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英国の、船上の鍼灸師の日記 the diary of acupuncturist on Great Britain, cruise ship

2012年から客船で鍼師として働いていましたが、2015年はイギリスで働くために有機食品の会社で働き、2017年からロンドンで再び治療家として働いています。治療のこと、クルーズのこと、食べ物のこと。色々綴っていこうと思います。

セブンシスターズへ。その2 達成感と人生の肯定感

マラソン、筋トレ、山登りに共通するもう一つのもの。

それは、結果が出ることだと思っています。

 

社会人になって、はたまた、社会人の前でも平穏な日々が続いている時に、不意に不安が襲ってくることはありませんか?

「 人生このままでいいのか?」

「何かの役にたっているのか?」

 

などなど。

 

 私は思春期の頃から、周期的にその波がやってきます。

その波が来ている時に、山登りをしたくなるようにも思います。

(前回書いたように、動物的要素を求めている時にも山に登りたくなりますが、 この2つの要素の根本は同じで、自分が積極的に人生を過ごしているか、充実しているかという点だと考えています。)

 

なぜそうしたくなるのか。

それは初めに書いたように、結果が出るからです。

結果が出れば、充実感を私は味わえるからです。

 

その充実感が、仮初めであっても、人生を彩ってくれ、豊かであるように感じさせてくれます。

 

旅に出て世界の多様性に触れた時に、人生が豊かになるように思いませんか。こんな音楽があるんだとか、こんな食べ物があるんだとか。

それに近いような感覚が、そびえ立つ山に向かいただひたすら登り、到達したところから見える景色、そしてそれは、自分の足で登った人にしか見えない景色が拡がった時にあるように思います。

それも一つの多様性と言えそうです。

 

 私が社会人だった時、毎週のように山へ行っていたのもそに反動だったように思います。

自分なりにうまく回そうと思っても、自分の力が及ばないところで自分に責任を持たされたり、上司にずっと怒られてメールを送れなかったりして、自分の中での充実感・何かをやり遂げて感覚は全くと言っていいほどありませんでした。

 

その中で、登れない責任が全て自分のしかかってくる、また、そこに到達した先には、行った者しか知らないご褒美(景色)がある。

そんなわかりやすい関係が、私を一層山登りに向かわせたのだと思います。

 

話をはじめに戻します。

随分と長い前振りでしたが、次回にセブンシスターズについて書きたいと思います。

 

 

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セブンシスターズへ。その1 僕が山に登りたくなる理由

イギリスに来てから、早3ヶ月。

生活にも慣れてきたものの、色々と計画するのが面倒くさかったり、治療が好きだったりもあり、ほぼ毎日治療院に顔を出していました。

 

しかし、私は昔から、街に疲れてくると、自然の中に身を置きたくなる性分で、そのことは大学時代に初めて北アルプスを1週間かけて縦断した時に実感しました。

 

山登りはしんどいです。

ある友人から「山登りという言葉は正確じゃない。山登り下りが正しい。」と言われました。

 

まあそんなことは置いといて、なぜ山登りが好きなのかと言えば、それはしんどいからです。

街中にいるときとは違い、芯から疲れることが出来るからです。

それがなんとも心地が良い。

 

歩き始めは、足が登るのに馴染んでなかったりして余裕が全然ありません。

また、自分の生活のことだったり、患者さんをこうしておけばもっと良い結果が出せたんじゃないかとかごにょごにょ考えています。

ところが、ある地点を過ぎると、そういったことを考えるエネルギーが歩くほうに割り振られないといけなくなってきます。

それを人はゾーンにはいったという人もいるのかもしれません。

 

人間は動物とコンピュータの間の生き物だとは前にも書いたし、今でもそう思います。

この山登りという行為は私にとって、コンピュータに傾きすぎた自分を動物側に引き戻してくれるものだと思っています。

 

だから、街中にいて、考えないといけないことや、考えなくてもいいのになぜか考えちゃうこと、はたまたイライラなどの感情だけに引きずられて人間のコンピュータが暴走していく中で、自然の中で動物に戻りたくなる衝動が出てくるのだと思います。

 

それはマラソンにハマってしまう人や、水泳や筋トレにハマってしまう人とそんなに根本は変わらないのではないでしょうか。

 

動物になりたいのと別にもう一つ、山登りマラソン筋トレに共通するものがあると思っています。

 

それは次回に。

 

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「笑いは緊張と緩和だ」とは明石家さんまさんの言葉みたいだけど、それは呼吸や人がブログを書いたりするのと同じなのかな

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「笑いは緊張と緩和だ」と明石家さんまさんが言っていたみたいという誰かの言葉をずっと覚えていました。

本当にさんまさんが言ってたのかなと思って検索をかけてみたら、さんまさんも含め色々な方がそのように思っておられるんですね。

知らなかった。

笑いは緊張と緩和 さんま - Google 検索

 

