英国の、船上の鍼灸師の日記 the diary of acupuncturist on Great Britain, cruise ship

2012年から客船で鍼師として働いていましたが、2017年からロンドンで再び治療家として働いています。治療のこと、クルーズのこと、食べ物のこと。色々綴っていこうと思います。

「身体が弱い」の考察。横隔膜と肝臓、胃、食道がどう繋がっているんだろう。

お題「マイブーム」

 

施術家にとって施術を考えるのは、マイブームという名のライフワークですが、前回に続いてお腹について考えます。

 

横隔膜の動きを撮影した動画があります。

www.youtube.com

 

これを見ると、吐く動き、つまり、横隔膜が縮まる(=上に上がる)動きは活動的に見えます。その一方、吸う動き、つまり、横隔膜が緩み下に拡がる動きはほとんど見られません。(付いている胸郭の底部より下にはほとんど下がりません。)

普段意識して呼吸をしてみると、少なくとも私にとっては横隔膜が胸郭より下に下がって大きく吸えてるなぁと勝手に思っていましたが、実際身体に起こっている動きは私たちが勝手に想像している動きとは全然違うことがよくわかります。

 

身体が弱っている高齢者や、そうでなくても体調が優れなかったり、元々身体が弱い人で胸郭と臓器とが離れているなと思う人がいます。胸郭の底部つまり、横隔膜がつくところがくっきりと浮き出ている方です。

どうしてこの方は身体が弱いのかなと考えていたのですが、この呼吸の動画を見て思いついたのが、吸う時に胸郭・横隔膜が密接に接続する胃・肝臓・食道をうまく押せないからだと思うのです。

 

オステオパシーという治療法にヴィセラルマニュピレーションというテクニックがあり、これは内臓が持つ独自の動きを回復させようとするものがあります。

例えば肝臓と胃の間には肝胃間膜というものがあり、この膜が何らかの理由で硬くなってしまうと、肝臓と胃はそれに邪魔されて独自の動きができません。この膜をセラピストの手で緩めて、独自の動きを回復させるわけです。

セラピストの圧でもって膜の圧・抵抗を感知し、その膜の硬さをとるわけですが、よく考えると呼吸という動作が胸郭と腹部臓器の隔たりとなっている膜を仕切りとして上と下が押し競饅頭のように押し合いっこしているわけです。

ところが、上記の方のように肋骨が浮き出ているとような方だと、横隔膜が胃や肝臓を押そうと思っても、うまく押せません。

つまり、硬くなってしまった肝胃間膜を横隔膜で押して緩めることが出来ないわけで、自分で自分の身体に対してヴィセラルマニュピレーションができないということになります。

それは自分で自分を治療する力が弱い→免疫力が弱いということになり、一般的に言われる「身体が弱い」人になります。

 

一方その逆もあり、特に今のような忘年会シーズンに多いのですが、食べ過ぎ飲み過ぎで、胃や肝臓が横隔膜を押し上げてしまい、胸郭にストレスがかかって肩がこる人。

食べ過ぎ飲み過ぎの方の肩こりというのは、独特の硬さがあり、初めにうつぶせで肩を触った時になんとなくわかります。

これはまさしく、押し競饅頭で腹部臓器の圧が勝り、上に圧を押し上げた結果といっていいでしょう。重力にも勝るわけですから、相当な圧であることは間違いありません。

 

お互い気をつけましょう。

 

呼吸の動画を見て抱いた違和感を実はこの1ヶ月ぼんやり考えていたのですが、今回ブログにするにあたってかなりクリアになりました。

文章にするというのはやっぱりいいもんですね。

 

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内蔵の輪郭

最近施術をしていて、内蔵の輪郭が気になっています。

というより、以前からそういう変化が生じていたのに、気づいていなかったというのが正しいんだと思う。

僕の仕事が鍼や指を通して、身体に圧を加え調整していく仕事なら、どこかに偏っていた圧を解放することで、圧が分散して圧の足りてないところに移動する。

 

始めは弱っていたのでだらしなかったお腹にいつのまにか圧が集まってきて引き締まっていく。それは肩や腰に溜まっていた圧が移動していった結果ではないのかと思うのです。

(その一方で、輪郭が出て来たと思ったら、また少し緩んだりしている。これはうまくいったのかいってないのか。まだはっきりわかっていません汗。。。)

 

