ロンドンの、船上の鍼灸師の日記

2012年から客船で鍼師として働いていましたが、2017年からロンドンで治療家として働いています。治療のこと、クルーズのこと。色々綴っていこうと思います。ウェブサイトはこちら。https://www.junjapaneseacupunctureandshiatsuclinic.com/

ハントされた動物を捌く〜自給自足の友人のもとで〜

今週のお題「ゲームの思い出」

イギリスでは猟で仕留めた動物の肉を「ゲームミート」よ呼ぶので、この記事を書くことにしました。

 

先日まで自給自足をする友人の元で1週間ほど居候をしていました。

その中では色々なことがったのですが、思いついた時に、ポツポツと書いていこうと思います。

一思い出の1つは動物を捌いたことでした。

初日に皮なめ師をしている友人の友人にたまたま出会い、彼が知り合いにもらった鹿をもらってきたということで、僕の希望で捌くのをお手伝いさせていただきました。

 

鹿は植物の新芽だけを食べるらしく、農業を営む方々にとってはとても頭を悩ませる動物だそうで、自治体は鹿の耳を役所に持っていけば駆除料として幾らかのお金がもらえるそうです。そのまま鹿をすてるわけにもいかないため、皮なめ師の彼のところに回ってきたとのこと。

 

僕はかねがね、肉をいただく限りは、1度は殺めて動物が肉になるという過程をみないとなぁと思っていました。そうしないと有り難みが全然わかない。

その残酷な感じはどろっとしてまして、感覚的な表現で申し訳ないのですが、僕がクライミングで危険とわかりながらも外岩や崖に挑戦したかった時の衝動って、その身体に起きるどろっとしたものを体験したいからだと思っています。リストカットをして安心したい人って、そういう感覚を求めてるからなんじゃないかなと思ったりします。

また、生きた体に触れることを生業とする身にとって、生きたものが死に変わるというのはやはり、言葉でなく実感として感じておきたいというのもありました。

 

それで初日から有難いことに鹿を捌かせもらう手伝いをすることになりました。

あいにくの雨の中、まず驚いたのは動物が死んでしまうともう物体になってしまうということでした。

死後硬直なんてのがサスペンスドラマとかで使われますが、本当に重い。しかも、同じ重さの石や物体を持つときよりもなぜか重い気がします。あれは元々命がないものと、命・魂が抜けてしまうからという差なのか。よくわかりません。

 

話を戻すと、鹿を捌くのにまず、肛門の方から刃物をいれ、首の付け根の方にやる。皮がめくれる。

次にお腹に対して垂直に出ている下肢を折り、下肢を横にやります。つまり、鹿の背骨側に下肢を押し付け、大腿骨と骨盤を分離させます。そして、後脚だけを彼に切り分けてもらって、僕は脚をさらに細かく肉ごとに切り分けました。

スーパーなどで売っている肉(イギリスは塊で売っていることもあり、薄切りはない)を包丁で捌いたことはありますが、それよりもすごく切り分けにくい。

筋膜は勝手に想像していた以上に、身体の組織に張り巡らされていました。解剖生理の本などで「筋繊維の周りにそれを束ねる膜があり、その束ねられた筋肉を大きな単位で束ねる膜があり、例えば上腕二頭筋という筋肉が出来上がる。」という説明がありますが、まさしくその通りです。そのネットワークはとても緻密で、何層もある薄い霧という膜を切り分けていってようやく筋線維が出てきました。

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 @トートラ標準解剖生理学より 

 

実感として僕らは筋肉と骨でできているような感覚をどうしてももってしまいますが、それを支える裏方の感覚・システムが存在してこそ、その実感しやすい実感が機能できるのだと思います。

その時は、自分の手際の悪さもあり、それに没頭していたところ、皮なめ師の彼はほとんどさばきおわり、皮と骨と肉とが分離されていた。

最後に今回とった肉を七輪で焼きながら、酒盛り。

こんなに出来立てのお肉を食べたのは初めてで、とても美味しかった。

 

当たり前の話だが、動物の皮の中には筋肉があって、究極的に言えば、どんな動物のものだって食べられます。(戦時中はどんなものも食べたという話だから。)

