ロンドンの、船上の鍼灸師の日記

2012年から客船で鍼師として働いていましたが、2017年からロンドンで治療家として働いています。治療のこと、クルーズのこと。色々綴っていこうと思います。ウェブサイトはこちら。https://www.junjapaneseacupunctureandshiatsuclinic.com/

Winchester〜Queen Elizabeth Country Park〜Petersfieldへ その1

 前回に引き続き、サウスダウンズウェイ国立公園を歩いてきました。

サウスダウンズ国立公園(South Downs) | VisitBritain

Discovery Map - South Downs National Park Authority

 

一ヶ月に一度ぐらいはハイキングに行きたいなと思っていたのですが、一ヶ月って案外すぐなんですね笑

今回はどこに行こうかなと思って、ダウンロードしたサウスダウンズウェイ国立公園のガイドマップを色々とみていました。

このガイドにはハイキングの参考時間があるのですが、書かれてある半分ほどの時間で行けたので、今回は少し長めの8時間ぐらいのものにしようと思いました。

参考にしたガイドブックが「電車とバスで行って来れるサウスダウンズウェイ」というもので、有名なポイントは電車やバスで行けますが、それ以外は車以外にアクセスする手段がありません。

そこで、それを参考にして、どのようなルートなら日帰りで帰って来れるか色々調べていました。

 

そこで今回行こうと決めたのが、タイトルにも書いた、「Winchester〜Queen Elizabeth Country Park〜Petersfield」のルートです。

トータルのルートタイムはガイドには書かれていなかったので、グーグルマップを参考にしました。

Google マップ Winchester〜Queen Elizabeth Country Park

Google マップ Queen Elizabeth Country Park〜Petersfield

 

トータルのハイキング時間は8時間ほど。それに2時間を足した10時間ぐらいなら一日で歩けるだろうと思い計画しました。

 

イギリスではまず交通手段を決めることから始めます。

日本と違いこちらは金券ショップというものが列車の場合ありません。そもそも、私鉄というものがない(多分)ので、競争する必要がないからではないでしょうか。

しかし、だからなのか、オフピークだったり、事前に買っておけば値段を安くできたりなど、入念に調べておけば安く行けます。

例えば、前回セブンシスターズへ行った時に、Eastbourneという街からロンドンまで帰ったのですが、何も買わずに窓口でかえば30ポンドぐらい。でも、オフピークのチケットを事前に購入していれば6ポンド。

この差24ポンド。事前に買っておくかどうかだけで外での夕食分ぐらいの違いが出る訳です。

 

なので今回もそんなお得なチケットがないか調べてみたのですが、ない…

いつでも乗れるものとオフピークのもので1ポンドも違いがない。本当に、どういう基準で安いチケットと安くないチケットを売っているのか。不思議でなりません。

 

今回ウィンチェスターへ向かうのは電車だと32ポンド。高いなぁと思い色々調べてみたら、バスが出ていてそれが6ポンド!

所要時間も電車が1時間半に対して、バスが1時間50分とそんなに違いがないので、こちらにしました。

ただ、電車が朝早い時間からあるのに対して、バスが8時出発しかない。

10時から歩き始めて、10時間歩くと、20時頃にピーターズフィールドに着くということで、帰りは20時の電車を予約しました。(バスは残念ながらありませんでした…)

 

 8時のバスにのり、10時前にウィンチェスターへ。

ウィンチェスター (イングランド) - Wikipedia

 

私は全然知らなかったのですが、有名な街なんですね。もっと観光してもいいかなと思ったのですが、いかんせん20時の電車が待っているので、大聖堂だけみてここを後にしました。

ウィンチェスター大聖堂 - Wikipedia

 

ロンドンも綺麗ですが、こういう郊外の大きな街にこそイギリスの本来持っている美しさや国の価値観のようなものが現れるように思いました。

手短に30分ほどでウィンチェスターへ行った気分で味わうプチ観光をして、サウスダウンズウェイへの岐路へ。

 

続きは次回に。

 

 

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セブンシスターズへ。その3 郊外にこそ、その国らしさがあるのか。

その1・2で山に登りたい理由とか色々書きましたが、頭で色々と考えるより、そもそも私はやはり山が好きです。山と言えるほどのものではないですが…

今回は、その行ってきた行程を書きたいと思います。

 

セブンシスターズはイギリス南部ではとても有名なところで、South Downsという国立公園の中にあり、その東端になります。

サウスダウンズ国立公園(South Downs) | VisitBritain

South Downs Way - Wikipedia

 

