英国の、船上の鍼灸師の日記 the diary of acupuncturist on Great Britain, cruise ship

2012年から客船で鍼師として働いていましたが、2015年はイギリスで働くために有機食品の会社で働き、2017年からロンドンで再び治療家として働いています。治療のこと、クルーズのこと、食べ物のこと。色々綴っていこうと思います。

いつどこで生まれるか

ロッコへ旅をして来ました。10日間。

砂漠へ行きたかったものの、引っ越しで色んな経費がかさんだり、1人だと思ったより高かったりで断念したため、モロッコの街を巡ってきました。

 

日本を離れて10ヶ月、久しぶりに発展途上国と呼ばれる国を旅してきました。

そこで改めて思ったのは、「いつどこで生まれるか」について。

1980年代に私は日本で生まれたわけですが、高度成長期時代を経て、ここ日本で生まれたことは、とても幸運だったと思います。しかも、私が就職活動をしていた時はリーマンショック直前で売り手市場。GW前に決まっていた友人はいっぱいました。

しかし、70年代終わりに生まれて、就職氷河期だった時はどこにも就職口がなかったわけです。

それをもう少し長い尺度で考えれば、戦後すぐに生まれたなら、私が生まれ育った時ほど物などに溢れた生活ではなかったのだと思います。

一方、その尺度を生まれた年度ではなく場所で考えれば、例え今2017年に生まれたとしても、日本で生まれるかモロッコで生まれるかで人の生涯で得られる年収や、すごい嫌な言い方をすれば人の価値だって違うかもしれない。

 

そんな「いつどこで生まれるか」なんて考えても仕方ないし、絶対に自分よりも境遇が良い人も悪い人もいるわけです。

患者さんにモロッコ地球の歩き方を借りて持って行っていたのですが、その中に「モロッコに旅をしに来れるだけでも恵まれている。」というような旨の言葉が書かれてあり、改めてそうだよなぁと感慨深くなりました。

 

船で働いていた時も、私より年を重ねている方が、ハウスクリーニングだったり、皿洗いをされてる方がいて、祖国より給料がいいからここで働いているんだといっていました。

世界中を旅してみたいからという理由も立派に成り立ちますが、劣悪な環境でも給料という現実的な問題から船での生活を選ぶ人だっています。

 

個人的な理由なんて、自分以外どうだっていいのかもしれませんが、今ここにこうして生まれてきたことを噛み締めて、感謝して行きたいなと思う、モロッコ旅でした。

 

 

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クルーズの経験を振り返って思う、どこが何が一番綺麗だったんだろうということ。

今週のお題「芸術の秋」

 

私がクルーズで働いていたと患者さんに伝えた時に、「一番よかった国や街はどこですか?」と聞かれることがあります。

卑怯だろうと思われるかもしれませんが、それはずばり「南極」です。

 

 

 

クルーズ船での鍼灸師として働いていた時に、幸運なことに私は南米を2度周遊する機会に恵まれ、そのうち2度目はフォークランド諸島と南極の南米側の端を遊覧するという機会に恵まれました。

フォークランド諸島は夏でもとても風がきつい地域らしく、1度目の南米周遊でも立ち寄ろうとした時に風が強くて断念したという苦い経験があります。

ちなみに、その時に横にいたクルーは、「僕はフォークランド諸島には5度目だが、未だに立ち寄れないんだ」と言ってたので、2度目で立ち寄れたのは運がいい方なのかもしれません。

 

フォークランド諸島でも南極でも、びっくるするのはペンギンが普通にいることです。

世界の南端に行ったことがない人にとって、ペンギンは水族館にいるものであり、陸地にいるものではありません。

私にとってもそうでした。

ところが、当たり前の話ですが、ペンギンはそもそも野生の動物であり、水族館に生息している動物ではありません。

 

そのペンギンが、何の隔たりもなく目の前に在る。

くじらが船の横で優雅に潮を吹く。

アザラシが氷の大地の上でふてぶてしく座っている。などなど

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それは彼らにとって当たり前でも、私たちにとって当たり前じゃない。むしろ当たり前じゃないのに、水族館という場所で当たり前にみれることが、昔じゃ考えられない、当たり前じゃないことです。(水族館のすごさに今回改めて気付きました)

 

患者さんを治療していて、不意に気付かされるのは、その人が命を持って存在していることの存在感であり、すごさです。

それは美術品としてどんな綺麗な絵画や彫刻などを目の前にして感動したとしても、やはりそれは生きておらず、その存在感には敵いません。(気を宿していることはあっても)