でも、スーパーにはその皮や生命がのぞかれた、いわばあまり重みのないお肉がずらりと並んでいる。それは、言い方は悪いが他にいい言い方が思いつかなかったので書くと、死後硬直になぜか重いと感じた肉というよりは、はじめから命がなかったような肉のように感じてしまいます。

 

僕らが食べ物を美味しいと感じる理由の1つは、その食べ物・素材が持つ重さや上に書いた「どろっと」さなのではないのだろうか。

実は、その後居候生活の中で、鶏を殺めて捌くという経験もしました。それはまた今後書きます。

 

この経験が出来て、本当にありがたかったな。

 

 

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ロッコでは牛やヤギの頭部をこのように煮込んで食べます@カサブランカ

「細胞は入れ替わる、身体には知らないことがある」からの「『今が幸せならいいんじゃないか再考』と万引き家族」

お題「これって私だけ?」

 

30代に入って、同世代と話すトピックの1つに「子供は欲しいか。」ということがあります。特に女性は35歳を過ぎると卵子の状態も悪く、また数も減るため、その現実に向き合わないといけません。

 

僕はあまり子供が欲しくありませんでした。それは、自分と同じような境遇に子供も置かれるんじゃないかという不安です。小学生の頃から、割に「空気が読めない」と言われ続け、周りから物心がついたころから「変わってるなぁ」と言われました。

そういうこともあり、自分が周りの環境に馴染んだということがほとんどありません。

船で働いていた時に快適に思ったのは、僕が「異邦人」でよく、日本人であることを強制されないからです。

 

そういう自分の意識に囚われているのは承知しています。しかし、そういう気持ちで育ってきたため、自分に仮に子供が出来たら、自分の子供も僕と同じような気持ちになってしまうんじゃないかと思ってしまい、子供は要らないかなと考えてました。

一種のトラウマに近いものなのでしょう。(家庭内暴力を受けて育ってきた人が、それが愛情表現と錯覚してしまい、自分の子供にもしてしまうような理屈に近いのではないでしょうか)

 

どうしてこんなに囚われてしまっているのか。自分でもよくわかりません。でも一方で、自分はその考えを客観視している部分もあり、だからこそ友人だけでなく患者さんにもそういう話になれば、自分のこの考えを言います。

贔屓にしていただいている方からは、「自己愛が強すぎる!」と言われたり、「過去は過去で色々あったにせよ、今が幸せならいいんじゃない?」とか言われたりします。

 

でも、生みたくて生んだんじゃないということで虐待に会っている子供のいたたまれない事件なんかを見聞きしていると、もし万が一、そういう後悔(自分の子供が自分のような気持ちになる)をしてしまうなら、「しない」という選択をする方が、大きな間違いをしなくて済むのかもしれません。

 

 最近いくつかのトピックを知る中で、その思考のままでいいのかなと思うようになりました。

1つ目は、「身体はトラウマを記憶する」を読んだこと。

身体はトラウマを記録する / ヴァン・デア・コーク,ベッセル【著】〈van der Kolk,Bessel〉/柴田 裕之【訳】/杉山 登志郎【解説】 - 紀伊國屋書店ウェブストア

その中でユダヤに迫害された、身体的・精神的トラウマを抱えた生存者のインタビューが掲載されてありました。(私の記憶の中の再現なので、記憶違いがあるかもしれません)

「私がその当時に体験したことを消すことは出来ないし、忘れることも出来ない。(中略)フラッシュバックにも襲われるが、一番その当時のことを思い出さないようにする方法は今の精神状態を安定させること」

 

2つ目は、テレビの番組の中で「身体の細胞は入れ替わる」ということ言及していて、改めて思い出したこと。人体の細胞更新速度

 

3つ目は、野口三千三先生の養老孟司先生の「野口体操」という本の中(

http://www.shunjusha.co.jp/detail/isbn/978-4-393-97018-8/)で、

養老先生が

「体のこの部分が何の役に立ちますか?」という質問に対して、「われわれのもって生まれたものが何の役に立つかはわからない。役に立つ機能というのは、必ずある状況が前提になっている。状況がなければ機能・働きを考える必要がない。(中略)(われわれの体は順ぐりに作られているから、)古い旅館のように建て増しして作っていくのです。建て増しの理由が(魚類からの進化の過程で)色々残っている。(中略)だからあまり単純にお考えにならない方がいいんじゃないでしょうか。」という答え。

