ロンドンの、船上の鍼灸師の日記

2012年から客船で鍼師として働いていましたが、2017年からロンドンで治療家として働いています。治療のこと、クルーズのこと。色々綴っていこうと思います。ウェブサイトはこちら。https://www.junjapaneseacupunctureandshiatsuclinic.com/

治療家は僧侶と医者の間にいる その1

私が初めて本格的に東洋医学の勉強をさせてもらったのは、鍼灸の学校に入る前に会社員をやっていた時です。

入学を夏に決め(会社には年末に言った記憶があるので、その頃は会社員を続けていました)、平日は東洋医学の辞書を片手に東洋医学の入門書を読んでいましたが、実践経験を積みたくて、私が鍼でお世話になった先生の師匠に当たる方を紹介していただきました。

 

考えてみたら、先生はよく自分の師匠を紹介してくれたなとつくづく思います。

時間の都合上、時々しか来れない一患者の私の願いに、応えていただいたことは感謝しかありません。

その師匠との出会いが、私の次の働き口につながっていくことを考えて行くと、今私が、イギリスという地で鍼業をしているのは、そこが全ての始まりでした。

縁というのは不思議なものです。

 

そのことは、機会があればいつか書くことにして、その師匠には今でも覚えている言葉をいただきましたが、タイトルに書いた「治療家は僧侶と医者の間にいる」はその1つです。

 

心身一如と言いますが、患者さんという方に対して、その2つに両方アプローチをして診る仕事は治療家以外に、もしかしたらいないのかもしれません。

つまり、僧侶や心理カウンセラー、精神科医はある症状に対して、心の側面からアプローチしますが、医者(ここでは、特に外科)はある症状に対して、身の側面からアプローチします。

 

ある患者さんがいました。

卵巣囊腫が酷く、何回も施術を受け、またそれにより身体に組織の癒着がひどくある方です。また、30代の方ですが、更年期の症状がかなりきつく、そのためホルモンセラピー(つまり、薬でホルモンを補う)で生理を誘発されておられました。

主訴は座っていられないほどの腰の灼熱感と痛み、及び、足の痛みです。

 

初めの3回ほど診るも、鍼やマッサージなど身の側面から私なりにアプローチしても全く効果がありませんでした。

あまりにも痛みが酷かったため、心からの救いを求めようと、懇意にしている、占いと言いますが、エネルギー等に敏感な方に電話で相談されたそうです。

そこで相談して、心はすっきりされたそうですが、痛みは改善されなかったそうです。

 

心でも医者の身でも、徒手という身でも駄目だった。

でも、一縷の望みをかけて、私を頼ってきてくれたいた中で、あの手この手のある一手が功を奏し、痛みが軽減していきました。

ちなみに、それはただただ、身体にある癒着を私の手の感覚でほぐしていくことでした。(鍼でもそこに着目してアプローチしましたが、駄目でした。あと、痛みに敏感すぎて私の鍼では痛みを誘発してしまっていました。)

感覚的に全然よい感触を得ていなかったにも関わらず、効果が出たことはただただ驚きです。

 

今回は、私の身に対するアプローチで今の所、痛みは改善されました。

患者さんが持つ、症状というのは本当に多岐に渡ります。

僧侶側によく来る症状を持つ患者さんも入れば、医者側によく来くる症状を持つ患者さんもいます。

治療家(徒手療法家のほうが正しいかもしれません)には、身体のコンディションで来られる方が大半かもしれませんが、ある痛みを患っておられる方が、実は心理的トラブルに因るものだったり、心の症状が身に端を発したものだったりもします(例:慢性的な痛みが鬱病を発する)。

 

一番多岐に渡る患者さんを診る機会に恵まれるのは、私は治療家だと思っています。

 

と、書いたところで、疑問に思ったことがあります。

「心を治療する」とはどういうことなのでしょうか。

私は心も診ているなんて、いい気になっていましたが、心を診るって何なのでしょうか。

 

立ち止まって、文が進みません。

続きは次回に。

 

 

 

 