オノ・ヨーコさんが発表した、「暮れていく太陽を、窓ガラスか何かに映した」作品(タイトルを検索してみたものの見つからず…)のように、生きているモノが宿す、自然に生きている中で醸し出される存在感に勝るものはありません。

 

うつ伏せになっている患者さんの、浅く早かった呼吸が少しずつ鎮まっていき、深くゆっくりとなっていくあの瞬間は、いつでも私に命を宿していることの尊さを思わせてくれます。

 

囲われた場所でしか見たことのなかった動物が生き生きとその動物本来の姿を見せてくれた南極。

やっぱりそこがクルーズの経験の中で一番綺麗であり感動した場所です。

 

 

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俳優は「人にあらず人を憂う」の意味を考える。ある俳優さんの施術を通して

ご縁がつながり、うちのクリニックにある俳優さんの出張依頼があり私が行くことになりました。

 

その方には合計4回施術させていただいたのですが、診せてもらったのが舞台の本番1日前、本番直前の楽屋、2日目の午前中、3日目(最終日)終了後の夜でした。ちなみに、3回目と4回目の間に私はチケットをたまたま取っていたので観劇しました。

 

俳優の方を施術させてもらうのは初めてで、有名な方だったので若干緊張しましたが私にできるのはその方がいい役を演じられるようにサポートするだけです。そう思うとリラックスしてきて、普通に施術に臨めました。

 

その方の筋肉のつき方や、私に接してくれる態度、ものの見方や、性格などなど面白いことは多々ありましたが、書き出すとキリがないので一番私が感銘を受けたことだけ。

 

それは人(特に俳優)は容れ物なのかもしれないということです。

 

初めて診せてもらった本番1日前はとてもリラックスされていて、色々なところに気がつき、誰も傷つけないように配慮してくださる素晴らしい方だと思っていました。

でも2度目の本番直前は、顔が引き締まり、目の色が違う。それは昨日にはなかった何かが、その方に入った気がしたのです。昨日までのその方とは違う何か誰かがそこに居る気がするのです。

実際、私がそういう風に感じたことを素直に伝えたところ、「役を演じている時は、演じている役を遠くで自分が見ている。」というような旨のことを仰っていました。大竹しのぶさんは「93パーセントが役で7パーセントが自分ぐらいの状態がいい」とか言ってた気がします。

 

それで迎えた観劇本番。どこのチケットを買ったのか忘れていたのですが、なんと1番前の真ん中でした汗 もし施術することを知ってたら、わざわざそんな場所とらないのに。。。

でももしかしたら、それは俳優さんの容れ物について色々考えさせてもらうために与えられた機会なのかもしれません。

 

舞台の上で演じておられる顔つきや動作をみていると、前回の本番直前に入った何かがより具体性を帯びていることがわかります。

それは内面にある弱さや葛藤、気が狂っていく中で芽生える狂気と不安などです。映画ではカメラがクローズアップするなどで俳優さんの表情をじっくり見て感じることができますが、舞台となると自分でフォーカスしていかないといけないためそうはいきません。

そんな中でもその方が醸し出す表情、それは映像越しに観るのとは違うより生々しいものでした。イタコをみたことはありませんが、のり移るとはこういうことを言うのかもしれないとまざまざと感じさせてくれます。

また、若手の俳優さんが発する声がその俳優さんの声であって、演じている人物の声ではないと思った一方、その方の声は役と馴染んでいるようにも感じたのも私にとってはいい経験でした。

 

なんだか褒めてばっかりですが、ほんとにそう感じて自分でも驚くほどです。

 

最終日の夜に診せていただいたときは疲れ果てて、治療中は子供のようにずっと寝ておられましたが、俳優さんというものの生き様(生きる様子)をこの数日で垣間見れて、本当に勉強になりました。

 

俳優は「人に非ず、人を憂う」と書きますが、その詳細は「人に非ざるもの(演じた人物の魂のようなもの)が人の世界で人を憂うがため、物語を演じている」なのかもしれません。

私の人生で、とても刺激を受けた5日間でした。

 

 

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昔からある音と今ある音とは美しいハーモライズが出来るのか

最近、コンサートをよく聞きに行っています。

Julius Eastman Memorial Dinner | Barbican

Susheela Raman: Sacred Imaginations 1 | Barbican

 