身体は部分と全体がお互いに関連しあいながら引っ張り合いっこをしているなぁとよく思います。

純粋な物理現象に対して、感情や記憶(外傷含む)が物理というものを超えた存在として圧の偏りを生じさせる。

東洋医学に気と血という概念があり、気が血を動かすなんて言いますが、それはまさしくこういうことを指しているのかもと思います。

 

便秘も考えようによれば、「腹圧が弱ったお腹に圧を生じてかろうじて身体が立てるようにしている」とも撮れます。そうであるなら、なぜ便秘が起きるのかの糸口になりそうな気がするのです。

じゃあ下痢はどうなんだろう。圧を保持すらできないのか。もしくは、圧を保持する必要がないのか。その両方か。

 

お腹に圧が戻ると、横隔膜が下がって、胸郭も落ち着き呼吸がしやすくなります。

深呼吸は深く息をすると書きますが、最近それは注意しないといけないと思っていて、「楽に」深く息をしないとかえって、息が浅くなるんじゃないのかな。

なぜなら、楽にしないと呼吸をさせようとする神経が無理に興奮してしまって、いたずらに交感神経を煽るからです。

 つまり、自分の身体が無理をしない範囲で深く呼吸をする。

これはやってみると、案外気持ちがいいです。

 

今日アトピーの人が来られたが、全体がむくんで圧の偏重がとてもわかりにくかった。内蔵が弱るというのはこのことか!という典型例だったと思う。一回では難しいけど、回数重ねればある程度改善できるはず。 

 

もっとうまくさばけるよう、さばけるよう。

 

 

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方法論より原理原則

お題「マイブーム」

 

人を施療し、改善が見込めるようにする。

その意味ってすごく広い。肉体的なものもあれば、精神的なもの、神経的なもの筋肉系、はたまたそれ以外。。。

 

それは複合的なものでその中でも得意なものお、自分が好きなものを選んで仕事にしていきます。

占いを通して施療する人もいれば、マッサージを通してする人もいるわけで。

 

僕はもちろん鍼灸師あん摩マッサージ指圧師なので、身体の組織(筋肉や神経、臓器などはすべて細胞なわけで)を勉強して施療するわけですが、組織をどのように勉強するかというのは本当に色々ある。

脈診や腹診、筋肉の起始停止などなどあげればもちろんキリがないけれど、その中で今ハマっているというかずっとやっているのが、骨です。

骨の解剖図を見て、ここにはこういう筋肉がこうついているとかを妄想する。

 

基礎中の基礎と言えばそれまでなのですが、だからこそ自分の中でまだまだ見落としていることがあり、その見落としていることが、身体にとってとても重要なことじゃないのかと改めて思っています。

例えば、この絵。(ネッターより拝借)

 

 

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肩甲骨から肘までの写真で、筋肉がどこについているかを色分けしています。

これで僕が注目したのが、上腕筋と上腕三頭筋

よく見ると肘より上の上腕筋の下半分はこの2つの筋肉に包まれていることがわかります。

上腕筋なんてのはあまり僕の中では施術のアンテナにひっかからなかったのですが、こうみると肘の安定性においてとても重要な機能を果たしているんじゃないかと思うのです。(そんなことは知ってるわ!という声も聞こえてきそうですが。)

 


解剖の教科書だけではわからないことというのが、骨の形や筋肉の位置情報をみることでみえてきます。そしてそれは、言葉だけを羅列して覚えるより生きたものとして僕の中に出てきます。

治療法という方法論をたくさん知るより、骨に事実として存在する、身体の原理原則を知る方が応用も効くし大切なんじゃないかと思う今日この頃。

 

 

 

精神的なものが精神を隠してしまう

お題「最近知った言葉」

 

この言葉をご存知でしょうか。

MixBというサイトでロンドンで本を引き取った時に、河合隼雄さんの対談集「こころの声を聴く」を偶然いただいて、その中で白州正子さんと河合隼雄さんの対談の中で出てきた言葉です。

白州さんの「いまなぜ青山二郎なのか」という本の中で青山さんが元々言った言葉らしいけど、対談集を読んでいて、心の裏側をぐっと掴まされたような気持ちになった。

青山二郎 - Wikipedia

 

この言葉は本当に色んな意味を持っていて、人によってもきっと捉え方が違うと思います。

僕はこの言葉を自分なりにどう解釈して日記に残すかうまく言えないので、代わりに最近体験したことを例として書いてみようと思います。

以前、鶏をさばいた日記を書きましたが、その友達の家に先週行ってきました。

動物が肉になる、その行為はまさしく「精神的なものと精神との差」の1つだと思うけど、その友人の家で今回彼の育てている畑を手伝ってきた時の一こま。

 

さつまいものつる返しって知ってますか?

