ロンドンの、船上の鍼灸師の日記

2012年から客船で鍼師として働いていましたが、2017年からロンドンで治療家として働いています。治療のこと、クルーズのこと。色々綴っていこうと思います。ウェブサイトはこちら。https://www.junjapaneseacupunctureandshiatsuclinic.com/

ロンドン在住1年を振り返って思うこと

ロンドン在住から明日で1年と1ヶ月経ちます。

結婚記念日や誕生日じゃないですが、長い間住むということになった時、初めてその国に降り立った日のことって案外覚えているものです。

初めて行ったカフェとか。

 

この1年、日本にいるときと比べて何がどう変わったのかなと思い、振り返ってみることにしました。他人から見たら本当にどうでもいいことを今日は書くなのと、振り返りながら思います汗

 

・一人でいる時間が増えた&家にいることが苦にならなくなった

私は神戸の実家にいる時は、一人で家に何もせずにいることがとにかく苦手で、何か理由を付けては外に出ていました。美術館とか映画館とか行きたいところはいくらでもあるので苦ではありません。

ところがロンドンに来て、1人で家にいることが苦ではなくなりました。仲の良かった友達も減り、話し相手が減ったので当たり前と言えば当たり前なのですが、それとは違い、家に一人でいて本を読んだりするのがむしろ楽しいと思えるようになっているのです。

それはこの34年間で初めてに近い感覚なので、とても新鮮です。でもよく考えれば1人暮らしをするのが初めてなので、1人暮らしをするっていうのはこういうことなのかもしれません。船は1人暮らしと言えば1人暮らしですが、クルー全員が家族みたいな側面もあります。

 

・治療スタイルをカスタマイズさせた

私は治療経験が浅い状態で船で働くようになり、初めてここロンドンで陸地で治療家として働きました。

この1年で治療としての基本方針は変わりませんが、毎日人の身体に触れて何かしらの変化を起こさせるということをしていると、少しづつ気付くことが出来、少しづつ自分の施術が変わってきているように思います。

私の施術は基本的に、「痛い」と思われる施術をしていますが、船で働く前に働いていた治療院でしていた施術と基本的には同じでも、その「痛さ」は全然違うなと思います。

相手が痛いと感じようが感じなかろうが、筋肉を捌いていくというのが一番大切だと「学んだように錯覚していた」、治療家なりたての頃。

笑顔で挨拶を交わしてくれるのに指名が入らなくなってしまった患者さんに対して、すごく複雑な気持ちを持っていましたが、今ならその気持ちがよくわかってしまいます。

今でも私の施術は嫌がられることはありますが、気に入って頂ける方もいます。

もちろん、一切相手に「痛い」と思わせないような、クラニオやヴィセラルのようなアプローチもしていきますが、それはそれぐらい私の身体の診方に幅が出来たということなのでしょう。

 

 

つれづれ2点ほど書いたけど、美術や映画の趣味があう友達なんてのは日本でもあまり見つからなかったし、イギリスならなおのことかなと思いますが、話していてとても刺激を受ける患者さんにも恵まれたし、この1年はわりに充実していたなと思います。

来年の今頃再び振り返ったとき、同じことを書いていたくないなぁ。

 

私はなぜか昔から思い出話が嫌いで、昔に花なんて咲かせたくないといつも思います。今が明日が昨日より大きな花が咲くように。

楽しまないと。

 

 

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生ける屍なんて、なりたくない!

AIは私たちをペット化するか

以前に書いたこともあるかと思いますが、私は患者さんに接する時、この方の身体を機械的に診るか有機的に診るかをまず考えます。

機械的に診る」というのは身体を建物(破れないテントが一番近いでしょうか)と捉え、どこがどう引っ張り合いっこしてるから、ここをこうすれば引っ張り合いがなくなるというようなイメージで、「有機的に診る」というのは、身体を生命体というか気などが流れるものとして、オステオパシーで提唱されている脳脊髄液の流れなどにアプローチします。

 

