると思います。)
34年と数ヶ月しか経っていませんが、自分を振り返る中で1周回って戻ってきた。
2歳の自分は、自分を起点に1周回ってくることを知っていたのかもしれない。
だからこそ、
「おかえり」
と言ってくれたんじゃないのか。
そう思うと、なぜか、すっと楽になれました。
自分の家のように、自分が不安定になった時に戻れる記憶という名の場所を手に入れた気がします。
20年後の「8月31日の夜に」
「どうしていつでも緊張がとれないんだろう」
日本に戻ってしばらく立ちますが、先日参加したセミナーで自分の手の緊張がとれず、セミナーでのテーマだった「骨膜に触れる」ということがうまく出来ずに終わりました。
それが僕の施術家として致命的なことになるのかなぁと考え始めると、どうしてそもそも手の緊張がとれないのかなと、落ち込みます。
手を揉むと自律神経の機能が回復すると謳う健康法があったり、気の流れとされる経絡には手や足の先に経絡の終わりと始まりのツボがあるなど、手や足は自分の内部の感覚の状態が現れるとされていますし、手が凝るという人は緊張しやすい人が多いなと臨床経験から感じています。
僕もいつの頃からか手と前腕の緊張があって、その緊張がとれていることが中々ありません。ヨガやフェルデンクライスなど、自分の内と外とを繋ごうとする活動はそういう自分の身体の内外の緊張をほぐすものではないのでしょうか。
手足に緊張があるのか、そもそも自分はいつから自分の内と外とに壁を感じ、緊張を感じ始めたのかなと、瞑想をしながら潜ってみることにしました。
緊張を分解すると、緊=かたい、しめる、ちぢむ、張=はると読み直せます。つまり、何かが「かたく」、「はった」なった状態のことを言うことになります。
つまり、自分が「かたくはった」状態なわけですが、自分が外に対してかたくはったのはいつからなんだろう。自分の外と内が別れる前までは、かたくはる必要がないわけですから、自分が外と内を意識してしたのはいつなのでしょうか。
究極的に言えば、自分が生を受けて受精卵として1つの細胞になった時点で、自分は世界とわかれたことになるし、全ての有機物は同じ時点で世界とたもとを分けたことになりますね。
それは神秘的というより神秘ですが、そこに浸れる余裕がなかったので、自分の一番古い記憶の中で、いつ自分が外を意識したのかを思い出してみる。
弟が生まれたことなんじゃないのかなというのが、今の僕の古い記憶です。記憶というより、感情が生まれた。
親の寵愛を受けてきたのに、弟が生まれてくるとその愛が減る。僕の弟は未熟児として生まれたそうで、どうしても手がかかったそう。そうなれば、どうしても健康優良児として生まれてきたこっちを見る余裕はどうしてもなくなってしまう。
そこで喪失、不安を識り、そして僕を見て欲しいという感情(一般的なものより執着に近い感じか)と欲が生まれたんじゃないだろうか。
(「お兄ちゃんなんだからなになに」、「お姉ちゃんなんだからなになに」という言葉がどうしても好きになれないのはそういう気持ちを幼少期に持ったことが原因で、その時の記憶が自動的に反応してしまうんだと思う。)
人より強い「僕を見て欲しい」という欲は、自分を作り上げる上で色々な反応を引き起こしたことに文章を書き始めて気付きました。
・人よりも何がどこにあるなどの情報を拾い上げるのが早くなる
・見て欲しいという欲のカウンターで見て欲しくないと思いになり、人見知りになる、心の鎧を作る
・人と同じようにいることに居心地が悪くなる(これの真反対として、人と同じでいたいという人もいるだろう)
その一方で、どうしたらこの「不安や喪失」、「自分を見て欲しい」が減るのだろう。
「そんなもん誰だって持ってる」「自分が思ってるより大したことない」なんて人から言われて安心出来るぐらいならもうとっくに安心してるので、それは自分で見つけるしかない。
そう思って自分の記憶を確かめようと思い、親が残していた自分の写真を見始めました。そこには自分が思い出せない自分が確かに存在していた。
自分のようで自分じゃない存在というのは不思議で、僕の身体の細胞が分裂して大きくなって今の僕になっているのに、その過去の形はまるで別人のようです。
でも1枚だけ自分がなぜか覚えているような顔があり、それに何かを言ってあげるのが大切なような気がしています。
何を言ってあげるべきか。
この文章を書きながらずっと考えていますが、わかりません。それがわかったら写真を抱きしめて言ってあげようと思います。
そしたら、手の緊張が少しはとれるかな。
豊島の内藤礼さん。「感情が生まれる前の何か」と「生命や物質に宿るおぼろげ」という治療の原点
豊島をご存知でしょうか?