そして最後に、「私も若いときは「これ何の役に立ちますか」と聞かれると、「お前さんが生きていて何の役に立つの」といった。それがわかったら教えてやると」という対談の一節があったこと。

 

1つ目はずっと心に残っていて、2・3が最近重なってため、自分が過去にどういう経験をしたかなんて、今にとっては「全く意味がない」し、刷新できることなのではないかと思うようになりました。

「今が幸せならいんじゃないか」という言葉を言われた時には、いや、でも、とか言って口答えしていたのですが、その意味がもう少し自分にとって腑に落ちてきたような気がしています。とはいえ、完全にそう自分から言えるかと言えば、そうでもありません。

なぜなら、こういうことを考えられることになったのは、子供の時にそういうことがあったからです。でもとはいえ、囚われてはだめなんだと思う。

 

囚われてしまっては、目の前にある現実を歪んでみてしまう気がするから。

囚われるんじゃなく、逝かして活かす。そういうスタンスで自分の過去を思い返してみたい。

昨日、最近話題の万引き家族を観てきたのですが、そこで安藤サクラさんが「親に虐待を受けていた自分が虐待を受けていた子供を抱きしめて、ただ抱きしめるシーン」がありました。

 

つまりは、そういうこと。

 

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過去を活かすも殺すも人次第@エフェソス遺跡、トルコ

今と昔の感性にどんな違いがあるのだろうら。1万年の旅路を読んで

一万年の旅路という本をご存知ですか?

 

イロコイ族という実際に存在するネイティヴ・アメリカンが一万年前にアジアからベーリング陸橋を渡りアメリカ大陸に渡ってきて、いかに五大湖のほとりに定住するかまでを綴った口承史です。

みんなのレビュー:一万年の旅路 ネイティヴ・アメリカンの口承史/ポーラ・アンダーウッド - 紙の本:honto本の通販ストア

 

これはアジア大陸で生活していたイロコイ族が氷河期の天変地異に見舞われた後に、アジア大陸にいてはまたこのような天変地異に見舞われるということで、アメリカ大陸に渡ってくるところから始まります。

その物語はなんだろう、単なるフィクションにしては言葉が生きていて、本当にこういうことがあったんだなと本当に思わせる不思議な本です。

この本は口承史という「口伝えの物語」であるということを字面では知っていますが、実際にどんなものかはもちろんよくわかりません。

アイヌなんかも似たような形で自分たちの歴史を伝承していたようです。

ユーカラ - Wikipedia

 

この本で面白いと感じたのは、一万年前も現在もそんなに変わらないなということです。ただ、何でもインターネットで調べると情報を入手出来る現在と比べて、情報を知る手段が、その一族のコミュニティの中だけでのみとなり、また違う一族で当たり前となっていることがイロコイ族の中では全く新鮮なことです。

 

例えば、子供を産むのは女性だけであるということとか、寒さをしのぐために毛皮を身につけた人がイロコイ族の他の人たちから怪しまれて一族になじむまでにすごく時間を要したことなど。

今では当たり前になっていることって、よく考えれば当たり前じゃない。

あと、狩りで生活を立てている一族がある一方、イロコイ族は様々な穀物の種を地面に植えて生活していましたが、イロコイ族のような生活は他の一族からは理解し難いものであったようです。

 

すでに定住している一族の縄張りにイロコイ族が入り込んで、共生しようとしている一節も面白いです。

イロコイ族は一族で話し合いを通して様々な知恵を身につけてきましたが、他の一族は男尊女卑として女子供を低くあつかっていたり(イロコイ族は男女同権です)、違う一族とは交わりを拒否したりして、中々イロコイ族と共生したがりません。

そこで、イロコイ族はまず言葉を理解しようとし、ある時は女性や子供を定住している一族に送り込んでその一族が持つ知恵をイロコイ族にもたらしたり。

 

その衝突は数年前にNHKでやっていた「大アマゾン」に近いような緊張感があり、イロコイ族のような柔軟な姿勢で他の一族と付き合おうとするのは、今の時代にも中々出来ないよなと思いました。

 

鍼灸の学生だった時に、食べ物や生活スタイルの変化によって現代の人たちは昔に比べて、身体に鈍感になっているというような話を学生同士でしてました。

でも僕はそうは考えません。

鈍感の定義によるのでしょうが、例えば僕たちが今携帯電話でもって目の前に存在していない人とコミュニケーションがとれることを、昔の人はどう思うでしょうか?

