英国の、船上の鍼灸師の日記 the diary of acupuncturist on Great Britain, cruise ship

2012年から客船で鍼師として働いていましたが、2015年はイギリスで働くために有機食品の会社で働き、2017年からロンドンで再び治療家として働いています。治療のこと、クルーズのこと、食べ物のこと。色々綴っていこうと思います。

イギリスの生活に慣れてきたから物足りなくなる

今週のお題「卒業」

 

卒業にも色々な卒業がありますが、私は今、日本の生活から卒業しかけているような気がします。

イギリスに来て1ヶ月と少し。

家と職場の行き方にも慣れ、地下鉄で行っていたのをバスに変えて、最近は自転車になりました。

ネットでバスでの行き方を調べて初めてバスで行った時に、本当にバスで職場までたどり着けるのか不安に思ったのを今でも思い出します。(自転車の時はバスに沿って行けばいいだけなので、不安はそんなになかったです。)

 

家にいるのが苦手な私は、外に出て友人を作れたらいいなと思い始め、ヨガやその他の活動に参加し始めました。

大学時代探検部で、山登りにその後ハマっていったので、イギリスでサークルがないのか検索するも、平日が休みの私にはなかなか敷居が高い…

一人で行くしかないなと今は思っていますが、海外の山と日本の山はどう違うのか(手続きや道しるべのあり方等)まだよく分からないので、ためらっています。

 

イギリスの生活に慣れてきたからこそ、今、生活に飽き始めているのがよくわかります。

今振り返れば、船の生活を始めたのが2012年の暮れだったのですが、2・3ヶ月後に今と同じような心境になったような記憶があります。

船はまず船という生活環境に慣れるのに本当に時間がかかります。ゲストが移動するエリア以外に船員だけのエリアというのももちろんあり、後者のエリアはサインがあまりなく、よく迷っていました。

しかし、船はスパの仲間というある種の運命共同体や、食事を作らなくてもいいという快適な環境があったので、ホームシックを感じていてもそこまで深くなかったように思います。(自分のしたいことが出来る時間が多かったので、あまり物足りなさを感じない。)

イギリスでの生活は、職場に親しくしてくれる先生がいますが、帰ってくると一人です。

「「ただいま」と言ってくれる人が居ない」というのが寂しいなんてフレーズを聞いたことがありましたが、それはこういう意味なんだなと気付きました。

ラーメンをすする音が響き、暗闇がその音を吸い取っていく。

あぁ、この感じのことか。

 

こんなことを書き始めたらきりがない。

日本で普通にしてたこと(例えば、会いたい人に会い、観たいものを観る)が出来なくなると、人はそれを懐かしみ、欲するようになる。(この日本での感覚とイギリスの今の感覚の差をホームシックと呼ぶんですね。)

それは、カレーをしばらく食べてなかったら、食べたくなるようなものではないのかなと思いました。

懐かしむということは、以前はネットワークとして頻繁に繋がっていた神経を刺激したくなるということではないでしょうか。

 

新しい環境の世界に飛び込むということは、新しい神経のネットワークを構築しようとすること。

卒業するということは、今まで使っていた神経のネットワークを使わないようにすること。(もちろん、懐かしくなれば、またネットワークを繋げばいい。)

 

もっと今の環境を楽しむには、今までのネットワークを懐かしまないほうがいいのかもしれないなと思いました。

 

 日本の日常という感覚から卒業して脱皮して、イギリスの日常が豊かになればいいなぁ。。。

 

 

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人に触れること 侵害刺激のない触診4

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1日目のセミナーは、筋力テストによる侵害刺激のない触診が出来るかどうかを終始練習して終わりました。

その晩の懇親会での出来事。

「私は今日セミナーに来ておられる方ほど勉強はしていない。でも、運を掴んだんだ。」

と、飲み会の場で先生が言っておられました。

「大金持ちにはなれなかったが、家族を

食うには困らせなかった。」と、続けます。」

運をつかむにはどうしたらいいのですか?