色々調べた所、そこは2−3時間の行程のところらしく、そんな時間だと半日で終わってしまうなということで、行程を少し伸ばしました。

Google Maps

 アルフリストンというところから2時間ほどあるき、セブンシスターズを横断する、ガイドブックで計6時間ほどのコースにしました。

 

朝、6時半ぐらいの電車にのり、歩き始めます。

イギリスの田園風景をひたすら歩く。

花が咲き、教会が街に寄り添うように在る。

私はどんな土地にも氏神さんというものがあると考えおり、それはイギリスにももちろんいると思っています。

日本だと神社としてそこが祀られていたりするわけですが、イギリスだとそれは教会になるのかもしれません。

でも、教会と神社とではどこか雰囲気が違います。

神社は護られているという印象を受けますが、教会は共に在るという感じがすごくします。有名だったり、大きな教会は別ですが、小さな街のそれはそういう印象を受けます。

 

 

今回私が歩いたのは、サウスダウンズ国立公園内の道を歩く、サウスダウンズウェイ。

その標識を目印に、ただ歩いて行きます。

 

 

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日本で言うと、「里」に近いのでしょうか。牧歌的な雰囲気が漂うところを進みながら、イギリスの春を満喫しました。

 

 

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しばらく歩いて行いると、不意に場所が開けました。

海までたどり着いたのです。

 グーグルマップで調べながら歩いていたので、もうすぐ海なのは知っていたのですが、不意に開けるとやはり気持ちがいいものです。

ちなみに、写真の左奥の方に見えるのがセブンシスターズです。

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この山を下り、ようやくセブンシスターズへ。

日差しがさすからか、絶壁がかすむようにみえ、とても神秘的でした。

ロンドンも東京も大阪もニューヨークも大都市になると、世界中の人が来て、大きな建物がそびえ立ち、経済を回す。

その仕組みから醸し出される雰囲気は、どの街でも根本は同じように思います。

 

でも、田舎に行くと違って来るのかもしれません。その国が土地が本来持つものがにじみ出てくるからではないでしょうか。

もっと、イギリスの色々な空気を吸ってみたい。

そう思えた、セブンシスターズへの1日旅行でした。

 

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セブンシスターズへ。その2 達成感と人生の肯定感

マラソン、筋トレ、山登りに共通するもう一つのもの。

それは、結果が出ることだと思っています。

 

社会人になって、はたまた、社会人の前でも平穏な日々が続いている時に、不意に不安が襲ってくることはありませんか?

「 人生このままでいいのか?」

「何かの役にたっているのか?」

 

などなど。

 

 私は思春期の頃から、周期的にその波がやってきます。

その波が来ている時に、山登りをしたくなるようにも思います。

(前回書いたように、動物的要素を求めている時にも山に登りたくなりますが、 この2つの要素の根本は同じで、自分が積極的に人生を過ごしているか、充実しているかという点だと考えています。)

 

なぜそうしたくなるのか。

それは初めに書いたように、結果が出るからです。

結果が出れば、充実感を私は味わえるからです。

 

その充実感が、仮初めであっても、人生を彩ってくれ、豊かであるように感じさせてくれます。

 

旅に出て世界の多様性に触れた時に、人生が豊かになるように思いませんか。こんな音楽があるんだとか、こんな食べ物があるんだとか。

それに近いような感覚が、そびえ立つ山に向かいただひたすら登り、到達したところから見える景色、そしてそれは、自分の足で登った人にしか見えない景色が拡がった時にあるように思います。

それも一つの多様性と言えそうです。

 

 私が社会人だった時、毎週のように山へ行っていたのもそに反動だったように思います。

自分なりにうまく回そうと思っても、自分の力が及ばないところで自分に責任を持たされたり、上司にずっと怒られてメールを送れなかったりして、自分の中での充実感・何かをやり遂げて感覚は全くと言っていいほどありませんでした。

 

その中で、登れない責任が全て自分のしかかってくる、また、そこに到達した先には、行った者しか知らないご褒美(景色)がある。

そんなわかりやすい関係が、私を一層山登りに向かわせたのだと思います。

 

話をはじめに戻します。

随分と長い前振りでしたが、次回にセブンシスターズについて書きたいと思います。

 

 

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セブンシスターズへ。その1 僕が山に登りたくなる理由

イギリスに来てから、早3ヶ月。

生活にも慣れてきたものの、色々と計画するのが面倒くさかったり、治療が好きだったりもあり、ほぼ毎日治療院に顔を出していました。

 