身体とこころは切っても切れない関係であるとは充分承知していますが、ある医療系のサイトが発行してるメールマガジンで「患者さんにアドバイスや症状の説明をする時に、右脳に働きかけるか左脳に働きかけるかを使い分けよう」という一節があり、なるほど、私が考えていたのはそういうことなのかなと腑に落ちたのを覚えています。

つまりは、左脳が発達している人には機械的なアプローチ、右脳が発達している人には有機的なアプローチを先行して行うということです。

 

ご存知の方もおられるでしょうし、先生ご本人のブログを読めば1番わかると思うので具体的な説明は省きますが、私は栗原先生が考案された整動鍼というものを鍼を用いる時の基本的な考え方として用いています。

整動鍼とは – 一般社団法人 整動協会 SEIDO Association

そのセミナーがバルセロナであったので先日参加し、先生とAIについて話す機会があったのですが、尻切れになったので今回考えをまとめて書こうと思います。

 

私はまず、人間という存在が「コンピューター(先にあるものとしてのAI)と動物」との間に位置するものじゃないのかなというのが考えとしてあります。

雑に書きますが、人間は他の動物に比べて脳が発達しているため今のような高度とされる文明を築いたとされています。この発達した脳は私にはフリーズできないコンピューターのように思えてなりません。

コンピューターと脳との大きな違いは強制終了できるかどうかだと思っていまして、気が上に上っている状態の患者さんに手を触れた時のこの何とも言えないモヤモヤした熱はフリーズしたパソコンの熱感に似ていると感じませんか?

パソコンの強制終了のようにボタン1つで、神経のネットワークを一度リセットしてくれたらどれだけ楽だろうなとそういう方に触れるたびに思います。

 

その一方で、以前のブログにも書きましたが、人は自分達と同じ属(同じ属であっても、肌が黒かったり黄色かったり、どこで生まれたかというだけで差別がある)以外のものに対して、平気で自分たちには出来ないことをします。

動物の肉を食べるということ自体がそれにあたると言えばそうですが、犬や猫に対して私たちは避妊手術をしたり(優生保護法という名のもと最近まで日本でも同じことを人間に対してしていました。)、薬の開発のために用いたりしています。優生保護法とは - コトバンク

その点からすると、人が生み出した、人の進化の先にあるものと私が思う人工知能は、我々人間に対しても同じようなことをするのではないでしょうか。

 

中国では人工知能を使ってチャットができるサービスがあります。知らなかったですが、ラインでもあるらしいですね。Xiaoice(シャオアイス)に託された大きな夢 - News Center Japan

信憑性に足るかどうかは別にして、シャオアイスという人工知能の女性に対して、ユーザーの4分の1が「愛してるよ。」と言ったとこのサイトにあります。

 

私の趣味や癖を全て知り尽くした上で、私の思ってることに対して私がこう返して欲しいというような言葉(先に書いた右脳を使う人には右脳を刺激するような答え方)を書いてくれたら、もう人工知能の思うツボと言うか、術中に自らハマりにいきますね!

それはでも、一節で言われている「犬は自ら選んで家畜」となったということと文脈では繋がっているような気がしてなりません。

犬を可愛がるように、私たちは人工知能に可愛がられる時代はもうすぐ来る!というか、もう半分以上来てるように思います。どっぷりそのマーケティングに浸かってるよなぁ…

 

セミナーの中で、あるツボをデモンストレーションで使った時に「身体がゆるんでリラックスした」という感想を述べた人がいました。その時、栗原先生が「身体が緩めば心が緩むからです。」と説明されてました。

もし仮にAIの精度が進み、私たちの性格・精神の奥の奥まで分析して理解して、私たちの悩みに対して、ドストライクの言葉で言ってくれたら、AIが心を緩めてくれて、身体が緩んでくる時代だってくるのかもしれません。いや、抗鬱薬なんてのもなくなる時代は本当に来るかも。

 

岡田斗司夫さんのだいぶ前のPodcastで面白いことを言ってました。(記憶が曖昧なので、私なりに編集して書いている可能性があります。)

「車が開発されてなかった時代、人間はどのようにして早い乗り物を想像していたか。なんと、馬車にエンジン的なものを取り付けたりしていた。(実際、そういう想像をして描かれた絵があるそうです。)つまりは、私たちが想像することなんて、ちっぽけなもので、それを超えるものが現実として出てくる。」うんたらかんたら。