当然、そんな質問がセミナーの参加者から問われます。

その例として、先生は便所掃除をあげておられました。

先生は自分の家の便所だけでなく、レストランやホテルへ行って使用した時には、使った勉強を掃除するそうです。

便所に備え付けられている道具ではなく、自分の手で。

それが一番汚れが取れるんだと言っていました。

それはどういう意味なんだろう。

物は試しということで、時間がある時に私も便所掃除をするようになりました。

まだ回数はこなせていませんが、気づくことはありました。

先生は便がこびりついているものほど燃えるとのことでしたが笑、それはこびりついているものほど、人が隠している部分でったり、なおざりにしているものの気に触れられるということなのかもしれません。

汚いトイレだった場合、まずそこに入りたくないことってよくあります。

公園にあるトイレなどがいい例で、便が便器についてそのままだったりすることがあります。

私もそういったトイレで小なら足せますが、大はなかなか難しいことが正直あります。

そこには「公園の便所」が受け止めている人のエネルギーがあるのかもしれません。

そして、そこを綺麗にすることは、そのエネルギーを知り、綺麗にする。つまり、そういうエネルギーを持つ人を治療することへ繋がるのかもしれません。

「私はそんな部分を持ってない。」と思われる方もいるでしょう。

ですが、「汚い」ともし感じたら、その時点で大なり小なりあなたも少しはそこに渦巻く気を持っています。

なぜなら、何かを感じる=その感じた要素(人やものなどすべての存在)を感じた人は持っているからです。

要素を自分の中に持っていない=その要素に関係する出来事が起きても何も感じない、と私は考えています。(残忍な殺害事件に悲しさを感じてしまうのと同じように。)

三木成夫先生という解剖学者が著書の中で面白いことを言っていました。

「動物は初めてものを貯めることができない中から生まれた。例えば、くらげは海水が身体を通る中で栄養を吸収する。次の進化として肝臓が発達し、そこで貯蔵していた。その次は腸。そして、口。(例えばリス)最後に人類は倉庫を作り出して食べ物を保存することに始まり、お金で持って貯めることを考え出した。」

排泄物は摂取したものが分解されたものであるなら、くらげのような昔に生まれた生物に比べて、私たちはとても複雑な仕組みでものを貯蔵し、また、排泄していることがわかります。

そしてまた、その複雑なプロセスの果てだからこそ、トイレという場所には様々な気が吐き出される場所なのかもしれません。

セミナーの先生の話と三木先生の話がリンクし、このようなことを考えました。

続きは次回に。

人に触れること 侵害刺激のない触診3

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先生が仰られるには、侵害刺激のない触診をすることが施術の初めの一歩で、そこからまだまだステップがあるとのこと。

次に患者さんのエネルギーを感じ取る訓練をし、患者さんに流れている凹凸で不均一なエネルギーを均一にする。

そうして初めて、内臓や頭蓋に触れてから治療をすることが出来る。

とのこと。

私は何の気なしに船や陸地で患者さんの身体や頭蓋に触れてきました。

しかし、先生にとっては、触れる・治療をするという行為がいかに繊細で脆く、それは同時に影響を及ぼすものであるものなのだろうと思いました。

患者さんが発するシグナルに、耳を・手を・意識を研ぎ澄まし感じることが出来るなら、人を診ることはもしかしたらそんなに難しくないのかもしれません。(現にその先生は短いと8分程度、患者さんの感情が問題となっている場合は2-30分程度で施術を終わられるそうです。)

先生はこうも続けていました。

「私の領域へ来れるかどうかはあなた次第。近づけるものと信じて努力し続けるか諦めるか。」

我々治療家の仕事が1つの芸であることを痛感する言葉です。

話を戻します。

「侵害刺激と認識されない触診が出来たと仮定して」と前奥きした後で、エネルギーを患者さんに送る方法も説明してくれました。

「自分の頭から天の気が通り、足から地の気が通る。その気を下腹部から太い管を通すイメージで患者さんに流す。」

絵を描いて説明してくれました。

イメージは出来るのですが、実際にエネルギーを通せるかと言えばそれはまた別で、「エネルギーを通そう」という意識自体がすでに邪念だったりします。

禅問答だったりしますが笑、私が「自分で侵害刺激のない触診を訓練するにはどうしたらいいですか?」と質問したところ、「瞑想だろうね。」と仰られていました。

今回のセミナーを知る機会になった先生のブログでも、「自分がどういう心持ちや意識でいるかが一番大切です。」というようなことを書かれていました。

この2人の先生の人柄や発せられる気は全然違いますが、その態度や意識の根っこには共通している部分があるのだと思いました。

それに関連してですが、先日運転している時にハンドルを持つ両手にとても力が入っていることに気づきました。

そこで「できるだけ力を入れずにハンドルを握って運転してみよう。」と思って試したところ、普段よりも車内で流しているポッドキャストをより集中して聞くことができました。