サツマイモのツルが伸びすぎて歩く場所がなくなってきました。ツルを切るの... - Yahoo!知恵袋

僕は全く知らなかったのですが、さつまいもは地中に塊根としてさつまいもを育てますが、地上には葉っぱが育ち、つるが地面を這うように伸びます。

そのつるが地面に付くと、そこからまた水分を吸い上げようと根を生やすのです(そこにさつまいもはできません)。根が生えてしまうと、塊根としてのさつまいもに栄養が行き渡らないため、芋が小さくなってしまう。

それを防ぐために、つる返しと言って、つるから根が生えるのを防ぐために、地面からつるをあげていく作業をします。

 

畑に入って作業をするなんて、人生で初めてでした。家庭菜園を実家ではやっているため、それを手伝うことはありましたが、さつまいもなんて育てたことはありません。

つる返しをさせてもらってほんとに実感したのが、さつまいもは生きるのに一生懸命だということです。

鶏をと殺する時に、僕らが捉まえることから逃げるのと同じように、さつまいものつるは自分たちが育つように地面に触れれば根を生やす。

つるを地面からひっくり返したらわかりますが、彼らは生き延びるために本当に一生懸命になっていることを実感します。

そして、その一方で、食べ物としてのさつまいもをよりよく収穫するために、人はまたそれに対抗しようとする。

 

さつまいもはただ本能のままに地面一杯に自分たちのつるを葉を拡げていきますが、その本能をうまく調整してやって、人がさつまいもを大きくし、収穫する。

それは植物と人間の会話のように感じられました。

 

その一生懸命に生きるその様はまさしく「精神」だと思うのです。

「栄養たっぷりの野菜」とか、オーガニックの野菜は人工的に作られた野菜や農薬まみれの野菜なんかより「生命力がある」とかなんとか、色々な飾り言葉を目にします。

でも、そんな「精神的なもの」を言う人はその「精神」をどれだけわかっているのだろうか。

地面に根を一生懸命早そうとするいもとその生命そのものの「精神」に勝てるはずがない。

 

本当に美味しい肉を食べたことがある人と、自分で殺めた肉を美味しいと思うこと。そこには大きな、本当に大きな差がるのではないでしょか。

 

わかりやすい言葉に僕らは往々にしてだまされてしまいますが、その「精神的」ではない、その「精神」に少し近づけたとき、いかに精神的なものが見せかけで言葉に重みのないものかが、すぐにしてわかってしまうように思います。

もちろん、農家の方が「精神的なもの」を消費者に伝えることがあると思いますが、そこにどれだけ「精神」が反映されているか、また、その言葉を受け取る側にも「精神的なもの」ではなく「精神」を拾い上げる度量がなければ伝わらないと思います。

 

偉そうなことをつらつら書きましたが、精神を少しでもわかって、優しい人間になれたらなと日々思います。

 

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山には、登らないとわからないことがある@Ben Navis, Scotland

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

指もみと飲尿と安心すること

仕事柄、教科書をみながら自分の身体に触れて色々と確認します。

その時不思議に思うのが、自分の身体に自分が触れているとなぜか落ち着くということです。

例えば自律神経の体操としてよく言われる指もみ。

指もみ 健康法 - Google 検索

指もみ、健康法と入力するだけで、色々と出てきます。

ただ爪の周りのツボを揉めばいいというわけではなく色々コツがあり、中々奥が深いよなぁと個人的には考えています。そんなことより、左手で右の人差し指を丁寧にほぐしていると、「右捻りはしにくいけど、左捻りはしやすいな」とか、「肘の方にまでなんか指をほぐす感覚が来ているな」とか色々感じます。

それはただ右の指を動かすだけでは感じづらく、左手で右の指をほぐすことによって得られる感覚で、身体の右側と左側が繋がることで初めてそういう感覚が得られます。

 

 

こういう新しい発見もそうですが、ただ無心に左手で右の指をほぐしているととても落ち着く時もあり、右と左が繋がることで、身体が輪っかとして一続きになっている感覚になります。

 

