「笑いは緊張と緩和だ」とは明石家さんまさんの言葉みたいだけど、それは呼吸や人がブログを書いたりするのと同じなのかな
「笑いは緊張と緩和だ」と明石家さんまさんが言っていたみたいという誰かの言葉をずっと覚えていました。
本当にさんまさんが言ってたのかなと思って検索をかけてみたら、さんまさんも含め色々な方がそのように思っておられるんですね。
知らなかった。
もしその緊張と緩和が笑いを生むのなら、それが1つの真理なのかもしれません。
その一方で私はこうも思っていました。緊張と緩和は呼吸のようなものじゃないかと。
吸収と排泄ともとれるのかなと。
イギリスに来てからブログを書けていないなぁと思っているのですが、なんで書けないのかと自分なりに考えていました。
時間がないから?いや、そうではありません。
私の職場は12時から8時までで、朝は7時前後に大体起きて、出発は10時半すぎ。
3時間半もあれば、たとえ昼のお弁当を作ったとしても、時間はあります。(最近は作り置きということも覚えたので、20分ぐらいで弁当ができることもあります。)
だとすると、ブログを更新しようとしないのは何か理由があるはずだと。
それで思ったのが、「生活の中で、ブログの更新の順位が低い。」です。
恥ずかしながら、齢33にして、初めて一人暮らしをしました。船でも一人暮らしでしたが、炊事はもちろんのこと、自分の服以外はハウスキーパーがやってくれていたので一人暮らしでも時間がたっぷりありました。
一人暮らしってのは、色々やることがあるもんですね。あと、交通手段に自転車を使っているので、通勤に1時間弱かかります。
そんなことをしていると、時間はあるのに時間に追われている気がして、ブログの更新をする気が起きなくなってくる。
多分、これが答えのような気がします。
しかしところが、ブログを更新していないと居心地が悪くなってきます。
1年以上続けているからというのもありますが、「緩和がないから。」という考えがふと浮かびました。
「緊張と緩和」
という言葉は、色々な言葉に置き換えられないでしょうか。
吸うことと吐くこと。▶︎呼吸
吸収と排泄。▶︎消化
凝縮と拡散。
などなど。
書いてみて思いましたが、「緊張と緩和」「凝縮と拡散」がイメージに対して、それを具体化したものが「呼吸や消化」と呼べなくもない。
呼吸や消化の前段階に必ず、この2者の状態がイメージとしてあるように思います。
人の活動も基本的にはそうだと思います。
私は患者さんに時々「もっと泣いて下さい。」とアドバイスすることがあります。
それは、ストレスを抱えて受け止める=緊張と凝縮、ばかりしていると身体がバランスを崩していきます。
それが症状として病気と認知されるわけですが、その緊張と凝縮を和らげるには緩和や拡散が必要です。
涙は心の汗だと私は考えており、感情的なストレスが凝縮しているなら、感情的なストレスを緩和しないといけません。それは緊張と緩和という対比があるからです。
色々なことをスケジュールの中でこなしていくという「緊張」の中で、ブログを書くという「緩和」を身体が求めているのかもしれません。
映画を観て涙を流すのもいいですが、違う形での緩和のほうが緩和しやすい人だっています。
「書くという行為を通して、自分の気持ちを見つめ直していく。」のが張りつめた緊張を緩和していくからこそ、私はブログを更新しないことで居心地が悪くなったのかもしれません。
うん、きっとそうだ。
また1つ私の心の緊張がほぐれました笑
メモ
第2中手骨を使って頸部の痛みを取る。
例えば三角筋にある何本かのゴリゴリとした線維。
|
治療家は僧侶と医者の間にいる その2 心を診るってなんだ
治療家は僧侶と医者の間にいる。
なぜなら、「心と身体両方からアプローチするからだ」と書きました。
じゃあ、心を診るって何なんだろう。
人の話を聞く。
それだけでいいのかもしれないし、それだけじゃ不十分なのかもしれません。
励ます。
励まされたい人もいれば、励まされたくない人もいるかもしれません。
それは音楽に近いものなのかもしれない。
女性の声が聞きたい時もあれば、男性の声が聞きたい時もある。
また、歌声が聞きたい時もあれば、声が邪魔で、楽器からの音だけを聞きたい時もある。
混乱していると、でも、どういう音楽が聞きたいかわからなくなることがありませんか?