この感覚はなぜ起きたのか。

車を運転している場合、信号や人に気をやるなど事故に遭わないために常に自分の意識を外にやります。

それは受動的意識ではなく、能動的、つまりこちらから情報を掴みにいく意識の状態です。

その一方で、聴くという行為は多分に受動的だなと思うことがあります。

まず、耳という構造自体が受動的な構造ではないでしょうか。音を拾うためにほら貝のようになっている。

構造という観点で言えば、味覚も受動的、触覚と視覚と嗅覚は能動的ではないかと、これは完全に主観ですが思っています。

話が逸れましたが、能動的な感覚を下げることで受動的感覚が高まり、より集中して音が聴けたのかなと解釈しています。

そして、この受動的感覚の感度をもっと上げることができれば侵害刺激と認識されない触診ができるように思いました。

人に触れること 侵害刺激のない触診2

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「脳から身体、内臓まで通じる侵害刺激のない触診の真髄」

セミナーが始まり、まず先生がデモンストレーションされたのが、デモの患者が寝ていて、術者が3mほど離れたところから立ちます。

それで、検者が足を持ち力をいれて挙げられるかというテスト(=筋力テスト)を行うというもの。

術者が離れていれば患者は力を入れられるのに、ある距離以内に立つだけで力を入れられなくなるのです。

嘘だろうと思うと思います。私だってそう思います。

でも、患者としてこの二日間何度も足を挙げましたが、本当に力が入りません。

人は意識する・しないに関わらず、自分が快適さを感じられる空間には範囲があります。「その範囲において、相手にストレスを感じさせず近づいていく訓練」が今回のセミナーの主旨なのかもしれません。

侵害刺激と聞けば、普通、刺されるとか強く押されるとかを思いますが、そんな激しいものでなくても、人は人を侵害し刺激しています。

例えば私が電車に乗っていたとして、不潔そうな格好をしている人に近づきたいだなんて思いません。

「不快」という侵害刺激が、その人から私に届いているからこそ、近づきたくない。それはその方がたとえ意識していないとしても、受け手である私の意識には届いて刺激となっているわけです。

その「無意識の行為、放つ雰囲気→受け手には意識され、刺激を与えている」という図式はどこにでも当てはまり、「施術する術者と患者」との関係にも当てはまります。

治療という場合、先生と患者という立場、また、私の場合実費をいただいているので、相手が私を選んでくれているという状況だからこそ、術者側としては相手は受け入れてくれているはずだと思い込みがちです。

先生のデモンストレーションが示してくれたのは、その思い込みが正しいとは言えないということなのでしょう。

先生はこう言っておられました。

「何も考えず、人畜無害の気持ちでやれば、侵害刺激と認識されない刺激ができる。」

あえて例えるなら、

水平線が広がっているイメージ」

「初めて自分の赤ちゃんを抱っこした時のイメージ」

「術者はうっすら笑っていること」

などをアドバイスとして言っておられました。

続きは次回に。

人に触れること 侵害刺激のない触診1

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日本に居た時に書き留めていた内容をアップしておこうと思います。

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久しぶりに遠方までセミナーに参加してきました。

タイトルは「脳から身体、内臓まで通じる侵害刺激のない触診の真髄」です。

初めは予定の都合で行けなかったのですが、スケジュールが空くことになり、セミナーへ行くための道が出来ました。

これは行けと言われているなと直感で思い、行くことにしました。

大阪の一泊二日のセミナーが6月にあった時も同じことが起き、そのセミナーの参加が今回のセミナーの参加に繋がっていることを考えると、人生で「流れ」を掴む時はあり、そこに乗れるか乗れないかが大切なんじゃないかといつも思っています。