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人に触れること 侵害刺激のない触診5

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懇親会も無事に終わり、2日目のセミナーへ。

基本的には1日目と同じ内容のものを1日かけてやりました。

侵害刺激のない触診に始まり、相手から放たれる気を感じ、その凹凸を調整し、そして頭蓋や内臓を調整する。

その長いステップへ向けての訓練です。

この日にとりわけ面白かったことを2つ。

1) 気は具体的なものとして確かに存在する。

あくまでも仮にですが、侵害刺激のない触診のステップを合格した私は、気の凹凸の調整の訓練を3人一組で練習していました。

そこで天の気と地の気を身体に通して患者さんに伝えようとしていましたが、なかなかうまく行きませんでした。

そもそも、どういう状態が気が通っていて、どういう状態が通っていないのかもわからりません。それを感じとれればうまくいくかもしれないと思い、先生に私の肩を触ってもらって、その状態を感じさせてもらいました。(実はハンターハンターという漫画でそれと全く同じシーンがあります。)

先生が私の肩に触れ、合図とともに気を送って下さる。

すると、私の手と患者さんの頭蓋の間には何もないはずなのに、その間に「気」としか呼べない何かの層を感じ取ることが出来るのです。

それは私の手の部分だけでなく、私の体全体がふわっと何かに包まれている感覚でした。

「患者さんに天と地の気を通す」とはこういうことを言うのか。。。

それは「目に見えない何か」ではなく、「見えている人には見えている何か」なのだということがはっきりわかり、精進次第では、それを体得できるのだという実感が湧きました。

それは私にとって大きな学びでした。

2) 呼吸のリズムは変えられる。

カイロプラクティックオステオパシーの世界では、呼吸には3種類あるとされています。一次呼吸、二次呼吸(ミッド・タイド)そして三次呼吸(ロング・タイド)。

一次呼吸は私たちが肺を動かして行ういわゆる「呼吸」というもので、三次に行くに従い、生命力の根源とされる呼吸に近づくとされます。(信じる信じないは別にして、そういうものが在ります。)

ちなみに私は、二次呼吸までは感じられますが、三次は感じる段階までまだきていません。

頭蓋や内臓はその二次呼吸の呼吸に基づいてリズムを形成しているとされ、施術家の基準となる指標になっています。

ところが、先生は二次呼吸のリズムを変えられると言うのです。

先生は蝶形骨と後頭骨の関節部を完璧に調整することでそのリズムを変えていました。

それは私にとって衝撃と言うか、異次元の世界の体験でした。

未だ私の中で考えはまとまっていませんが、二次呼吸を調整するとはどういうことなのかを考えるいい機会になったと思っています。

治療という尊く深遠な世界の一端を体験するいいセミナーに参加できた(その分自信は打ち砕かれましたが笑)ことに感謝しつつ、気持ち新たにがんばろうと思います。

イギリスのパンケーキデーってご存知ですか?

そきれイギリスのパンケーキデーというのをご存知ですか?

キリスト教にまつわる伝統行事で、主に英語圏で祝われているそう。

 

この日はキリスト教徒が復活祭前に行う40日の断食期間(日曜除く)を前に、卵や牛乳などを消費するのと同時に、滋養を摂っておくために、パンケーキを作ったのが始まりとされている。(現在は40日も制限する人はもちろん少ない)

パンケーキデーはShrove Tuesdayとされる日に行われ、「イースター・サンデーの47日前」として数えます。

2017年は2月28日の火曜日で、ちょうど私の休みとかぶったため、そのお祭りを見に行ってきました。

 

イギリス各地でお祭りは行われるそうですが、私は街中で行われた「Parliamentary Pancake Race」に行ってきました。

これは1988年から始まり、国会議事堂の隣で行われ、上院議員・下院議員・報道関係者の3グループに分かれてリレー形式で優勝を競います。スーツの上にエプロンを掛け、シェフのコック帽をかぶりながら、フライパンのパンケーキをひっくり返しつつ走っていきます。

 

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会場はとても綺麗な場所です。

 

 