知らない方も直島なら聞いたことがあるかもしれません。
http://benesse-artsite.jp/art/teshima-artmuseum.html
2つとも瀬戸内海に浮かぶ島で、アートと建築と環境が1つとなる場所を目指した場所です。
僕は大学2回生の時に初めて直島を訪れました。それは2004年なのでもう15年ぐらい前ですか。
その当時は今ほど人もおらず、静かな場所でした。
地中美術館が出来た時は中のボランティアスタッフとして働いたこともありましたが、遠い思い出です。
僕が初めて訪れた時でもすでに有名でしたが、その後どんどん有名になり、瀬戸内国際芸術祭がスタートしてからは本土や四国と島々を結ぶ船がいっぱいで溢れるほどになったと聞きました。
人が訪れれば訪れるほど、お金が落ち経済が回りますが、個人的には初めての瀬戸内芸術祭で訪れた時ほど美術と建築と環境との繋がりを感じられなくなり、あと単純に前ほど魅力的に感じなくなったので足が遠のいてしまいました。
しかし、どうしても訪れたい場所がありました。それは豊島美術館です。内藤礼さんという作家さんがこの豊島という島のために作った作品がそこにはあります。
僕が今鍼灸師ないしマッサージ師として働く原点の1つは直島で出会った作品です。
ジェームズ・タレルやウォルター・デ・マリアといった作家の作品に直島で出会い、感銘を受けた作家が共にミニマリズムという美術運動に端を発していたことから、大学の卒論にミニマリズムを取り上げました。美を、美術を掘っていくことの面白さを僕はそこで初めて知りました。
そしてその体験は、僕が治療を行う原点にある「生命や物質に宿るおぼろげ」に触れた初めて触れた原体験と言っても過言じゃない。
その感動があったからこそ、患者さんの横隔膜が膨らんで腹式呼吸になる瞬間だったり、頭蓋仙骨療法で生じるさざ波のリズムに「おぼろげ」を感じることができたし、至福と言っていい程の感動が僕の中に起きるのだと思うし、患者さんのそこに触れて彼らが生命として健全になってほしいと願ってしまいます。
主観的な話に逸れたので戻すと、内藤礼さんの作品は実は今まで見たことがありませんでした。
直島の家プロジェクトという作品群の中にあるのですが、それは予約制で15年前から予約がとれない。。。
つまり彼女の作品は写真で見ただけだったのですが、どうしても行きたいという気持ちは常にあり、今回日本で時間があったので、念願叶い豊島美術館へ行ってきました。
ちなみに、奇跡的に家プロジェクトの方の作品も毎日サイトをチェックしてたら奇跡的にキャンセルが出てたので、行けることになりました。
それでまあ行ってきたのですが、私の感想、感じたことは「感情が生まれる前の何か」があるんだというものです。
豊島美術館での内藤さんの作品は簡単に言ってしまえば、穴あきのコンクリートの中で紐が揺れ、地面から湧き出た水がこぼれ、風が吹く。雲が流れ、(夏だったので)蝉が鳴く。
これだけでした。
僕にはそこに心を動かされるという「何かが動いた」という意味での感動は自分の中に起きなかったし、すごいなぁとか、圧倒されるなぁとかもありませんでした。
でも、自分の知覚が何かを知覚しているのはわかり、それは感動というには大げさな何かでした。
それは何なんだろうと、自分の知覚を整理したら、「感情が生まれる前の何か」なんじゃないのかと思います。感動というのは、自分が知覚し、心が動かされたからこそ感動と呼べるわけですが、それはドミノのように、何かが伝っていかなければ動きません。
では、その感動の源泉となる「何か」ってなんなんだろう。
その琴線に触れた気がしました。
僕が好きな映画のシーンに「『アメリカン・ビューティー』という映画の中で1組のカップルがテレビに映し出されるゴミ袋がただ舞っているのを見る」というのがあるのですが、それに近い感覚です。
今思い出して見ても、その感覚はうまく表現できず、例えば、「すごいなぁ」という一切の感情を排して、植物の種から芽が出て地面に出てきた瞬間を垣間見たような感覚とも思います。