特に先週行ってきたSacred Imaginationsはとてもよく、私にとっては、日本で観たモーリス・ベジャールボレロ以来、スタンディングオベーションをしたくなるくらい感動しました。

このコンサートはオーソドックスの男声合唱から始まり、インドのタブラや中東のウードや琴(名前はわかりません)などがクラリネットとセッションなどしつつ、一方でロシアの宗教音楽をベースにした歌い方(恐らく)の方やいわゆる歌手の方々のライブもあったりと、本当に色々盛りだくさんでした。

タイトルにもある通り、Christian east(どうやくせばいいのかわかりませんが、ギリシャ正教会ロシア正教会などのいわゆるヨーロッパの東側で主に信仰されている宗教のことを指すのだと思います)の古典と現代の曲を弾いたり歌ったりしてくれました。

また、Julius eastmanは70年代に活躍した音楽の作曲家で、ダンサーでもあったりと色々な活躍をされていたアーティストで、有名なのはEvil Niggerという曲です。

Jace Claytonというアーティストが彼の曲にアドリブで電子音を重ねていくというコンサートでした。

 

Eastomanのコンサートで感じたのは、昔からある音楽や音、楽器に、最近できた音や楽器が組み合わさることは出来るのかなぁということです。

例えば、電子音とピアノという組み合わせで出来た曲って、ありそうでないなと聞きながら思ったのです。なんでないのかと言えば、きっと私が色々聞く中で、あまりいいコンビネーションじゃないと思ったから、私のItunesの中にないのかなと思いました。

きっと、世界中の音楽シーンではそんな組み合わせざらに在ると思います。

でも、基本的には電気を通した楽器はそれ同士で組み合わせ、生の音の出る楽器はそれ同士で組み合わせるのが基本なのではないでしょうか。

Eastmanの曲が現代音楽、現代クラシックというジャンルにカテゴライズされるなら、クラシック音楽で(現代クラシック含め)交響楽団に対してソロプレーヤーとして電気楽器(例えばエレキギターなど)の人が弾いてるのってイメージ出来ません。

でも、やはりそれは相性の問題で、ピアノとテルミンの曲を聞いたことがありますが、それはとても美しかったです。

そういう意味では組み合わさることは出来るけど、慎重に選ばないとやはり音としての組み合わせは悪そうです。

 

あまり組み合わさったことがない曲を聞くというのは、自分の中で未知の部分の感覚が拡張しているような気がして、脳が興奮してるんだけど、どう興奮していいのかわからないという不思議な感覚に襲われます。

それは食べたことのないものを食べた時のような感覚に近く、ウサギを初めて食べた時に近いなということに今回書きながら気付きました。(私にとってはとても奇妙な味でした。)

 

映画が好きなのも、自分がまだ味わったことのない感覚・場面・感情に出会えるからなのだと考えています。

 

もっと未知のものに出会いたい。

そう思えるコンサートでした。

 

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ピサの斜塔も、色々な塔が傾いていたらまったく特別なものにはなりません笑

発展途上国へ行った時にみんなが思うことは失礼にあたるのか

最近、忙しくてブログが更新出来ていません。

去年、有機食料品店で働いていた時は、4日に一度と決めて、出勤前に10−15分前に職場について、近くの橋の下で、ガラケーに文章をがががっと詰め込んで、ブログの送信アドレスに送ってました。

昨日、東京ポッド許可局というラジオで「タイムスリップ論」という話で、ある匂いや風景に出くわすと自分の昔の情景がまざまざと思い浮かぶという話をしていましたが、私にとって、今、このブログを書き始めるという行為で、去年橋の下でブログを書いていたことを思い出しました。

 

そんなことはさておき、先週、ポーランドクラクフへ行ってきました。ここはアウシュビッツで有名な場所ですが、クラクフ自体もポーランド第二の都市でかわいい街です。

アウシュビッツは2回目で、大学卒業前にヨーロッパを一ヶ月かけて一人旅をした時に、どうしても行きたくて、チューリッヒから27時間ぐらいかけて、バスで向かいました。それもいい思い出です。アウシュビッツでも以前行った時のことを入り口の門を見た時にタイムスリップしました。

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それも今回の主題ではありません笑

ポーランドには計4人で行っていましたのですが、全員日本人で、僕らの会話でメニューなどを見た時に出てくる一言目が、「安いなぁ」というものでした。

ポンドがブリクジット以降安くなったとは言うものの、1ポンド≒150円ぐらいで、ポーランドの硬貨、ズロチでは1ポンド≒5ズロチでした。

例えば、一度ちゃんとしたポーランド料理を食べようということで、きちんとしたレストランに入ったのですが、そこで出たメインの料理が11ポンドぐらいでした。ロンドンではありえない値段です。何だったら、イングリッシュブレックファーストですら、それぐらいの値段がします笑