i-Tunesを立ち上げて、ランダムに音楽を流して行くと、どうも落ち着かないなと、どんどんスキップしていく。その行為がまた、集中力を削ぐのですが笑、ふとした時に、▶︎▶ボタンを押さずに音楽が流れていることがあります。
そして、私は、こんな音楽が聞きたかったのだと、ざわざわしていた心が落ち着きます。(このブログを書きながら、あれこれ考えていた時に、流れてきて心に落ちた音楽は DucktailsのPorch Projectorでした。)
それは、川から桃が流れてきた桃太郎の一節みたいに、音楽の大河から、自分が何かをつかみ取ったようでした。
これが心を診るということかも。
ふいに思います。
その人が悩んだり、苦しんだりしていると、何がどうだか冷静に自分を客観視できなくなってしまいます。
治療家のもてる財産の1つは、治療を通して得られた多くの患者さんの身体と心の人生を過去・現在・未来でもって知っていることだと思います。
上に書いた音楽の大河から、その時聞きたい音楽がふっと届くように、私の財産が、その時知りたい言葉を贈ることが出来るのかもしれません。
治療院には、身体に表出する症状を改善するために来院されます。
それが心の癖から来ていたら、心を診ないといけません。(その1に書いたように、心身一如ですから。)
その時、知りたい言葉を贈ることが出来れば、心は癖を修正出来るかもしれません。
(それを身体に置き換えると、「身体にその時受けたい刺激を贈ることが出来れば、身体は姿勢を修正出来るかもしれない」と言えるかもしれません。)
でも、身体の姿勢が元に戻るように、心も癖が戻ってしまう。
その時に応じて、患者さんへ言葉を贈ることが出来れば。
そうありたいな。
治療家は僧侶と医者の間にいる その1
私が初めて本格的に東洋医学の勉強をさせてもらったのは、鍼灸の学校に入る前に会社員をやっていた時です。
入学を夏に決め(会社には年末に言った記憶があるので、その頃は会社員を続けていました)、平日は東洋医学の辞書を片手に東洋医学の入門書を読んでいましたが、実践経験を積みたくて、私が鍼でお世話になった先生の師匠に当たる方を紹介していただきました。
考えてみたら、先生はよく自分の師匠を紹介してくれたなとつくづく思います。
時間の都合上、時々しか来れない一患者の私の願いに、応えていただいたことは感謝しかありません。
その師匠との出会いが、私の次の働き口につながっていくことを考えて行くと、今私が、イギリスという地で鍼業をしているのは、そこが全ての始まりでした。
縁というのは不思議なものです。
そのことは、機会があればいつか書くことにして、その師匠には今でも覚えている言葉をいただきましたが、タイトルに書いた「治療家は僧侶と医者の間にいる」はその1つです。
心身一如と言いますが、患者さんという方に対して、その2つに両方アプローチをして診る仕事は治療家以外に、もしかしたらいないのかもしれません。
つまり、僧侶や心理カウンセラー、精神科医はある症状に対して、心の側面からアプローチしますが、医者(ここでは、特に外科)はある症状に対して、身の側面からアプローチします。
ある患者さんがいました。
卵巣囊腫が酷く、何回も施術を受け、またそれにより身体に組織の癒着がひどくある方です。また、30代の方ですが、更年期の症状がかなりきつく、そのためホルモンセラピー(つまり、薬でホルモンを補う)で生理を誘発されておられました。
主訴は座っていられないほどの腰の灼熱感と痛み、及び、足の痛みです。
初めの3回ほど診るも、鍼やマッサージなど身の側面から私なりにアプローチしても全く効果がありませんでした。
あまりにも痛みが酷かったため、心からの救いを求めようと、懇意にしている、占いと言いますが、エネルギー等に敏感な方に電話で相談されたそうです。
そこで相談して、心はすっきりされたそうですが、痛みは改善されなかったそうです。
心でも医者の身でも、徒手という身でも駄目だった。
でも、一縷の望みをかけて、私を頼ってきてくれたいた中で、あの手この手のある一手が功を奏し、痛みが軽減していきました。