生命が生まれて大きくなって子孫を作る。それは死ぬことと隣り合わせという感覚を僕らが持っているからこそ、いちいち反応して感情を持つわけですが、その一方でその生から死、死から生というプロセスは、感動なんか起きる必要がないくらい当然にあるもので、それは人間を含めた感情を持つ動物が勝手に解釈してそう思ってるだけに過ぎないものでもあります。
その後者の提示を豊島美術館ではしているんじゃないかなというのが僕の感想でした。
瀬戸内国際芸術祭のない年の冬にまたひっそりと訪れて、内藤さんの作品「母型」と話をしたいなぁ。
鶏を殺める2 死が食に変わる。デジタルではなくアナログの生→死を
前回は鶏の首に包丁を入れ、殺めたところまで書きました。
前回も最後に書きましたが、屠殺を行う前に包丁を研ぐ人の気持ちが今思い返すとわかる気がします。
「いのちの食べかた」なんかを観ると、そういう価値観とは全く違う、車にガソリンを入れるように私たちの食べ物が作られてる様子が映されていますが、本当に私たちは「死」を目の当たりにする機会が減ったし、「死」を実感することも減ったなと思います。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/いのちの食べかた
きっとそれはいいも悪いもなく、人類のある地域の意識の総意としてそういう選択をしたんだろうな。
話を戻すと、まず首から下の鶏を逆さまにして、血を鍋の中に全て入れます。モツ煮で食べる時に使うためです。
普段イギリスにいると蚊がいないため、滅多に肌をかかず血を見る機会が減りました。こうして鶏に流れていた血を集めて固まっていく様子を見るのは不思議な感じです。
想像以上に早く固まっていき、血小板の凝固作用の凄さを垣間見た気がしました。
次のステップが前回書いたお湯です。
お湯で何をするかといえば、鶏についている羽や毛をむしります。プチプチっという音を立てながら、羽は思ってるより簡単にむしれました。
きちんとむしらないと、食べる時に毛が口に絡まってとても食べにくいらしいのでピンセットまで使って丁寧に全ての羽・毛を抜きす。
友人がむしる前に言っていました。
「この行程が終わったら、よく知ってるあのチキンになるよ。」
その言葉はとても的を得ていて、イギリスだとよく売られてるあの形です。
当たり前なのですが、その当たり前ができる前と後の間を自分がしたのだと思うと、当たり前の後の姿に敬意を払いたくなります。
それはまるで、デジタルの0から1をアナログの0から1として認識し直したような感覚です。
そして、次に鶏を捌きます。
人によって様々なさばき方があるらしいです、例えば、まず内臓を出すかどうかなど。彼は基本農家で鶏をさばいた経験があまりないため、内臓を取り出すのではなく、モモ、手羽など表面にある筋肉をとっていくやり方をしていたので、僕もそれに倣いました。
内臓を先に取り出すのが、一般的らしいのですが、万が一内臓に傷が入り、糞などの汚物が筋肉などにまみれたり、尿が逆流して鶏が汚くなると、鶏肉が美味しくなくなるそうです。
まずは包丁を人でいう剣状突起からお尻まで入れ、剥けた皮をすべて取り除きます。
そして、肋骨のラインに合わせてモモを取り除き、次に手羽を取り除く。
これらは人の手足にあたる訳ですが、まずは取り除きやすくするために体幹と分離させる必要があります。そうでなければ、体幹と一緒に動くため、うまく捌けません。
そのためまず何をするかと言うと、脱臼させます。
書くと簡単で今思うとずいぶん機械的にやっていたなと思うのですが、「バキッ」と音をさせながら、体幹と手足を分離します。
僕らは手羽先を食べる時に、何も考えず関節部を取り外しますが、もしあれを生きている人間にやれば、猛烈に痛いんだろうなとさばきながら考えていました。
そして手羽とモモを除いて、次に剣状突起の下の部分から背中の方に手を入れ、胸郭を開きます。ここはコツがつかめず苦労しましたが、ぱかっと外すと、内臓が全て出てきます。
横隔膜はどこにあるのかと思うかもしれませんが、実はありません。横隔膜は進化論でいうとかなり最後に発生したもので、哺乳類にしか存在しません。