しかし、私は昔から、街に疲れてくると、自然の中に身を置きたくなる性分で、そのことは大学時代に初めて北アルプスを1週間かけて縦断した時に実感しました。

 

山登りはしんどいです。

ある友人から「山登りという言葉は正確じゃない。山登り下りが正しい。」と言われました。

 

まあそんなことは置いといて、なぜ山登りが好きなのかと言えば、それはしんどいからです。

街中にいるときとは違い、芯から疲れることが出来るからです。

それがなんとも心地が良い。

 

歩き始めは、足が登るのに馴染んでなかったりして余裕が全然ありません。

また、自分の生活のことだったり、患者さんをこうしておけばもっと良い結果が出せたんじゃないかとかごにょごにょ考えています。

ところが、ある地点を過ぎると、そういったことを考えるエネルギーが歩くほうに割り振られないといけなくなってきます。

それを人はゾーンにはいったという人もいるのかもしれません。

 

人間は動物とコンピュータの間の生き物だとは前にも書いたし、今でもそう思います。

この山登りという行為は私にとって、コンピュータに傾きすぎた自分を動物側に引き戻してくれるものだと思っています。

 

だから、街中にいて、考えないといけないことや、考えなくてもいいのになぜか考えちゃうこと、はたまたイライラなどの感情だけに引きずられて人間のコンピュータが暴走していく中で、自然の中で動物に戻りたくなる衝動が出てくるのだと思います。

 

それはマラソンにハマってしまう人や、水泳や筋トレにハマってしまう人とそんなに根本は変わらないのではないでしょうか。

 

動物になりたいのと別にもう一つ、山登りマラソン筋トレに共通するものがあると思っています。

 

それは次回に。

 

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「笑いは緊張と緩和だ」とは明石家さんまさんの言葉みたいだけど、それは呼吸や人がブログを書いたりするのと同じなのかな

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「笑いは緊張と緩和だ」と明石家さんまさんが言っていたみたいという誰かの言葉をずっと覚えていました。

本当にさんまさんが言ってたのかなと思って検索をかけてみたら、さんまさんも含め色々な方がそのように思っておられるんですね。

知らなかった。

笑いは緊張と緩和 さんま - Google 検索

 

もしその緊張と緩和が笑いを生むのなら、それが1つの真理なのかもしれません。

その一方で私はこうも思っていました。緊張と緩和は呼吸のようなものじゃないかと。

吸収と排泄ともとれるのかなと。

 

イギリスに来てからブログを書けていないなぁと思っているのですが、なんで書けないのかと自分なりに考えていました。

時間がないから?いや、そうではありません。

私の職場は12時から8時までで、朝は7時前後に大体起きて、出発は10時半すぎ。

3時間半もあれば、たとえ昼のお弁当を作ったとしても、時間はあります。(最近は作り置きということも覚えたので、20分ぐらいで弁当ができることもあります。)

 

だとすると、ブログを更新しようとしないのは何か理由があるはずだと。

それで思ったのが、「生活の中で、ブログの更新の順位が低い。」です。

 

恥ずかしながら、齢33にして、初めて一人暮らしをしました。船でも一人暮らしでしたが、炊事はもちろんのこと、自分の服以外はハウスキーパーがやってくれていたので一人暮らしでも時間がたっぷりありました。

一人暮らしってのは、色々やることがあるもんですね。あと、交通手段に自転車を使っているので、通勤に1時間弱かかります。

そんなことをしていると、時間はあるのに時間に追われている気がして、ブログの更新をする気が起きなくなってくる。

多分、これが答えのような気がします。

 

しかしところが、ブログを更新していないと居心地が悪くなってきます。

1年以上続けているからというのもありますが、「緩和がないから。」という考えがふと浮かびました。

 

「緊張と緩和」

という言葉は、色々な言葉に置き換えられないでしょうか。

吸うことと吐くこと。▶︎呼吸

吸収と排泄。▶︎消化

凝縮と拡散。

などなど。

 

書いてみて思いましたが、「緊張と緩和」「凝縮と拡散」がイメージに対して、それを具体化したものが「呼吸や消化」と呼べなくもない。

呼吸や消化の前段階に必ず、この2者の状態がイメージとしてあるように思います。

 

人の活動も基本的にはそうだと思います。

私は患者さんに時々「もっと泣いて下さい。」とアドバイスすることがあります。

それは、ストレスを抱えて受け止める=緊張と凝縮、ばかりしていると身体がバランスを崩していきます。

それが症状として病気と認知されるわけですが、その緊張と凝縮を和らげるには緩和や拡散が必要です。

涙は心の汗だと私は考えており、感情的なストレスが凝縮しているなら、感情的なストレスを緩和しないといけません。それは緊張と緩和という対比があるからです。

 