手書きだけで仕事をしていた人が、どのようにして、パソコンで手書きの数倍の速度で文章を書き、それを一瞬で届けたい相手に届くように想像出来るでしょうか?しかもここ、20年ちょっとの話で。

 

人工知能の開発をされてる方が患者さんで来られたので「鍼灸やマッサージがロボットに変わられる時代は来ますか?」と聞いてみましたが、その方は「開発の投資に対して、利益の回収が見合わないから、そんなことはない。」という答えでした。

その時はほっとしたものの、本当に変わられることはないのか。

 

びくびくしつつ、目先の生活を考えて(笑)、今日も精進して行こうと思います。

 

 

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 ナマケモノは自ら人に触られることでエサをもらうことを望んだのか…@マナウス、ブラジル

 

 

 

 

 

 

鍼灸業界のアイドル

今週のお題「私のアイドル」

 

このお題をみて改めて考えると、鍼灸ないし治療の業界の人にとって、特にキャリアの初めに「自分のアイドル」となれる人が見つかるかはとても大切なことだなと思いました。

というのも、この業界で絶対と言ってもいいぐらいぶつかる壁の1つが「実費で食べていけるか」です。

整骨院や病院のように保険請求をして食べて行くのではなく、国民保険に頼らずに、実費だけで食べて行きたい!

と思う人は大勢いますが、そうは中々問屋が卸さない。

そこまで行くには、地道に力をつけないといけないし、もしかしたらそれ以上に、マーケティングのことや話すこと・話し方なんてのも必要になってきたりします。

そうして心が揺れ動いて、整骨院でこのまま働いていいのか、とか、でも収入が安定してるし整骨院で勤め続けようとか葛藤する鍼灸師の人は数多くおられます。

 

その時に心の支えとなるのが、自分にとってアイドルとなる人がいるかどうかだと思います。要は、師匠ですね。

 

私は脱サラしてこの業界に来たので治療師としてのキャリアは遅く始まりました。

でも、会社員の時に時々通っていた整骨院で、そこの先生に「会社を辞めてこの業界で働いてみたいんです。」と意を決して相談したところ、実費の鍼灸院を営まれているその先生の師匠に当たる方を紹介してくれたのです。

それを機に、週末に片道2時間以上かけてその師匠の元で勉強しつつ、平日は会社員で普通に働くという生活を1年半ほどしました。

会社を辞めて学生だった時も、週末はその師匠の方がされてる勉強会にお邪魔しつつ、平日は学校に行きながらクリニックで働いていました。

 

その後もその師匠の別のお弟子さんのもとで実費の鍼灸院で学んだりして、クルーズで働くキャリアへの道が続いて行きました。

 

実費で食べて行こうとするなら、実費で食べてる人の姿をみないと、食べて行けないと思います。

働けなかったのですが、何度か見学に行かせてもらったとても忙しい鍼灸院の先生が仰っておられて、残っている言葉があります。

そこは1回4千円という治療費だったのですが、見学してる私に「4千円がどういうものなのか知っておかないといけない。例えば、1回4千円でどういうものが食べられるかとか。4千円の価値、ないし、自分の治療がどういう価値と等価を知っておかないと、どういう思いで患者さんがこのお金を払って治療を受けに来てくれていただいてるかがわからないよ。」と言って下さいました。

 

その言葉はとても残っていて、来ていただいてることを当たり前に思っちゃ行けないなと、今この日記を書きながら改めて痛感しています。

でも、保険が収入のメインであったなら、そういうことを感じにくくなってしまいますし、実費をもらって生きているこういう方の考え方は出来ないかもしれません。

そういう意味で、私は働いているキャリアの中で自分にとって尊敬出来る「アイドル」

が何人もいて、恵まれているなと思います。

 