ちなみに、それはただただ、身体にある癒着を私の手の感覚でほぐしていくことでした。(鍼でもそこに着目してアプローチしましたが、駄目でした。あと、痛みに敏感すぎて私の鍼では痛みを誘発してしまっていました。)
感覚的に全然よい感触を得ていなかったにも関わらず、効果が出たことはただただ驚きです。
今回は、私の身に対するアプローチで今の所、痛みは改善されました。
患者さんが持つ、症状というのは本当に多岐に渡ります。
僧侶側によく来る症状を持つ患者さんも入れば、医者側によく来くる症状を持つ患者さんもいます。
治療家(徒手療法家のほうが正しいかもしれません)には、身体のコンディションで来られる方が大半かもしれませんが、ある痛みを患っておられる方が、実は心理的トラブルに因るものだったり、心の症状が身に端を発したものだったりもします(例:慢性的な痛みが鬱病を発する)。
一番多岐に渡る患者さんを診る機会に恵まれるのは、私は治療家だと思っています。
と、書いたところで、疑問に思ったことがあります。
「心を治療する」とはどういうことなのでしょうか。
私は心も診ているなんて、いい気になっていましたが、心を診るって何なのでしょうか。
立ち止まって、文が進みません。
続きは次回に。
人に触れること 侵害刺激のない触診5
懇親会も無事に終わり、2日目のセミナーへ。
基本的には1日目と同じ内容のものを1日かけてやりました。
侵害刺激のない触診に始まり、相手から放たれる気を感じ、その凹凸を調整し、そして頭蓋や内臓を調整する。
その長いステップへ向けての訓練です。
この日にとりわけ面白かったことを2つ。
1) 気は具体的なものとして確かに存在する。
あくまでも仮にですが、侵害刺激のない触診のステップを合格した私は、気の凹凸の調整の訓練を3人一組で練習していました。
そこで天の気と地の気を身体に通して患者さんに伝えようとしていましたが、なかなかうまく行きませんでした。
そもそも、どういう状態が気が通っていて、どういう状態が通っていないのかもわからりません。それを感じとれればうまくいくかもしれないと思い、先生に私の肩を触ってもらって、その状態を感じさせてもらいました。(実はハンターハンターという漫画でそれと全く同じシーンがあります。)
先生が私の肩に触れ、合図とともに気を送って下さる。
すると、私の手と患者さんの頭蓋の間には何もないはずなのに、その間に「気」としか呼べない何かの層を感じ取ることが出来るのです。
それは私の手の部分だけでなく、私の体全体がふわっと何かに包まれている感覚でした。
「患者さんに天と地の気を通す」とはこういうことを言うのか。。。
それは「目に見えない何か」ではなく、「見えている人には見えている何か」なのだということがはっきりわかり、精進次第では、それを体得できるのだという実感が湧きました。
それは私にとって大きな学びでした。
2) 呼吸のリズムは変えられる。
カイロプラクティックやオステオパシーの世界では、呼吸には3種類あるとされています。一次呼吸、二次呼吸(ミッド・タイド)そして三次呼吸(ロング・タイド)。
一次呼吸は私たちが肺を動かして行ういわゆる「呼吸」というもので、三次に行くに従い、生命力の根源とされる呼吸に近づくとされます。(信じる信じないは別にして、そういうものが在ります。)
ちなみに私は、二次呼吸までは感じられますが、三次は感じる段階までまだきていません。
頭蓋や内臓はその二次呼吸の呼吸に基づいてリズムを形成しているとされ、施術家の基準となる指標になっています。
ところが、先生は二次呼吸のリズムを変えられると言うのです。
先生は蝶形骨と後頭骨の関節部を完璧に調整することでそのリズムを変えていました。
それは私にとって衝撃と言うか、異次元の世界の体験でした。
未だ私の中で考えはまとまっていませんが、二次呼吸を調整するとはどういうことなのかを考えるいい機会になったと思っています。
治療という尊く深遠な世界の一端を体験するいいセミナーに参加できた(その分自信は打ち砕かれましたが笑)ことに感謝しつつ、気持ち新たにがんばろうと思います。
イギリスのパンケーキデーってご存知ですか?
そきれイギリスのパンケーキデーというのをご存知ですか?