 

外で食べる度に「安いなぁ。」という会話をみんなで交わすわけですが、その言葉を私は途中から使いたくなくなってしまいました。「すごい失礼なことを言ってないか。」と思ったからです。

私がもしポーランド人だったとして、日本語が理解出来てたら、その会話を決して気持ちよく聞けないよなと思ったわけです。

安いなと思ったのは嘘ではないですし、ポーランドの物価が安いからこそ、逆にポーランドの人がイギリスに来て働いて、ポーランドに持ち帰ることで大金を手に入れることができます。それはクルーズ船でなぜ発展途上国の人たちが、狭い部屋を我慢して、半年以上も祖国を離れてもなお働く理由でもあります。

 

でも、安いという言葉を発した時に、自分の中にどこか差別する意識があるなと思ったし、友人が発する言葉の中にも含まれてるよなと思ったのです。

 

インドネシアに大学時代一人旅をしたことがありますが、バリ島で子供を抱えたお母さんがそれはとても強い眼差しで、私に手を差し出し、お金を恵んでくれと言ってきたことがあります。私はそれを振り払うも、なお彼女は手を私に向けてきました。

それはきっと、「お前はここまでこれるほど裕福なのに、どうして小銭でさえも恵んでくれないのか。」という意識の現れだったのかもしれないと、今振り返ると思います。

 

クルーズ船で様々な国籍の人たちの中で働いていた時に考えていたのは、どうしてある人はイギリスで生まれ、アメリカで生まれ、フィリピンで生まれ、チリで生まれ、私は日本で生まれたのかなということです。

そこを考えることに意味も答えもありませんが、仮に日本で貧しく・つらい環境で生まれたとしても、労働の賃金ということを考えれば、日本で生を受けたことは幸運なことだということです。違う国からわざわざ、働こうと思おうと思わせる魅力が賃金的にある国で生まれたことは、それだけで、相対的に見ればもう、すごく幸運なことだと思います。

 

日本から海外で働きたいと思う人たちが、先進国はいいけど、発展途上国は嫌だなと思う理由の1つは、賃金が安いので、日本に戻りたいとき戻れないかも。。。というものだと聞いたことがあります。その現実は、逆もまた現実なんだと言うことです。

 

話を戻すと、ポーランドで思ってしまった、「安いなぁ」ということ。正直、日本で生まれてしまった限り、思わないでいることは難しいと思います。でも、国を訪れた時にはせめて、それを口にしないでおこうと決めた、ポーランドへの旅でした。

 

左下のウサギはポーランドで買ったものです。かなり気に入っています。

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スコットランド、ハイランド。ベンネビスへ行く。

高い場所を見たら登ってみたい。

そんな感覚を持ったことはありませんか?

 

私は高い山を見るといつもわくわくしてしまいます。

イギリスに来た時に調べたことの一つは、「イギリスで一番高い山はどこだろう?」というものでした。

 

それで出てきたのがベンネビスです。聞いた話では、ベンネビスという名前のウィスキーがあるとのこと。

いつか行きたいなとずっと思っていたら、私の休みの計算間違いで急遽、三連休が取れることに。

 

この勢いで行ってしまおうと、夜行バスでグラスゴーまで行き、そこから3時間かけてフォートウィリアムスというベンネビスの麓の街まで行きました。

 

スコットランドのハイランドという地方を過ぎると、バスから眺める景色が変わって来ます。

ぱっとみて思ったのは、南米のパタゴニアに似ているなと。

それは逆に言えば、それほど自然が厳しいところなのでしょう。

 

フォートウィリアムスに着いたのは12時前。今日はその日中にKinlochlvenという別の場所に行く計画だったので、急いで登り始めました。

ビジターセンターから見上げるベンネビスは雄大で、イングランドの牧歌的風景とは違います。

 

ここはイギリス一高い山ということもあり、道は整備されていて、とても歩きやすかったです。

気持ちよかった。

ただ、歩きやす過ぎると、逆に面白みがなくなるのも事実で、そこが難しいところ。

富士山よりもアルプスのほうがわくわくするのは、山道が山道らしいところも一因の1つだと思っています。

 