もしその緊張と緩和が笑いを生むのなら、それが1つの真理なのかもしれません。

その一方で私はこうも思っていました。緊張と緩和は呼吸のようなものじゃないかと。

吸収と排泄ともとれるのかなと。

 

イギリスに来てからブログを書けていないなぁと思っているのですが、なんで書けないのかと自分なりに考えていました。

時間がないから?いや、そうではありません。

私の職場は12時から8時までで、朝は7時前後に大体起きて、出発は10時半すぎ。

3時間半もあれば、たとえ昼のお弁当を作ったとしても、時間はあります。(最近は作り置きということも覚えたので、20分ぐらいで弁当ができることもあります。)

 

だとすると、ブログを更新しようとしないのは何か理由があるはずだと。

それで思ったのが、「生活の中で、ブログの更新の順位が低い。」です。

 

恥ずかしながら、齢33にして、初めて一人暮らしをしました。船でも一人暮らしでしたが、炊事はもちろんのこと、自分の服以外はハウスキーパーがやってくれていたので一人暮らしでも時間がたっぷりありました。

一人暮らしってのは、色々やることがあるもんですね。あと、交通手段に自転車を使っているので、通勤に1時間弱かかります。

そんなことをしていると、時間はあるのに時間に追われている気がして、ブログの更新をする気が起きなくなってくる。

多分、これが答えのような気がします。

 

しかしところが、ブログを更新していないと居心地が悪くなってきます。

1年以上続けているからというのもありますが、「緩和がないから。」という考えがふと浮かびました。

 

「緊張と緩和」

という言葉は、色々な言葉に置き換えられないでしょうか。

吸うことと吐くこと。▶︎呼吸

吸収と排泄。▶︎消化

凝縮と拡散。

などなど。

 

書いてみて思いましたが、「緊張と緩和」「凝縮と拡散」がイメージに対して、それを具体化したものが「呼吸や消化」と呼べなくもない。

呼吸や消化の前段階に必ず、この2者の状態がイメージとしてあるように思います。

 

人の活動も基本的にはそうだと思います。

私は患者さんに時々「もっと泣いて下さい。」とアドバイスすることがあります。

それは、ストレスを抱えて受け止める=緊張と凝縮、ばかりしていると身体がバランスを崩していきます。

それが症状として病気と認知されるわけですが、その緊張と凝縮を和らげるには緩和や拡散が必要です。

涙は心の汗だと私は考えており、感情的なストレスが凝縮しているなら、感情的なストレスを緩和しないといけません。それは緊張と緩和という対比があるからです。

 

 色々なことをスケジュールの中でこなしていくという「緊張」の中で、ブログを書くという「緩和」を身体が求めているのかもしれません。

映画を観て涙を流すのもいいですが、違う形での緩和のほうが緩和しやすい人だっています。

 

「書くという行為を通して、自分の気持ちを見つめ直していく。」のが張りつめた緊張を緩和していくからこそ、私はブログを更新しないことで居心地が悪くなったのかもしれません。

 

うん、きっとそうだ。

また1つ私の心の緊張がほぐれました笑

 

 

メモ

第2中手骨を使って頸部の痛みを取る。

 
第2中手骨からラインを引いて、相手が訴える痛みの場所にラインを引きます。
 
当該部位に伝わったら、第2中手骨を「コツンコツン」と少し動かすと、その該当部位に「コツンコツン」と響きます。

 

観えないラインは、実際は身体を駆け巡り、ちゃんと伝わっています。
 
概念を変えないと無理。
解剖書で観る身体構造は理解しておくこと。
施療ではそれを消す(笑)
消さないと、その部位は硬直します。
身体を観る時、骨や筋肉として観ても無理。
 
身体は水風船です。
触ったら、波紋が広がって、石がある所で止まります。
 
しかし、それに集中することなく、無視することなく(笑)
 
例えば、骨は硬いと思ったら硬いです。
圧を掛けて水が出れば良いですけど、出ない所は硬いんですね。
 
イメージは、高野豆腐(笑)
骨は水分を含んだ組織です。
3軸方向に圧を掛けて、水分が出ない、出にくい方向に問題があります。
 

例えば三角筋にある何本かのゴリゴリとした線維。

筋膜を包んでサーと撫でるだけ。
1秒で終わり(笑)
 
これは筋肉をイメージしていません。
筋膜と筋膜の間に隙間を作るだけ。
筋間中隔に隙間を作るだけ。
 

治療家は僧侶と医者の間にいる その2 心を診るってなんだ

治療家は僧侶と医者の間にいる。

なぜなら、「心と身体両方からアプローチするからだ」と書きました。

 

じゃあ、心を診るって何なんだろう。

 

人の話を聞く。

それだけでいいのかもしれないし、それだけじゃ不十分なのかもしれません。

 