それは、昔の人が自然にもっと近くて、今の私たちには感じ取れない何かを感じられることとどんな違いがあるのだろうと思います。

 

きっとそんなに違いがないというか、人として本来持っている性質が時代時代によって適応しているだけなんじゃないのかな、と。

昔の当たり前と今の当たり前と思っていることは本質として違いがあるようでないんじゃない。

 

でもだからこそ、1万年前の話が今でも面白いんだろうな笑

 

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アジアとヨーロッパを結ぶボスボラス海峡@イスタンブール、トルコ

1万年前にもこの海峡はあったのだろうか

「世界は広いかもしれないけど、世間は狭い」とおざけんの天使たちのシーンの一節

お題「好きな作家」

 

 

「世間って狭い」

自分の知っている人が僕の知ってる人の知り合いだった時に、この言葉使ったりしたことってありませんか?

先日も大学時代の友人(=A)がイギリスで修士を取りに1年間来ているのですが、僕の患者さんがその友人の知り合いだったことがありました。

また、Aの上司は、Aの友人も知ってたりして、関係が鎖のように繋がってたりします。

でも、こういう経験を何度もしてきて学んだことがあります。「世間は狭いもんなんだ。」と。

 

小学校に入学して、中学高校と進んでいくにつれて、いじめって少なくなると思いませんか?そして、大学になると所属してる部活などではあるのかもしれませんが、学部では僕の大学ではそんなの一切ありませんでした。

なぜかと言えば、「中高と進んでいくにつれて、自分がどういう人間かわかってくるので、合わない人とは交わろうとしないから」だと思います。

自分がどういう人間かわかれば、例えば自分の趣味が会う人同士で固まるので趣味趣向の合わない人と話はしません。

でも、学校という強制的に共生する場所があると、自分と合わない人とでも生活して過ごさないといけないから、そういう人を排除しようとして「いじめ」が例えばおきるのではないでしょうか。

 

そういう人生の通過儀礼を終えて社会人になったにも関わらず、イギリスで駐在員同士で人間関係のいざこざが起きるという話を聞く時、学校の時のように「合わないにも関わらず日本人コミュニティの一員として強制的に共生しないといけなくなる」からこういうことが起きるんじゃないだろうか。

話がそれましたが、一方で、そういういざこざが好きな人もいます。人の悪口やうわさ話を酒のつまみにして盛り上がったり。僕も嫌いなわけじゃもちろんないですが、すぐ飽きるというか今に生きてないなと思って、そういう話に付き合わなくなります。

 

それでこういう感性を持っている僕の友達も、だいたいそういうのが苦手な人が多いです。つまり、そういう似たような属性というわけです。

そこから想像を膨らませると、(僕は知らない)僕の友達の友達もそういうのが苦手な人が多い。つまり、A=B, B=CならばA=Cというわけです。

だからこそ、始めに書いた、僕の友人と僕の患者さんが知り合いだったにするわけです。

 

その時にはたと気づいたのです、

だから「世間は広い」なじゃなくて、「世間は狭い」もんなんだと。全世界の人口は60億人以上いるとされていますが、その中で自分と気が合う人なんてたかがしれてます。きっと500人もいないんじゃないでしょうか。

だとすれば、その500人はお互いどこかで繋がり合うもんですよ。今の時代じゃ尚更です。

 

その時に、僕の好きなオザケンの歌の一節が浮かんできました。(「天使たちのシーン」より。)

 

愛すべき 生まれて育ってくサークル

君や僕を 繋いでる緩やかな止まらない 法則

 

10分以上続く長いもので、詩の朗読を聞いているような歌です。その中で繰り返し歌われているのがこのフレーズ。

 

どういう意味なのかなぁと聞く度に思ってたのですが、僕なりの1つの答えがこの「世間は狭い」ということなのかなと。

これは「歳を重ねれば重ねるほど、少し話しただけで初めて話した人とは仲良くなれるかがわかる」というのにも似てるなと思ってます。

 

自分に正直になっていれば、色んな繋がりが生まれて、素敵な出会いが起きたりする。それは次会うことはもうなかったとしても、そこで繋がった瞬間は、各々の心の中にどこかに残ってたりしませんか?