横隔膜ができたことで、哺乳類は呼吸器循環器と消化器系を分けることができ、2つの機能をより発達させることができたのです。それは口腔でも同じことが言え、人の場合、食べる機能としての口と呼吸する機能としての鼻が口蓋で分離していますが、例えば蛇はしていないので食べている間は呼吸ができません。
話を戻すと、横隔膜がないので、胸郭を外すと、心臓や大腸、肝臓、小腸など全てが突然出てきます。
それは背骨を軸にぶら下がっている果実のようにさえ見えます。
腹膜や心膜を剥がしつつ内臓を取り出していきますが、 心を揺さぶられたのが、心臓がまだ暖かかったことです。
血液は体温保持のために必要とは知識で知っていましたが、それを身をもって体感しました。
それはホルマリンに漬かった献体を対象にした解剖実習では知ることのなかった感覚であり、医者が人に麻酔をかけて手術している時に体感する感覚なのでしょう。
でも、その心臓の暖かさはただヤカンに触って熱いというのではなく、もっと物質的な熱さ、柔らかい熱さ、実感のこもった熱さ、いや、赤ちゃんを抱っこした時に感じる生々しい熱さのもっと柔らかい熱さでした。
死がどういうものか説明出来ないように、生もまた、根源的な意味、つまり心臓が止まるという物質的な意味において、説明が難しいです。
それは21グラムのように、魂の熱さなのかもしれません。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/21グラム
内臓を食べられるものと食べられないものにわけ、食べられるものはモツ煮としていただき、他は炭で焼いて、食べました。
スイスに住んでいる友人は動物を肉として食すことに抵抗があり、もう20年以上ベジタリアンです。彼はスイスではその当時義務だった兵役を拒否して刑務所を選んだ、自分の意思を貫く人でした。
彼のその姿勢はずっと僕の心にあり、初めは食べるのに抵抗がありましたが、美味しく食し、何も罪の意識と言うものは今のところ感じていません。
それがいいのか悪いのか。正直わかりません。
ただ、誤って切断してしまい生気を失った、鶏の首は忘れません。
今日は広島に原爆が落とされた日です。
死についてもう少し思いをめぐらし、デジタルの1から0への死じゃなくて、アナログの死の余白について少しでも埋められたらと思います。
長崎のものですが、行ったことがあります@原爆犠牲者慰霊平和記念式典
今でもなんとなく、この紙を見てると、少なくとも僕はこの時生かされたのかなと思ってしまいます。実家の神戸だって落とされたかもしれないわけだし。
鶏を殺める1 生が死に、物体に変わる
前回は自給自足をする友達のもとで鹿を捌く経験をさせてもらったことを書きました。
今回は鶏です。
鹿よりも鶏を入手することは田舎の方では簡単というか、家畜として飼っている方が多く、鹿を持ってきてくれた方に鶏を譲ってもらえないか相談したところ、2つ返事でいただくことになりました。
今回は彼の家の外で飼っている鶏を2羽いただきました。
基本動物とかを触るのが苦手な私です。動物を殺めてみたいというのが主旨だったので、「鶏をまずは捉まえて」と言われました。
鶏を捉まえるのって難しい。周りに言われたのは、「こっちがびびってたら、向こうもびびって逃げる」ということ。間合いの問題です。
びびることなんて昔はありませんでした。
小学生の時はカマキリをつかまえ、コオロギやバッタを捕獲し、カマキリに食べさせたりしていました。今思い返すとどうしてあんな残酷なことをしたのだろうと思いますし、コオロギのぷにぷにした感触とカマキリが食べて肉がはみ出てくるのは記憶に残っています。
それがトラウマになっているからなのかはわかりませんが、僕は思春期を迎えてから動物が苦手で見る分にはいいのですが、触るとあの生々しい感じが、触った先にいわゆる無機物の温度とは違う、生の「暖かさ」が怖くなってしまいます。
それが前回のブログで書いた「どろっ」とした感覚に近いとは自分でもわかっているのですが、触りたくない近寄りたくないという気持ちと同じぐらい、触れてみたいという感覚があります。