 色々なことをスケジュールの中でこなしていくという「緊張」の中で、ブログを書くという「緩和」を身体が求めているのかもしれません。

映画を観て涙を流すのもいいですが、違う形での緩和のほうが緩和しやすい人だっています。

 

「書くという行為を通して、自分の気持ちを見つめ直していく。」のが張りつめた緊張を緩和していくからこそ、私はブログを更新しないことで居心地が悪くなったのかもしれません。

 

うん、きっとそうだ。

また1つ私の心の緊張がほぐれました笑

 

 

メモ

第2中手骨を使って頸部の痛みを取る。

 
第2中手骨からラインを引いて、相手が訴える痛みの場所にラインを引きます。
 
当該部位に伝わったら、第2中手骨を「コツンコツン」と少し動かすと、その該当部位に「コツンコツン」と響きます。

 

観えないラインは、実際は身体を駆け巡り、ちゃんと伝わっています。
 
概念を変えないと無理。
解剖書で観る身体構造は理解しておくこと。
施療ではそれを消す(笑)
消さないと、その部位は硬直します。
身体を観る時、骨や筋肉として観ても無理。
 
身体は水風船です。
触ったら、波紋が広がって、石がある所で止まります。
 
しかし、それに集中することなく、無視することなく(笑)
 
例えば、骨は硬いと思ったら硬いです。
圧を掛けて水が出れば良いですけど、出ない所は硬いんですね。
 
イメージは、高野豆腐(笑)
骨は水分を含んだ組織です。
3軸方向に圧を掛けて、水分が出ない、出にくい方向に問題があります。
 

例えば三角筋にある何本かのゴリゴリとした線維。

筋膜を包んでサーと撫でるだけ。
1秒で終わり(笑)
 
これは筋肉をイメージしていません。
筋膜と筋膜の間に隙間を作るだけ。
筋間中隔に隙間を作るだけ。
 

治療家は僧侶と医者の間にいる その2 心を診るってなんだ

治療家は僧侶と医者の間にいる。

なぜなら、「心と身体両方からアプローチするからだ」と書きました。

 

じゃあ、心を診るって何なんだろう。

 

人の話を聞く。

それだけでいいのかもしれないし、それだけじゃ不十分なのかもしれません。

 

励ます。

励まされたい人もいれば、励まされたくない人もいるかもしれません。

 

それは音楽に近いものなのかもしれない。

女性の声が聞きたい時もあれば、男性の声が聞きたい時もある。

また、歌声が聞きたい時もあれば、声が邪魔で、楽器からの音だけを聞きたい時もある。

 

混乱していると、でも、どういう音楽が聞きたいかわからなくなることがありませんか?

i-Tunesを立ち上げて、ランダムに音楽を流して行くと、どうも落ち着かないなと、どんどんスキップしていく。その行為がまた、集中力を削ぐのですが笑、ふとした時に、▶︎▶ボタンを押さずに音楽が流れていることがあります。

そして、私は、こんな音楽が聞きたかったのだと、ざわざわしていた心が落ち着きます。(このブログを書きながら、あれこれ考えていた時に、流れてきて心に落ちた音楽は DucktailsのPorch Projectorでした。)

それは、川から桃が流れてきた桃太郎の一節みたいに、音楽の大河から、自分が何かをつかみ取ったようでした。

 

これが心を診るということかも。

ふいに思います。

その人が悩んだり、苦しんだりしていると、何がどうだか冷静に自分を客観視できなくなってしまいます。

 

治療家のもてる財産の1つは、治療を通して得られた多くの患者さんの身体と心の人生を過去・現在・未来でもって知っていることだと思います。

上に書いた音楽の大河から、その時聞きたい音楽がふっと届くように、私の財産が、その時知りたい言葉を贈ることが出来るのかもしれません。

 

治療院には、身体に表出する症状を改善するために来院されます。

それが心の癖から来ていたら、心を診ないといけません。(その1に書いたように、心身一如ですから。)

その時、知りたい言葉を贈ることが出来れば、心は癖を修正出来るかもしれません。

(それを身体に置き換えると、「身体にその時受けたい刺激を贈ることが出来れば、身体は姿勢を修正出来るかもしれない」と言えるかもしれません。)

 

でも、身体の姿勢が元に戻るように、心も癖が戻ってしまう。

 その時に応じて、患者さんへ言葉を贈ることが出来れば。

 

そうありたいな。

 

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