それが「過去にあったなぁ」って思うんじゃなくて、いつでも今日でもそのサークルは育って作れると僕は思ってます。

治療家として僕は色んな人と出会いがありますが、僕を介して他人が出会えないかなといつも思います。

 

自分で店を持った時には、そういうことをしたいな。

 

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ストーンヘンジ@イギリス

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途切れない虹@St.Kits and Navis

自分が匂うブログを書きたいな

お題「ブログをはじめたきっかけ」

 

なんでブログを始めたのだろう。最近お題をもとに、自分の記憶を思い返すのが楽しい。

 

ブログを始めたのは鍼灸師になって開業する時に、自分の考えを残しておくことが開業したときの財産になるからというものでした。まあいわば、クレジットカードの使用履歴があれば、大きな借金をしやすいというのに関係としては似ていると思います。(過去にクレジットカードでこれだけお金を前借りして返済してきたという記録があることで、もっと大きな借金をする、例えば家を買う、時に銀行から信用してもらえる)

そう思って、自分の考えをつづってきました。でも案外、自分の考えてたことって忘れ

るもんですし、こうして文章として形にすることで、自分だけど自分じゃない(考えてたことを忘れてるという意味で)ものを思い返すことって面白いなと思います。

 

改めて、自分はどういう人間なのか、どういうことが得意な人間なのかと昨日不意に考えることがありました。それはある方のこの記事がきっかけでした。

鍼灸が最高だと言える7つの理由 - 【ケアクル】

この文章に対して、Facebookグループのある方が、非公開のグループで批判に近い批評をされておられました。

コメントにはケアクルの文章があくまで鍼灸に対する宣伝文なんだからいいんじゃないですかという意見とか、とはいえこの内容は薄すぎて酷いんじゃない?など色々書かれてありました。

僕はこのケアクルの記事を書いた方も、批評をされた方とも面識があり、両方言いたいことがわかるなぁと思っています。

 

でも、この記事みたいな記事が多いからこそ、逆に僕なら鍼灸を受けないというか、受けたいなという用には響かないかなと思います。

僕がこういう文章を書けたらなと思っているのは糸井重里さんです。ほぼ日刊イトイ新聞

どういうことにも自分の見方・気持ちというスパイスを振りかけて、読んでいる人の目線でそのことを感じてもらう、そういう文章を書かれているなと、いつも感心してしまいます。

このほぼ日の中の対談なんかも読んでいると、糸井さんが自分の考えていることや現象など色んなことをずっと分析して言葉にして、それでなおわかりやすいように落とし込んでいるのがよくわかります。

こういう方が「鍼灸は最高だ!」なんていう文章を書くとどうなるんだろうと想像してみますが、そもそも最高だなんて言わないかなとも思ったり。

 

今までの文章を書いてみて、僕が文章に書きたくなることって、エッセイのような何気ないことに自分の想像を膨らませることなのかもと思いました。

ネットのコラムなんかを読んでいると、自分の言葉で書かれてない文章ってあるよなと思うんです。その書かれてある文章・言葉から書いた人の匂いがしないというか。

 

そういう文章を綴っていける人間でいたいな。

 

 

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クルーズ時代、トリュフハントのツアーに参加した時の一幕@スロベニア

 

ウェールズ最高峰スノードンへ

お題「キャンプ」

 

先週、ウェールズにあるスノードン山へ行ってきました。スノードン山 - Wikipedia

 登山は去年のベンネヴィスに引き続き2回目。

ウェールズ最高峰なのに1085mとかなりの低山でしたが、景観はよく、楽しんできました。

ベンネヴィスの時もそうでしたが、イギリスの北部の山を登ると宇宙の果てに来たような感覚に襲われます。

日本で言うと3000m級の山の中腹にいるような印象に近いです。(昔は同じような高さだったからそんな印象を持つのかなと思って軽く調べてみたのですが、そのサイトは見つかりませんでした。。。)

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ロンドンから片道4時間半かけて登山鉄道も走っている、山の麓の街「スランベリス」に到着しました。ここにあるCamping in Lanberisというキャンプ場に到着。Camping in Llanberis

久しぶりにキャンプをしてテントで寝ました。

 