10時スタートということで、自転車を飛ばして向かいましたが、案の定中々始まりません。。。

議員の方々はマスコミ向けのアピールも兼ねて、取材陣からインタビューを受け、絵になるようパンケーキを裏返したり、列になって写真を撮られています。

  

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そして入場。

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みんな丁寧に裏返しながら律儀に走るのかなと思ったら、全然そうではありません笑

パンケーキを落として小さなかけらをのせたまま走り続ける人やコック帽をパンケーキの代わりにのせて走るなどみんな想像以上に勝つために必死です汗

けっこう盛り上がっていました。

賭け事が盛んな国ですから、このレースも議員同士で賭けていたのかもしれませんね。

 

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イギリスで初めてこういうイベントに参加したのかもしれません。

せっかくだし、もっと楽しんでいかないと。

 

イギリスの生活に慣れてきたから物足りなくなる

今週のお題「卒業」

 

卒業にも色々な卒業がありますが、私は今、日本の生活から卒業しかけているような気がします。

イギリスに来て1ヶ月と少し。

家と職場の行き方にも慣れ、地下鉄で行っていたのをバスに変えて、最近は自転車になりました。

ネットでバスでの行き方を調べて初めてバスで行った時に、本当にバスで職場までたどり着けるのか不安に思ったのを今でも思い出します。(自転車の時はバスに沿って行けばいいだけなので、不安はそんなになかったです。)

 

家にいるのが苦手な私は、外に出て友人を作れたらいいなと思い始め、ヨガやその他の活動に参加し始めました。

大学時代探検部で、山登りにその後ハマっていったので、イギリスでサークルがないのか検索するも、平日が休みの私にはなかなか敷居が高い…

一人で行くしかないなと今は思っていますが、海外の山と日本の山はどう違うのか(手続きや道しるべのあり方等)まだよく分からないので、ためらっています。

 

イギリスの生活に慣れてきたからこそ、今、生活に飽き始めているのがよくわかります。

今振り返れば、船の生活を始めたのが2012年の暮れだったのですが、2・3ヶ月後に今と同じような心境になったような記憶があります。

船はまず船という生活環境に慣れるのに本当に時間がかかります。ゲストが移動するエリア以外に船員だけのエリアというのももちろんあり、後者のエリアはサインがあまりなく、よく迷っていました。

しかし、船はスパの仲間というある種の運命共同体や、食事を作らなくてもいいという快適な環境があったので、ホームシックを感じていてもそこまで深くなかったように思います。(自分のしたいことが出来る時間が多かったので、あまり物足りなさを感じない。)

イギリスでの生活は、職場に親しくしてくれる先生がいますが、帰ってくると一人です。

「「ただいま」と言ってくれる人が居ない」というのが寂しいなんてフレーズを聞いたことがありましたが、それはこういう意味なんだなと気付きました。

ラーメンをすする音が響き、暗闇がその音を吸い取っていく。

あぁ、この感じのことか。

 

こんなことを書き始めたらきりがない。

日本で普通にしてたこと(例えば、会いたい人に会い、観たいものを観る)が出来なくなると、人はそれを懐かしみ、欲するようになる。(この日本での感覚とイギリスの今の感覚の差をホームシックと呼ぶんですね。)

それは、カレーをしばらく食べてなかったら、食べたくなるようなものではないのかなと思いました。

懐かしむということは、以前はネットワークとして頻繁に繋がっていた神経を刺激したくなるということではないでしょうか。

 

新しい環境の世界に飛び込むということは、新しい神経のネットワークを構築しようとすること。

卒業するということは、今まで使っていた神経のネットワークを使わないようにすること。(もちろん、懐かしくなれば、またネットワークを繋げばいい。)

 

もっと今の環境を楽しむには、今までのネットワークを懐かしまないほうがいいのかもしれないなと思いました。

 

 日本の日常という感覚から卒業して脱皮して、イギリスの日常が豊かになればいいなぁ。。。

 

 

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人に触れること 侵害刺激のない触診4

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1日目のセミナーは、筋力テストによる侵害刺激のない触診が出来るかどうかを終始練習して終わりました。

その晩の懇親会での出来事。

「私は今日セミナーに来ておられる方ほど勉強はしていない。でも、運を掴んだんだ。」

と、飲み会の場で先生が言っておられました。

「大金持ちにはなれなかったが、家族を

食うには困らせなかった。」と、続けます。」

運をつかむにはどうしたらいいのですか?