あーだこーだと頭を巡らしていた時に思い出したのが、日本にいた時に参加していた勉強会である先生が言っていたことです。

その方は飲尿健康法を実践したことがある方なのですが、その方曰く、飲尿後に「お尻のおできが治った」というのです。

で、その方が飲尿健康法のメカニズムを考えたのですが、「尿という口から入って最後に尿道から出てくる。つまり、身体全身を巡ったからこそ、尿には身体全体の情報が詰まっている。脳は身体の全ての情報を把握しているわけではなく、全身の情報を持っている尿を再度飲んで再度全身に巡らせることで、お尻のおできと言う情報が脳に入り、おできが治ったなじゃないか」というものでした。

 

それはあくまでも一諸説ですが、面白いなと思っています。

自分(つまりは脳)の中では、自分のことを全てわかっているように思いますが、飲尿とおできの関係じゃないですが、わかってないことは本当にいくらでもあります。

だからこそ、自分の左手が自分の右手に触れて、自分が自分として存在していることを、感覚的に、本能的に感じられるから落ち着くんじゃないのかな。

 

皆さんも是非やってみてください。(飲尿も含めて。)

 

 

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20年後の「8月31日の夜に」 その2。2歳の僕は何を僕に言いたいんだろう。

お題「夏休みの思い出」

 

前回の最後に、2歳の時の自分の写真を載せました。

あの写真を見て、彼は僕に何を言いたいんだろうとずっと考えていました。

 

考えてもらちがあかず、その後、母親をお茶に誘い自分の幼少期がどういう風に見えていたのかを聞いてみようと思って、2人で話をしました。

僕がその当時はずっと不安だったことを伝えると、母はとても驚いて、彼女はとてもそのようには見えなかったとのこと。

彼女は未熟児で生まれた弟にかかりきりだったでしょうし、そらそうかなと今30数年後になれば冷静に受け止められますが、その当時の自分自身にとっては、寵愛を受けていたのが突如引き離されて一人になってしまったことにショックを受けていたんじゃないかと思っていました。

 

小一時間ほど話し、家に帰って部屋に戻った時のこと。

また写真を取り出してみていたら、不意に言葉が彼から返ってきたように思いました。

それは、

 

「おかえり。」

 

という言葉だった。

それを聞いたとき、僕は正直「ん!?」という反応しか出なかった。

だって、僕は2歳の時の自分を励ます言葉を探していたからです。

例えば、「ずっと不安に思っているかもしれないし、今でもそうだけど、今でも元気にやってるよ。」とか、ある人に聞いたのは、その子を抱きしめてあげるといいとか言ってたのに…

 

なので、「おかえり」という言葉にあっけにとられました。

でも、そういう言葉を言われたのには意味があるはずだと思ったし、なぜかその言葉に安心する自分がいたので、またその意味を考える。

ねじまき鳥クロニクルの1シーン、井戸の底で主人公が考え事をするように。

 

それからさらに数日。

「おかえり」に対して、彼に「ただいま」ととりあえず返したままでしたが、自分なりに出た結論は、なぜか生じてしまう不安、きっとそれは未来がある限りずっと持ち続けるものかのかもしれませんが、その不安を2歳の時に起きた出来事のせいにしてないかということ。

自分が幼い時に(記憶している限り生まれて初めて)感じた「不安」のせいで今も「不安」を感じていると錯覚している。

つまり、過去の自分に不安の責任を押し付けてるんじゃないのかなと思ったわけです。

 

それに気付いた時に、「甘ったれるんじゃない」という言葉も降ってきました笑

 

2歳の時、母親が大変で父親も忙しく、弟も頑張って生きようとしている、そのことに言葉には出来なくてもきっと気付いていたはず。

でも、それに不満を言うこともなく、不安を悟られまいと隠しながら、一生懸命生きていた。

言語を獲得していないからこそ、色々な感情を言葉で区別しないまま、感じて飲み込んだからこそ、衝撃がその当時の僕には大きかったのかもしれないけど、それでもなお平然としていた。

だからこそ、母はそのように見えなかったんだから。

 

そんな彼に、大きくなった自分が「甘えていいんだよ」というのは、僕の場合違ったようです。(きっとそう言うことで、解放される人もいると思います。)

 

34年と数ヶ月しか経っていませんが、自分を振り返る中で1周回って戻ってきた。

2歳の自分は、自分を起点に1周回ってくることを知っていたのかもしれない。

だからこそ、

 

「おかえり」

 