どうでもいい話ですが、山の用品って購入するときは高いけど、その後はしばらく使えます。でも、年に何度も使わない(時には1年間まるまる使わなかったりします。)ので使える時はなるべく使いたい、そんなものです。

もう10年前ぐらいに日本で買ったテントを拡げ、その日は就寝。

 

スコットランドよりはましでしたが、イギリスの北部は虫が以上に多く、しかも、それが身体中を噛んでこようとします。

キャンプ場で虫除けスプレーを売っていたので購入したのですが、それがまあ、効かない(笑)

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横でテントを張っていた家族連れの子供が、「受付でスプレーを購入したけど全然効かない。」と。アジア人だから効かないわけじゃなかったみたいです。

横の人たちはクレームを言って返却したみたいですが、受付の人は「夜歩いてテントを確認する時に、こいつを塗ってるとまったく噛まれないんだ。」とのこと。

私は何となく効いた気がした気もするし、結構使ったので、そのまま買って帰りました。

 

翌日起きて、いざ、スノードンへ。この地域はイギリスでも天気がよくない地域らしく、実際、一週間前は雨の予報だったのですが、持ち前の根拠のない晴れ男の祈願によって、何と晴れました。

山自体は、下からとはいえ、1085mと1キロ強の登りですから、ゆっくり歩いて3時間ほどで着きました。登山電車は1時間ぐらいで着くそうですが、山に敷かれている線路の横を歩きながら、とぼとぼと登っていきました。

登山鉄道と言えば、大学生の卒業旅行でバックパックでヨーロッパを廻った時に、ユングフラウヨッホに寄りました。ユングフラウヨッホ - Wikipedia

その時は3月に行きましたが、吹雪に見舞われて何の景色も見えなかったので、今回はその線路が山にある不思議な景色に息をのまれながらの登山です。

遠目に電車がゆっくりと頂上目指して登っていく姿は、中々お目にかかれない不思議な景色でした。

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頂上はスノードンのWikipediaにもあるようにかなり混雑していました。

 

それでまあ、帰りは普通に降りてきて、テントに戻ってきて、翌日にロンドンまで帰ってきました。

 

とりとめもないことばかりですが、山やハイキングのブログって、いつも難しいなと書き始めて思います。

行く前は、興奮して行き方や天気、他にどんな山があるのか、どこにキャンプ場があるのかなど色々調べるのですが、いざ登り終わると、まあ目には景色が焼き付いているものの、イマイチ文章に起こしても面白みが出ません(涙)

 

まあでも、本当に綺麗な場所なので、イギリスに来ることが会って、何か特別なことをしてみたいと思ったら是非登山も考えてみられたらと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

インプットとアウトプットのバランス

ある患者さんに聞かれたことがあります。「どうしたら頭がよくなりますか?」

僕だって知りたいです。。。

とは言え、「どうでしょうねー」とお茶を濁すのも自分の性分に合わないというか悔しいので、考えてみました。

 

「頭がいい」を具体的にどういうものだろうと考えた時、その説明っていくつも切り口があるように思います。

1) 自分にはない感覚・視点で物事を捉えている

2) 誰でもわかるような説明をする

3) あることを詳細に語れる

4) あることと別のこととを結びつけて共通点を見つけたり、新しい観点なんかを見つけたりする

 

まだまだあるのでしょうが、今パッと思いついたのはこんなもんでした。

それをもう少し自分なりに噛み砕き・解釈してみようと思います。

 

1) 以前参加した勉強会で、「患者さんに侵害刺激と思われずに、患者さんに触れる。」という勉強会がありました。

こんなことなんて考えたことも想像したこともなかったのですが、デモンストレーションを見て、また、そういう観点で刺激を捉え直した時に、そういう刺激が存在するのかもと体験・感じることができました。

僕は鍼灸師という仕事柄、同じ職業の人と「身体」という同じ土俵で仕事をします。

鍼を使うにしてもどういうフィルター(考え方)で身体をみるかで、本当に様々に見えてきます。鍼じゃなくても指圧、カイロプラクティックオステオパシーなどなどその施術の仕方のフィルターを通してでも見え方が変わってきます。

 