キリスト教にまつわる伝統行事で、主に英語圏で祝われているそう。
この日はキリスト教徒が復活祭前に行う40日の断食期間(日曜除く)を前に、卵や牛乳などを消費するのと同時に、滋養を摂っておくために、パンケーキを作ったのが始まりとされている。(現在は40日も制限する人はもちろん少ない)
パンケーキデーはShrove Tuesdayとされる日に行われ、「イースター・サンデーの47日前」として数えます。
2017年は2月28日の火曜日で、ちょうど私の休みとかぶったため、そのお祭りを見に行ってきました。
イギリス各地でお祭りは行われるそうですが、私は街中で行われた「Parliamentary Pancake Race」に行ってきました。
これは1988年から始まり、国会議事堂の隣で行われ、上院議員・下院議員・報道関係者の3グループに分かれてリレー形式で優勝を競います。スーツの上にエプロンを掛け、シェフのコック帽をかぶりながら、フライパンのパンケーキをひっくり返しつつ走っていきます。
会場はとても綺麗な場所です。
10時スタートということで、自転車を飛ばして向かいましたが、案の定中々始まりません。。。
議員の方々はマスコミ向けのアピールも兼ねて、取材陣からインタビューを受け、絵になるようパンケーキを裏返したり、列になって写真を撮られています。
そして入場。
みんな丁寧に裏返しながら律儀に走るのかなと思ったら、全然そうではありません笑
パンケーキを落として小さなかけらをのせたまま走り続ける人やコック帽をパンケーキの代わりにのせて走るなどみんな想像以上に勝つために必死です汗
けっこう盛り上がっていました。
賭け事が盛んな国ですから、このレースも議員同士で賭けていたのかもしれませんね。
イギリスで初めてこういうイベントに参加したのかもしれません。
せっかくだし、もっと楽しんでいかないと。
イギリスの生活に慣れてきたから物足りなくなる
今週のお題「卒業」
卒業にも色々な卒業がありますが、私は今、日本の生活から卒業しかけているような気がします。
イギリスに来て1ヶ月と少し。
家と職場の行き方にも慣れ、地下鉄で行っていたのをバスに変えて、最近は自転車になりました。
ネットでバスでの行き方を調べて初めてバスで行った時に、本当にバスで職場までたどり着けるのか不安に思ったのを今でも思い出します。(自転車の時はバスに沿って行けばいいだけなので、不安はそんなになかったです。)
家にいるのが苦手な私は、外に出て友人を作れたらいいなと思い始め、ヨガやその他の活動に参加し始めました。
大学時代探検部で、山登りにその後ハマっていったので、イギリスでサークルがないのか検索するも、平日が休みの私にはなかなか敷居が高い…
一人で行くしかないなと今は思っていますが、海外の山と日本の山はどう違うのか(手続きや道しるべのあり方等)まだよく分からないので、ためらっています。
イギリスの生活に慣れてきたからこそ、今、生活に飽き始めているのがよくわかります。
今振り返れば、船の生活を始めたのが2012年の暮れだったのですが、2・3ヶ月後に今と同じような心境になったような記憶があります。
船はまず船という生活環境に慣れるのに本当に時間がかかります。ゲストが移動するエリア以外に船員だけのエリアというのももちろんあり、後者のエリアはサインがあまりなく、よく迷っていました。
しかし、船はスパの仲間というある種の運命共同体や、食事を作らなくてもいいという快適な環境があったので、ホームシックを感じていてもそこまで深くなかったように思います。(自分のしたいことが出来る時間が多かったので、あまり物足りなさを感じない。)
イギリスでの生活は、職場に親しくしてくれる先生がいますが、帰ってくると一人です。
「「ただいま」と言ってくれる人が居ない」というのが寂しいなんてフレーズを聞いたことがありましたが、それはこういう意味なんだなと気付きました。
ラーメンをすする音が響き、暗闇がその音を吸い取っていく。
あぁ、この感じのことか。
こんなことを書き始めたらきりがない。
日本で普通にしてたこと(例えば、会いたい人に会い、観たいものを観る)が出来なくなると、人はそれを懐かしみ、欲するようになる。(この日本での感覚とイギリスの今の感覚の差をホームシックと呼ぶんですね。)
それは、カレーをしばらく食べてなかったら、食べたくなるようなものではないのかなと思いました。
懐かしむということは、以前はネットワークとして頻繁に繋がっていた神経を刺激したくなるということではないでしょうか。
新しい環境の世界に飛び込むということは、新しい神経のネットワークを構築しようとすること。
卒業するということは、今まで使っていた神経のネットワークを使わないようにすること。(もちろん、懐かしくなれば、またネットワークを繋げばいい。)
もっと今の環境を楽しむには、今までのネットワークを懐かしまないほうがいいのかもしれないなと思いました。
日本の日常という感覚から卒業して脱皮して、イギリスの日常が豊かになればいいなぁ。。。