当然、そんな質問がセミナーの参加者から問われます。

その例として、先生は便所掃除をあげておられました。

先生は自分の家の便所だけでなく、レストランやホテルへ行って使用した時には、使った勉強を掃除するそうです。

便所に備え付けられている道具ではなく、自分の手で。

それが一番汚れが取れるんだと言っていました。

それはどういう意味なんだろう。

物は試しということで、時間がある時に私も便所掃除をするようになりました。

まだ回数はこなせていませんが、気づくことはありました。

先生は便がこびりついているものほど燃えるとのことでしたが笑、それはこびりついているものほど、人が隠している部分でったり、なおざりにしているものの気に触れられるということなのかもしれません。

汚いトイレだった場合、まずそこに入りたくないことってよくあります。

公園にあるトイレなどがいい例で、便が便器についてそのままだったりすることがあります。

私もそういったトイレで小なら足せますが、大はなかなか難しいことが正直あります。

そこには「公園の便所」が受け止めている人のエネルギーがあるのかもしれません。

そして、そこを綺麗にすることは、そのエネルギーを知り、綺麗にする。つまり、そういうエネルギーを持つ人を治療することへ繋がるのかもしれません。

「私はそんな部分を持ってない。」と思われる方もいるでしょう。

ですが、「汚い」ともし感じたら、その時点で大なり小なりあなたも少しはそこに渦巻く気を持っています。

なぜなら、何かを感じる=その感じた要素(人やものなどすべての存在)を感じた人は持っているからです。

要素を自分の中に持っていない=その要素に関係する出来事が起きても何も感じない、と私は考えています。(残忍な殺害事件に悲しさを感じてしまうのと同じように。)

三木成夫先生という解剖学者が著書の中で面白いことを言っていました。

「動物は初めてものを貯めることができない中から生まれた。例えば、くらげは海水が身体を通る中で栄養を吸収する。次の進化として肝臓が発達し、そこで貯蔵していた。その次は腸。そして、口。(例えばリス)最後に人類は倉庫を作り出して食べ物を保存することに始まり、お金で持って貯めることを考え出した。」

排泄物は摂取したものが分解されたものであるなら、くらげのような昔に生まれた生物に比べて、私たちはとても複雑な仕組みでものを貯蔵し、また、排泄していることがわかります。

そしてまた、その複雑なプロセスの果てだからこそ、トイレという場所には様々な気が吐き出される場所なのかもしれません。

セミナーの先生の話と三木先生の話がリンクし、このようなことを考えました。

続きは次回に。

人に触れること 侵害刺激のない触診3

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先生が仰られるには、侵害刺激のない触診をすることが施術の初めの一歩で、そこからまだまだステップがあるとのこと。

次に患者さんのエネルギーを感じ取る訓練をし、患者さんに流れている凹凸で不均一なエネルギーを均一にする。

そうして初めて、内臓や頭蓋に触れてから治療をすることが出来る。

とのこと。

私は何の気なしに船や陸地で患者さんの身体や頭蓋に触れてきました。

しかし、先生にとっては、触れる・治療をするという行為がいかに繊細で脆く、それは同時に影響を及ぼすものであるものなのだろうと思いました。

患者さんが発するシグナルに、耳を・手を・意識を研ぎ澄まし感じることが出来るなら、人を診ることはもしかしたらそんなに難しくないのかもしれません。(現にその先生は短いと8分程度、患者さんの感情が問題となっている場合は2-30分程度で施術を終わられるそうです。)