磁石のN極とS極のように。
話を元に戻します。10羽ぐらいその囲いにはいましたが、いざ捉まえようと思うと中々出来ません。「足を捉まえるんだ」と言われても、逃げようとする相手の足を捉まえるって、相手が捉えられないために羽をばたつかせる中で足を狙うのは覚悟がいります。そうです、結局僕は覚悟が足りないのです。
覚悟が足りないというのが相手に怖さとして伝わり、余計に逃げられてしまうのです。
それでまあ、冷静に覚悟を(やや)決めて、捉まえたら端に追いやられて逃げ場をなくした2羽の鶏の足をようたく捉まえることが出来ました。
それまでギャーギャー僕も鶏も騒いでいたのですが、足を捉まえたら大人しくしてくれました。足を縛った後、左右の羽を持ち上げて羽の隙間に紐を通します。
足と羽を縛る、4足動物でいう手足を縛って米袋の中に入れて捕獲完了です。
ありがとう@今回お世話になった鶏
時間がある時に捌くということで、捕獲して2、3日後にまず1匹目を捌くことになりました。その間に実は卵を産み、生まれて初めてできたての卵を食べました。
鶏を殺めるにあたってまず何をするのかご存知ですか?
それはお湯をわかすことです。薪をくべてお湯をわかしながら、友人から鶏の殺め方を手ほどきしてもらいます。なぜお湯を沸かすのかは次回に書きます。
まず鶏を捉まえ、足を右脇に挟み、羽を前腕と大腿部に挟む。そうすることで両手足を抱きかかえることになります。
挟む間に左手で鶏の頭と首の付け根を持ち、頸動脈をはっきりさせるために鶏の首を伸ばします。人間で言うと、頭を空の方向に向け、さらに顎を突き出すような感じでしょうか。
右の脇と前腕で手足を固定するため、実は右手は空いています。その右手で包丁を持ち(固定した段階でもう持っている)、左手ではっきりさせた頸動脈に刃を入れて鶏の命を絶つわけです。
友達はいとも簡単に操作して、刃元を鶏の頸動脈まで近づけていましたが、びびりまくりの私がいざやろうとすると、右腕と大腿部の挟みが緩いため、羽をばたつかせてまあ暴れる。ここでも友人が一言。「こっちが怖がっているから相手も怖がるんだ。」と。
ばたつかせる鶏を相手にようやく固定できるコツが掴めたため、きっちりと挟めるようになりました。
友人はまた一言。
「鶏の首を伸ばしてこっちが殺めようとすると、鶏は覚悟を決めたように大人しくして、目をつむる。これはきっと鶏が長年人間として一緒に住んで家畜としていきる中でこうなる運命をDNAとして知ってるからだと思う」と。
彼の言うように、最後、刃を入れる前、観念したように目をつむります。
そして覚悟を決め、刃を首にいれました。
鶏は暴れます。とても暴れます。刃のあて方が悪いと中途半端に動脈が切れるため、痛がるからか羽と首を一生懸命動かします。血が首から垂れてきても渾身の力を込めて暴れます。
私は怖くなって刃を入れるのを止めてしまいましたが、すっと楽にさせるのが殺める側のせめてもの責任だと言われ、我に返り、再び刃を入れました。
ノコギリのように包丁を押したり引いたりしてしまったからか、最後鶏の首が取れ、地面に落ちてしまいました。
それでもまだ、羽は少しばたついていたけど、そのうちそれも止まります。
1つの生命が終わった瞬間でした。
人によっては動物を殺める前に、包丁を研ぐ人もいるそうです。命をいただく側としてせめてできることが、楽に早く逝ってもらうことだからそうです。
その気持ちがよくわかりました。
これ以上書くのは、思い出してくるとちょっとしんどいので、続きは次回に。
*この記事を書いていたら、ランダムでi Tunesの中からマタイ受難曲が流れていました。偶然なのか必然なのか。
この経験は、カマキリの思い出も含めて、一生忘れちゃいけないなと改めて思います。
ハントされた動物を捌く〜自給自足の友人のもとで〜
今週のお題「ゲームの思い出」
イギリスでは猟で仕留めた動物の肉を「ゲームミート」よ呼ぶので、この記事を書くことにしました。
先日まで自給自足をする友人の元で1週間ほど居候をしていました。