2) わかりにくい例かもしれませんが、最近こういう会話を患者さんとしました。

ジャニーズが好きでEXILEがあまり好きでない方がおられて、「韓流スターはどうなんですか?」と質問しました。

私の中ではジャニーズが好きなら、甘いフェイスが好きという意味で好きなんだろうなと思っていたのですが、その方は「なぜかわからないけど、あまり好きではない。」という回答でした。

それでどうしてなのだろうと考えていて思いついたのが、「甘い顔なのにマッチョなのが好きになれないんじゃないのですか?」というもの。

それを伝えると、「そうそう!いい例えね。」とお褒めの言葉を頂きました。

「 誰でもわかるような説明」って、ようは、エッセンスの抽出のことを言うのかもしれません。

 

 3)これはまあわかりやすいと思います。(ちなみに、これの究極的なものは、詳細に自分が語れるかどうかは別にして、情報としては乗っているインターネットの世界だと思います。)

例えば、エヴァンゲリオンを私は何度かアニメシリーズは見ましたが、あまり詳細には語れません。でも、Wikipediaで検索してみるとこんなに長いページとなっています。

新世紀エヴァンゲリオン - Wikipedia

この情報を自分の口で語れたら、頭いいって思われるだろうなぁ。

 

4)これは、2)で出した例で説明できるのかなと思いました。

 

4)の説明でも書きましたが、実際は、1−4はそれぞれが絡み合い、また1が得意な人がいれば、2や3が得意な人など、「頭がいい」にも色んな「いい」があるんだと思います。

 

話を始めに戻すと、「頭がよくなるにはどうしたらいいのか?」という問いですが、当たり前ですが、頭がいいと思われないと、あの人は頭がいいなと認められません。

どれだけインプットして頭の中に知識が詰まっていても、アウトプットして人に伝えられなければ、頭がいいか悪いかわからないのです。つまり、アウトプットの仕方次第で頭がいいか悪いかが決まると言えるのではないでしょうか?

テストだって、1つのインプット▶︎アウトプットの経路の1つです。

 

最近みたYouTubeの中で島田紳介さんが面白いことを言っていました。(記憶の中の再現なので、多少間違っているかも)

 

「『阪神タイガースの選手で誰が好き?』っていう質問をされたのに対して、「掛布や金本って」答えたって何も面白くないし、そんなの視聴者は聞き飽きてる。

俺なら、サクセスストーリーを持ってる誰も知らんような2軍の選手を答えて、その選手がなぜ好きかを熱く語る。

野球のことを知らなくても、それだけでさも知ってるように見えるもんや」

 

多少のはったり、上記の3でなくても、1や4の工夫次第でいくらでも頭がいいと思わせることって出来るんだと思います。

 

話はそれますが、人を操ったりする人ってそうのを直感的?意識的?無意識的?にやるなと思ったのが、友達に誘われてアムウェイの勉強会に誘われた時のことです。

グループの代表の人に友人が僕を「クルーズで働いてる人です。」と紹介してくれた時に、その人が「俺もCelebrityというクルーズにアムウェイで招待を受けていってきたけど、すごく豪華だったなー。うんたらかんたら。」

そのCelebrityというのは実は5つ星で、その時、僕は6つ星のSillver Seaで働いていたことがあったので、そのCelebrityがそこまでいい船ではないのを知っていました。

まあ見た目は豪華でも、それこそはったりのクルーズなんていくらでもあります笑

 

でも、その代表の人は僕がクルーズのような豪華客船で働いてる人も僕のグループに来る、などなど、恐らく意識的だとは思うのですが、グループのメンバーに対してマウントポジションを取ろうとします。

そうなると、自分が知らない世界の場合、無意識に「この代表はやっぱりすごい。」と思っちゃう。

セラピストが本やDVDを出すのもそういう効果を狙った側面もあるだろうし。

 

脱線しましたが、つまりは、アウトプットの仕方次第で、どうにでも人は人を見る目を変えられるんだと思います。カメレオンのように。

そうなると、いかにアウトプットの練習をするかになります。

人に話すよりは、独白のようなこんなブログが一番僕は練習になると思ったので、一番始めに聞かれた患者さんには「ブログを初めてみたら?」と伝えました。

僕がブログをしてるのも、アウトプットの訓練なので。

 

もっと頻繁に書かないと。

 

セイウチもクレバーになれと応援してくれてます@ウルグアイ

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