先生はこうも続けていました。

「私の領域へ来れるかどうかはあなた次第。近づけるものと信じて努力し続けるか諦めるか。」

我々治療家の仕事が1つの芸であることを痛感する言葉です。

話を戻します。

「侵害刺激と認識されない触診が出来たと仮定して」と前奥きした後で、エネルギーを患者さんに送る方法も説明してくれました。

「自分の頭から天の気が通り、足から地の気が通る。その気を下腹部から太い管を通すイメージで患者さんに流す。」

絵を描いて説明してくれました。

イメージは出来るのですが、実際にエネルギーを通せるかと言えばそれはまた別で、「エネルギーを通そう」という意識自体がすでに邪念だったりします。

禅問答だったりしますが笑、私が「自分で侵害刺激のない触診を訓練するにはどうしたらいいですか?」と質問したところ、「瞑想だろうね。」と仰られていました。

今回のセミナーを知る機会になった先生のブログでも、「自分がどういう心持ちや意識でいるかが一番大切です。」というようなことを書かれていました。

この2人の先生の人柄や発せられる気は全然違いますが、その態度や意識の根っこには共通している部分があるのだと思いました。

それに関連してですが、先日運転している時にハンドルを持つ両手にとても力が入っていることに気づきました。

そこで「できるだけ力を入れずにハンドルを握って運転してみよう。」と思って試したところ、普段よりも車内で流しているポッドキャストをより集中して聞くことができました。

この感覚はなぜ起きたのか。

車を運転している場合、信号や人に気をやるなど事故に遭わないために常に自分の意識を外にやります。

それは受動的意識ではなく、能動的、つまりこちらから情報を掴みにいく意識の状態です。

その一方で、聴くという行為は多分に受動的だなと思うことがあります。

まず、耳という構造自体が受動的な構造ではないでしょうか。音を拾うためにほら貝のようになっている。

構造という観点で言えば、味覚も受動的、触覚と視覚と嗅覚は能動的ではないかと、これは完全に主観ですが思っています。

話が逸れましたが、能動的な感覚を下げることで受動的感覚が高まり、より集中して音が聴けたのかなと解釈しています。

そして、この受動的感覚の感度をもっと上げることができれば侵害刺激と認識されない触診ができるように思いました。

人に触れること 侵害刺激のない触診2

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「脳から身体、内臓まで通じる侵害刺激のない触診の真髄」

セミナーが始まり、まず先生がデモンストレーションされたのが、デモの患者が寝ていて、術者が3mほど離れたところから立ちます。

それで、検者が足を持ち力をいれて挙げられるかというテスト(=筋力テスト)を行うというもの。

術者が離れていれば患者は力を入れられるのに、ある距離以内に立つだけで力を入れられなくなるのです。

嘘だろうと思うと思います。私だってそう思います。

でも、患者としてこの二日間何度も足を挙げましたが、本当に力が入りません。

人は意識する・しないに関わらず、自分が快適さを感じられる空間には範囲があります。「その範囲において、相手にストレスを感じさせず近づいていく訓練」が今回のセミナーの主旨なのかもしれません。

侵害刺激と聞けば、普通、刺されるとか強く押されるとかを思いますが、そんな激しいものでなくても、人は人を侵害し刺激しています。

例えば私が電車に乗っていたとして、不潔そうな格好をしている人に近づきたいだなんて思いません。

「不快」という侵害刺激が、その人から私に届いているからこそ、近づきたくない。それはその方がたとえ意識していないとしても、受け手である私の意識には届いて刺激となっているわけです。

その「無意識の行為、放つ雰囲気→受け手には意識され、刺激を与えている」という図式はどこにでも当てはまり、「施術する術者と患者」との関係にも当てはまります。

治療という場合、先生と患者という立場、また、私の場合実費をいただいているので、相手が私を選んでくれているという状況だからこそ、術者側としては相手は受け入れてくれているはずだと思い込みがちです。

先生のデモンストレーションが示してくれたのは、その思い込みが正しいとは言えないということなのでしょう。

先生はこう言っておられました。

「何も考えず、人畜無害の気持ちでやれば、侵害刺激と認識されない刺激ができる。」

あえて例えるなら、

水平線が広がっているイメージ」

「初めて自分の赤ちゃんを抱っこした時のイメージ」

「術者はうっすら笑っていること」

などをアドバイスとして言っておられました。

続きは次回に。