アイドルの先生方、ありがとうございます。

今日も精進していきます。

私もいつかイチローのようにレジェンドに…

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治療院で暇になると考えてしまうこと

私が働いているクリニックがロンドンにあるものの、日本人がメインのクリニックだからでしょうか、年末年始が暇になります。

日本だと年末年始の休みの時に治療院に行っとこうとかとなるかもしれません。

ですが、海外の治療院で働いている場合、どうしてもお盆や年末年始は「日本に帰る」となります。

 

私が患者さんの立場だとそう考えます笑

 

こんなに暇になったのが久しぶりだったなあと思うと同時に、1月末で在英1年となるのですが、この1年でどれぐらい患者さんがついたのかなと振り返ってしまいます。

実際、ここで10年いる方はそれなりに忙しくされておられたので、年末年始とか関係なく忙しい方は忙しいわけです。

 

そうなると、ひとえに私の実力が足りず結果を出せなかったので、1年たっても暇になってしまうんだなと痛感します。

私を贔屓にしてくれる患者さんから言われて、今でも覚えている言葉があります。

「5年のキャリアを1年に縮めることはできる。」

 

どうしたら縮められるんだろう。

「ただただ勉強して、どんな人が来ても結果を出す。」

それにつきるんじゃないかなと思ったりします。

 

この治療業界に入って、芸人さんをとても尊敬するようになりました。

自分たちの身体のみで、世界とぶつかり渡り歩く。

 

さまざまな彼らのエッセーやコラムを読む中で何回も出てくる言葉が、「自分たちの芸を磨き続けるか、先輩などの意見を参考にしてスタイルを変えていくか。」ということ。

 

治療だってそうです。様々な治療法がありますし、同じ治療法でも触り方、施術の仕方は人によって異なります。

 

時間が不意にたくさん出来たことは、そういうことを考える機会を与えてくれたご先祖様のご褒美なのかもしれません。

ですので早速、受付の方などに、どうしたら患者さんが着くか相談してみました。

 

自分としてはそうじゃないと思っていても、客観的に見たら、そう思われることって結構あるもんですね笑

言われたことを素直に聞けるかな。

このままでいいと自分に自信を持って、集中していけるかな。(これは案外難しい)

 

新年を迎えて、去年とは違う人生の流れになったなと痛感する新年早々の日々です。

 

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写真はポルトガルリスボンの新しい観光スポット。ブッダのようになれるかな。

 

 

 

 

 

 

イギリスのクリスマスと距離感

イギリスで初めてのクリスマスを迎えました。

他の西欧諸国では知りませんが、イギリスの場合、クリスマスが一年で一番盛り上がりをみせると言っても過言ではありません。

 

初めて聞いた時は本当に驚きましたが、25日は全ての交通機関が止まります。

殆どの店は休みで、私の勤めるキリスト教徒でもなんでもないクリニックでさえ25と26日は休みです。

 

だから一日中街は静かなのかなと思ったら、案外道は混んでいてびっくりでした。

 電車もバスもないので、車しか交通手段がないのですから笑

御多分に洩れず、私もその日は知人に会いに車で出かけました。

 

この、何もやってない感覚を表現できないかと言葉を手繰り寄せようとしますが、中々うまくいきません。。。

 

 SIlent night holly night

以前は本当に静かなクリスマスだったと、ここに長く住んでいる人達は話していました。

 

 一度心を鎮めて、来年の祈願にふけるのもいいかもと思ったクリスマスでした。

 

 

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写真はセントポールというロンドンで大きな寺院のクリスマスのミサです。

 

 

 

いつどこで生まれるか

ロッコへ旅をして来ました。10日間。

砂漠へ行きたかったものの、引っ越しで色んな経費がかさんだり、1人だと思ったより高かったりで断念したため、モロッコの街を巡ってきました。

 

日本を離れて10ヶ月、久しぶりに発展途上国と呼ばれる国を旅してきました。

そこで改めて思ったのは、「いつどこで生まれるか」について。

1980年代に私は日本で生まれたわけですが、高度成長期時代を経て、ここ日本で生まれたことは、とても幸運だったと思います。しかも、私が就職活動をしていた時はリーマンショック直前で売り手市場。GW前に決まっていた友人はいっぱいました。