でも久しぶりに山に登った感覚が持てたので、非常に気持ちよかったです。

 

2日目に行ったのはBinnein Morというところで、地元の人も知らないような山だったのですが、あまり知られていない分、道が整備されておらず非常に歩きにくく、わかりにくい。

一応地図も印刷して、ルートも頭に入れて行って、誰かの山行記録をもとに登っていこうとしていたのですが、朝から降った雨で道がぬかるんでいたからか、全然道がわからない。

 

流れてくる川っぽい水と、かすかな、人が歩いたであろう道の気配を頼りに登って行ったら、道が道っぽくなってきて、なんとかルートにのりました汗

たまたま通りがかった人に現在地を確認したら、帰りに使う予定だったルートを登って来ていたそうで、道を間違っていました。ただ、行きの道は果たしてどこにあったのか、未だにわかりません。。。

 

その方にBinnein morへの行き方を教えてもらい、再度やる気が出たところで、登山開始。

昨日とは違い、すれ違った人は計3人だけで、ひたすらハイランド地方の山々の中を1人孤独に進んで行きます。

ある程度、標高が高くなって見回した景色はベンネビスとは比較にならないもので、世界の果てにいるような、宇宙のどこかの惑星に迷い込んだような感覚にさえ陥ります。

 

来てよかったなと思っていたら、帰りに完全に迷ってしまい、初めて道無き道をひたすら格闘しながら降りていきました。

こんなに迷ったのは初めてだったので、遭難して夜を迎えた時の不安はこんなもんじゃないのだろうなと思うと、将来迷わないようにしようと心の底から思いました。

 

ただ、幸運にも標高残り800メートルぐらいで、下は見えていたので、グーグルマップのGPSを頼りにどうにか辿りつきました。

途中から歩けなくなるぐらい膝が痛くなったりと散々な部分もありましたが、思い出深い登山となった初めてのハイランドでした。

 

なぜ膝が痛くなったのか分析して、次もまた来ようと思います。

 

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圧に対して思っていることをちらほらと。

最近、治療をしている中で「圧」についてよく考えます。

陰圧や陽圧などの話は他のサイトに譲るとして、圧はある空間が縮まったり、拡がったりする時に、その空間を構成している境界線にかかる力と言えます。

 

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職場の人と不妊治療について話していた時に、その方は「要はお腹に隙間を作れば妊娠が出来る。」と言っておられました。

私がその方に「どんだけ頑張って不妊治療をしても授からない人がいる一方で、男性から乱暴なことを一方的にされて子供を孕んでしまう人もいることを考えると、子供は愛の結晶というのは残酷だ。」という話をしていた時でした。

つまり、感情的なものは別にして、子供を授かるか否かはお腹に隙間があればできる=お腹の圧が適正であれば子供が出来るというのが、その先生の見立でした。

 

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今まで圧といえば呼吸、つまりは肺の圧の変化のことを指すものと何となく思い込んでいました。でも、その圧の変化以外にも重力・神経・ホルモンその他身体を構成する様々な要素によって、圧は作られ、空間を構成する境界線にその圧がかかる。

その境界線はどこなのかなぁと色々考えているのですが、私は関節だと思っています。

膜連鎖の観点で言えば、全てが身体とつながりネットワークを構成しているため、境界線はないのかもしれません。

あるオステオパシーのセミナーに参加した時に、最後関節をうまくはめられない施術者は大成しないと言っていた先生がいます。それは、結果として圧がかかってしまっている関節を構成する要素を様々な観点で調整したとしても、最終的に圧がかかる関節を正しい位置に戻して圧が適切にかかるようにしなければ、身体は元には戻りにくいということなのかもしれません。

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肩甲上腕関節を緩めて行く時に、人によって一番圧がかかっている(関節に制限がかかる)力の方向は違うなといつも思います。

関節が機能してその圧を吸収しているうちは、肩が上がりにくいという状態で住むのかもしれませんが、その機能が器質にまで影響を及ぼし始めたとき、肩に炎症がおき、50肩などで悩むようになるのかもしれません。

 

がに股・内股なども膝への上からの圧と膝を支える下からの圧とのずれの結果であり、その圧が膝という関節で吸収出来なくなった時に、身体が悲鳴を上げてしまうのでしょう。もちろん、痛みを感じやすい感じにくいなどは、自分の自律神経やホルモンバランスの状態も多分に影響してきます。

 

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ピサの斜塔。圧を吸収出来ているからこそ、倒れない。