大阪のセミナーでは、懇親会が終わってから講師の先生の部屋に行って、自由に質問ができる時間が設けられています。

その一室で、見た目には変な練習がおこなわれていました。

術者が患者(役の先生)の頭に触れて、講師の先生が患者の足を持ち、挙げたまま力を入れられるかというもの。

「人は人に簡単に触れることが出来るというがそれは大きな間違い。」というのがある先生の考えで、実際、術者が頭に触れるまでは患者さんは容易に足を挙げられるのに、触れてから再度やってみると足が挙がらないのです。

「術者が頭に触れる」と言うのは、患者にとって侵害刺激であり、脳にとって邪魔な刺激なので、足を挙げようと思っても挙がりません。

私が初めてそれに挑戦した時も全然だめでした。

そして、その「ある先生」がセミナーをされるというので参加してたのです。

「侵害刺激のない触診」を研鑽しに行ってきました。

土曜日の半日と日曜日の一日、ある意味自分を否定されてきたような一泊二日でした笑

続きは次回に。

イギリスと船上の患者さんの違い その2

久しぶりに治療という場に復帰して思うことの続きです。

私は三菱重工に居た時に精神をストレスから病んでしまっている時に、鍼灸に助けてもらったという思いが強くあります。
そのため、ストレスで気がめいっていたり、その手前の人の気持ちが人よりはわかると思っていまして、それはひいては、他の施術者よりも相手の心の状態に敏感かなと考えています。
私の診方を先輩の方にした時に、びっくりされることがあるので、まあ何と言うか、間違ってはいないのかもと思っています。

話を戻すと、ストレスがある一定以上溜まってしまうと、ストレスを吐き出したいのに吐き出せなかったり、そっとしておいて欲しいけどそっとして欲しくなかったりします。
客船で働いている時は、相手はバカンスで来ているため、心がリラックスしているため私の感じることを素直に聞けたり、どうせもう会うことはないという思いから、将来に思い出してくれたらいいなという思いで私は敢えて感じたことを伝えます。
しかし陸地の場合、それはただ言えばいいというものではないというのに気付きました。私のクリニックにその方は前から来ていて、私はただの1新人スタッフです。
そんな若輩者が、いきなり相手の心のバリアを突き破って隠すことで保っているバランスを崩そうとする。
患者さんがそこは触れてくれるなと言葉ではない雰囲気で語ってくるような気がしてならないのです。
それはもしかしたら、イギリス人とアメリカ人(船にはアメリカ人以外も多数いましたが、大半はアメリカ人でした)との違いかもしれません。こちらに住んでいる日本人の方もイギリス人とそんなに変わらず、心のガードが硬い人が多いです。(という意味では、島国であるイギリス人と日本人の特性なのかもしれません)

どうやって信頼関係を築き、相手に心を開いてもらうか。あまり、先輩スタッフはそういうアプローチをしてる方がいなさそうなので、私なりに工夫しながら、楽しんでいきたいと思います。

 

 

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エロスの像。有名だそうです。

イギリスと船上の患者さんの違い その1

イギリスに来てから10日間ほど経ちますが、色々な手続きをしたりとばたばたしています。
私が働いているクリニック(イギリスでそう呼んでいいのかわかりませんが)は日本人が多く、日本人しか診ない日もあり、また、スタッフも日本人のかたばかり(一人こちらで生まれたので、日本語を少ししか話せない人もいますが)なので、本当に日本にいるみたいです。
船で働いている時は、3千人や千人いる船の中で、日本人は私一人のことが大半だったので英語しか使えなかったのとは大違いです。
そういう意味では、イギリスでまず働いて船、ではなく、船で働いてイギリスというのは今になって思えばよかったかなと思います。
なぜなら、船のお蔭である程度英語を理解する耳が出来ているため、イギリスでも苦労しないからです。
逆にワーホリなんかでイギリスで働いて英語が出来ると思い込んで船に乗り込んだら全然出来ひんやん!と余計ショックが大きいような気がします。

こちらに来てまだ2週間も経っていませんが、その間に感じるというか、久しぶりに臨床の場を主戦場とすることになって、考えることがあります。
それは、「どのようにして患者さんと心の距離を縮めるか」ということです。

続きは次回に。

 

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