しかし、70年代終わりに生まれて、就職氷河期だった時はどこにも就職口がなかったわけです。

それをもう少し長い尺度で考えれば、戦後すぐに生まれたなら、私が生まれ育った時ほど物などに溢れた生活ではなかったのだと思います。

一方、その尺度を生まれた年度ではなく場所で考えれば、例え今2017年に生まれたとしても、日本で生まれるかモロッコで生まれるかで人の生涯で得られる年収や、すごい嫌な言い方をすれば人の価値だって違うかもしれない。

 

そんな「いつどこで生まれるか」なんて考えても仕方ないし、絶対に自分よりも境遇が良い人も悪い人もいるわけです。

患者さんにモロッコ地球の歩き方を借りて持って行っていたのですが、その中に「モロッコに旅をしに来れるだけでも恵まれている。」というような旨の言葉が書かれてあり、改めてそうだよなぁと感慨深くなりました。

 

船で働いていた時も、私より年を重ねている方が、ハウスクリーニングだったり、皿洗いをされてる方がいて、祖国より給料がいいからここで働いているんだといっていました。

世界中を旅してみたいからという理由も立派に成り立ちますが、劣悪な環境でも給料という現実的な問題から船での生活を選ぶ人だっています。

 

個人的な理由なんて、自分以外どうだっていいのかもしれませんが、今ここにこうして生まれてきたことを噛み締めて、感謝して行きたいなと思う、モロッコ旅でした。

 

 

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クルーズの経験を振り返って思う、どこが何が一番綺麗だったんだろうということ。

今週のお題「芸術の秋」

 

私がクルーズで働いていたと患者さんに伝えた時に、「一番よかった国や街はどこですか?」と聞かれることがあります。

卑怯だろうと思われるかもしれませんが、それはずばり「南極」です。

 

 

 

クルーズ船での鍼灸師として働いていた時に、幸運なことに私は南米を2度周遊する機会に恵まれ、そのうち2度目はフォークランド諸島と南極の南米側の端を遊覧するという機会に恵まれました。

フォークランド諸島は夏でもとても風がきつい地域らしく、1度目の南米周遊でも立ち寄ろうとした時に風が強くて断念したという苦い経験があります。

ちなみに、その時に横にいたクルーは、「僕はフォークランド諸島には5度目だが、未だに立ち寄れないんだ」と言ってたので、2度目で立ち寄れたのは運がいい方なのかもしれません。

 

フォークランド諸島でも南極でも、びっくるするのはペンギンが普通にいることです。

世界の南端に行ったことがない人にとって、ペンギンは水族館にいるものであり、陸地にいるものではありません。

私にとってもそうでした。

ところが、当たり前の話ですが、ペンギンはそもそも野生の動物であり、水族館に生息している動物ではありません。

 

そのペンギンが、何の隔たりもなく目の前に在る。

くじらが船の横で優雅に潮を吹く。

アザラシが氷の大地の上でふてぶてしく座っている。などなど

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それは彼らにとって当たり前でも、私たちにとって当たり前じゃない。むしろ当たり前じゃないのに、水族館という場所で当たり前にみれることが、昔じゃ考えられない、当たり前じゃないことです。(水族館のすごさに今回改めて気付きました)

 

患者さんを治療していて、不意に気付かされるのは、その人が命を持って存在していることの存在感であり、すごさです。

それは美術品としてどんな綺麗な絵画や彫刻などを目の前にして感動したとしても、やはりそれは生きておらず、その存在感には敵いません。(気を宿していることはあっても)

オノ・ヨーコさんが発表した、「暮れていく太陽を、窓ガラスか何かに映した」作品(タイトルを検索してみたものの見つからず…)のように、生きているモノが宿す、自然に生きている中で醸し出される存在感に勝るものはありません。

 

うつ伏せになっている患者さんの、浅く早かった呼吸が少しずつ鎮まっていき、深くゆっくりとなっていくあの瞬間は、いつでも私に命を宿していることの尊さを思わせてくれます。

 

囲われた場所でしか見たことのなかった動物が生き生きとその動物本来の姿を見せてくれた南極。

やっぱりそこがクルーズの経験の中で一番綺麗であり感動した場所です。

 

 

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