その中では色々なことがったのですが、思いついた時に、ポツポツと書いていこうと思います。
一思い出の1つは動物を捌いたことでした。
初日に皮なめ師をしている友人の友人にたまたま出会い、彼が知り合いにもらった鹿をもらってきたということで、僕の希望で捌くのをお手伝いさせていただきました。
鹿は植物の新芽だけを食べるらしく、農業を営む方々にとってはとても頭を悩ませる動物だそうで、自治体は鹿の耳を役所に持っていけば駆除料として幾らかのお金がもらえるそうです。そのまま鹿をすてるわけにもいかないため、皮なめ師の彼のところに回ってきたとのこと。
僕はかねがね、肉をいただく限りは、1度は殺めて動物が肉になるという過程をみないとなぁと思っていました。そうしないと有り難みが全然わかない。
その残酷な感じはどろっとしてまして、感覚的な表現で申し訳ないのですが、僕がクライミングで危険とわかりながらも外岩や崖に挑戦したかった時の衝動って、その身体に起きるどろっとしたものを体験したいからだと思っています。リストカットをして安心したい人って、そういう感覚を求めてるからなんじゃないかなと思ったりします。
また、生きた体に触れることを生業とする身にとって、生きたものが死に変わるというのはやはり、言葉でなく実感として感じておきたいというのもありました。
それで初日から有難いことに鹿を捌かせもらう手伝いをすることになりました。
あいにくの雨の中、まず驚いたのは動物が死んでしまうともう物体になってしまうということでした。
死後硬直なんてのがサスペンスドラマとかで使われますが、本当に重い。しかも、同じ重さの石や物体を持つときよりもなぜか重い気がします。あれは元々命がないものと、命・魂が抜けてしまうからという差なのか。よくわかりません。
話を戻すと、鹿を捌くのにまず、肛門の方から刃物をいれ、首の付け根の方にやる。皮がめくれる。
次にお腹に対して垂直に出ている下肢を折り、下肢を横にやります。つまり、鹿の背骨側に下肢を押し付け、大腿骨と骨盤を分離させます。そして、後脚だけを彼に切り分けてもらって、僕は脚をさらに細かく肉ごとに切り分けました。
スーパーなどで売っている肉(イギリスは塊で売っていることもあり、薄切りはない)を包丁で捌いたことはありますが、それよりもすごく切り分けにくい。
筋膜は勝手に想像していた以上に、身体の組織に張り巡らされていました。解剖生理の本などで「筋繊維の周りにそれを束ねる膜があり、その束ねられた筋肉を大きな単位で束ねる膜があり、例えば上腕二頭筋という筋肉が出来上がる。」という説明がありますが、まさしくその通りです。そのネットワークはとても緻密で、何層もある薄い霧という膜を切り分けていってようやく筋線維が出てきました。
@トートラ標準解剖生理学より
実感として僕らは筋肉と骨でできているような感覚をどうしてももってしまいますが、それを支える裏方の感覚・システムが存在してこそ、その実感しやすい実感が機能できるのだと思います。
その時は、自分の手際の悪さもあり、それに没頭していたところ、皮なめ師の彼はほとんどさばきおわり、皮と骨と肉とが分離されていた。
最後に今回とった肉を七輪で焼きながら、酒盛り。
こんなに出来立てのお肉を食べたのは初めてで、とても美味しかった。
当たり前の話だが、動物の皮の中には筋肉があって、究極的に言えば、どんな動物のものだって食べられます。(戦時中はどんなものも食べたという話だから。)
でも、スーパーにはその皮や生命がのぞかれた、いわばあまり重みのないお肉がずらりと並んでいる。それは、言い方は悪いが他にいい言い方が思いつかなかったので書くと、死後硬直になぜか重いと感じた肉というよりは、はじめから命がなかったような肉のように感じてしまいます。
僕らが食べ物を美味しいと感じる理由の1つは、その食べ物・素材が持つ重さや上に書いた「どろっと」さなのではないのだろうか。
実は、その後居候生活の中で、鶏を殺めて捌くという経験もしました。それはまた今後書きます。
この経験が出来て、本当にありがたかったな。