と言ってくれたんじゃないのか。

そう思うと、なぜか、すっと楽になれました。

 

自分の家のように、自分が不安定になった時に戻れる記憶という名の場所を手に入れた気がします。

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20年後の「8月31日の夜に」

お題「夏休みの思い出」

 

「どうしていつでも緊張がとれないんだろう」

 

日本に戻ってしばらく立ちますが、先日参加したセミナーで自分の手の緊張がとれず、セミナーでのテーマだった「骨膜に触れる」ということがうまく出来ずに終わりました。

それが僕の施術家として致命的なことになるのかなぁと考え始めると、どうしてそもそも手の緊張がとれないのかなと、落ち込みます。

 

手を揉むと自律神経の機能が回復すると謳う健康法があったり、気の流れとされる経絡には手や足の先に経絡の終わりと始まりのツボがあるなど、手や足は自分の内部の感覚の状態が現れるとされていますし、手が凝るという人は緊張しやすい人が多いなと臨床経験から感じています。

僕もいつの頃からか手と前腕の緊張があって、その緊張がとれていることが中々ありません。ヨガやフェルデンクライスなど、自分の内と外とを繋ごうとする活動はそういう自分の身体の内外の緊張をほぐすものではないのでしょうか。

 

手足に緊張があるのか、そもそも自分はいつから自分の内と外とに壁を感じ、緊張を感じ始めたのかなと、瞑想をしながら潜ってみることにしました。

緊張を分解すると、緊=かたい、しめる、ちぢむ、張=はると読み直せます。つまり、何かが「かたく」、「はった」なった状態のことを言うことになります。

つまり、自分が「かたくはった」状態なわけですが、自分が外に対してかたくはったのはいつからなんだろう。自分の外と内が別れる前までは、かたくはる必要がないわけですから、自分が外と内を意識してしたのはいつなのでしょうか。

究極的に言えば、自分が生を受けて受精卵として1つの細胞になった時点で、自分は世界とわかれたことになるし、全ての有機物は同じ時点で世界とたもとを分けたことになりますね。

それは神秘的というより神秘ですが、そこに浸れる余裕がなかったので、自分の一番古い記憶の中で、いつ自分が外を意識したのかを思い出してみる。

 

弟が生まれたことなんじゃないのかなというのが、今の僕の古い記憶です。記憶というより、感情が生まれた。

親の寵愛を受けてきたのに、弟が生まれてくるとその愛が減る。僕の弟は未熟児として生まれたそうで、どうしても手がかかったそう。そうなれば、どうしても健康優良児として生まれてきたこっちを見る余裕はどうしてもなくなってしまう。

そこで喪失、不安を識り、そして僕を見て欲しいという感情(一般的なものより執着に近い感じか)と欲が生まれたんじゃないだろうか。

(「お兄ちゃんなんだからなになに」、「お姉ちゃんなんだからなになに」という言葉がどうしても好きになれないのはそういう気持ちを幼少期に持ったことが原因で、その時の記憶が自動的に反応してしまうんだと思う。)

人より強い「僕を見て欲しい」という欲は、自分を作り上げる上で色々な反応を引き起こしたことに文章を書き始めて気付きました。

 

・人よりも何がどこにあるなどの情報を拾い上げるのが早くなる

・見て欲しいという欲のカウンターで見て欲しくないと思いになり、人見知りになる、心の鎧を作る

・人と同じようにいることに居心地が悪くなる(これの真反対として、人と同じでいたいという人もいるだろう)

 

その一方で、どうしたらこの「不安や喪失」、「自分を見て欲しい」が減るのだろう。

「そんなもん誰だって持ってる」「自分が思ってるより大したことない」なんて人から言われて安心出来るぐらいならもうとっくに安心してるので、それは自分で見つけるしかない。

 

そう思って自分の記憶を確かめようと思い、親が残していた自分の写真を見始めました。そこには自分が思い出せない自分が確かに存在していた。

自分のようで自分じゃない存在というのは不思議で、僕の身体の細胞が分裂して大きくなって今の僕になっているのに、その過去の形はまるで別人のようです。

でも1枚だけ自分がなぜか覚えているような顔があり、それに何かを言ってあげるのが大切なような気がしています。

 

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何を言ってあげるべきか。 

この文章を書きながらずっと考えていますが、わかりません。それがわかったら写真を抱きしめて言ってあげようと思います。

 

そしたら、手の緊張が少しはとれるかな。