励ます。

励まされたい人もいれば、励まされたくない人もいるかもしれません。

 

それは音楽に近いものなのかもしれない。

女性の声が聞きたい時もあれば、男性の声が聞きたい時もある。

また、歌声が聞きたい時もあれば、声が邪魔で、楽器からの音だけを聞きたい時もある。

 

混乱していると、でも、どういう音楽が聞きたいかわからなくなることがありませんか?

i-Tunesを立ち上げて、ランダムに音楽を流して行くと、どうも落ち着かないなと、どんどんスキップしていく。その行為がまた、集中力を削ぐのですが笑、ふとした時に、▶︎▶ボタンを押さずに音楽が流れていることがあります。

そして、私は、こんな音楽が聞きたかったのだと、ざわざわしていた心が落ち着きます。(このブログを書きながら、あれこれ考えていた時に、流れてきて心に落ちた音楽は DucktailsのPorch Projectorでした。)

それは、川から桃が流れてきた桃太郎の一節みたいに、音楽の大河から、自分が何かをつかみ取ったようでした。

 

これが心を診るということかも。

ふいに思います。

その人が悩んだり、苦しんだりしていると、何がどうだか冷静に自分を客観視できなくなってしまいます。

 

治療家のもてる財産の1つは、治療を通して得られた多くの患者さんの身体と心の人生を過去・現在・未来でもって知っていることだと思います。

上に書いた音楽の大河から、その時聞きたい音楽がふっと届くように、私の財産が、その時知りたい言葉を贈ることが出来るのかもしれません。

 

治療院には、身体に表出する症状を改善するために来院されます。

それが心の癖から来ていたら、心を診ないといけません。(その1に書いたように、心身一如ですから。)

その時、知りたい言葉を贈ることが出来れば、心は癖を修正出来るかもしれません。

(それを身体に置き換えると、「身体にその時受けたい刺激を贈ることが出来れば、身体は姿勢を修正出来るかもしれない」と言えるかもしれません。)

 

でも、身体の姿勢が元に戻るように、心も癖が戻ってしまう。

 その時に応じて、患者さんへ言葉を贈ることが出来れば。

 

そうありたいな。

 

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治療家は僧侶と医者の間にいる その1

私が初めて本格的に東洋医学の勉強をさせてもらったのは、鍼灸の学校に入る前に会社員をやっていた時です。

入学を夏に決め(会社には年末に言った記憶があるので、その頃は会社員を続けていました)、平日は東洋医学の辞書を片手に東洋医学の入門書を読んでいましたが、実践経験を積みたくて、私が鍼でお世話になった先生の師匠に当たる方を紹介していただきました。

 

考えてみたら、先生はよく自分の師匠を紹介してくれたなとつくづく思います。

時間の都合上、時々しか来れない一患者の私の願いに、応えていただいたことは感謝しかありません。

その師匠との出会いが、私の次の働き口につながっていくことを考えて行くと、今私が、イギリスという地で鍼業をしているのは、そこが全ての始まりでした。

縁というのは不思議なものです。

 

そのことは、機会があればいつか書くことにして、その師匠には今でも覚えている言葉をいただきましたが、タイトルに書いた「治療家は僧侶と医者の間にいる」はその1つです。

 

心身一如と言いますが、患者さんという方に対して、その2つに両方アプローチをして診る仕事は治療家以外に、もしかしたらいないのかもしれません。

つまり、僧侶や心理カウンセラー、精神科医はある症状に対して、心の側面からアプローチしますが、医者(ここでは、特に外科)はある症状に対して、身の側面からアプローチします。

 

ある患者さんがいました。

卵巣囊腫が酷く、何回も施術を受け、またそれにより身体に組織の癒着がひどくある方です。また、30代の方ですが、更年期の症状がかなりきつく、そのためホルモンセラピー(つまり、薬でホルモンを補う)で生理を誘発されておられました。

主訴は座っていられないほどの腰の灼熱感と痛み、及び、足の痛みです。

 

初めの3回ほど診るも、鍼やマッサージなど身の側面から私なりにアプローチしても全く効果がありませんでした。

あまりにも痛みが酷かったため、心からの救いを求めようと、懇意にしている、占いと言いますが、エネルギー等に敏感な方に電話で相談されたそうです。

そこで相談して、心はすっきりされたそうですが、痛みは改善されなかったそうです。

 

心でも医者の身でも、徒手という身でも駄目だった。

でも、一縷の望みをかけて、私を頼ってきてくれたいた中で、あの手この手のある一手が功を奏し、痛みが軽減していきました。

ちなみに、それはただただ、身体にある癒着を私の手の感覚でほぐしていくことでした。(鍼でもそこに着目してアプローチしましたが、駄目でした。あと、痛みに敏感すぎて私の鍼では痛みを誘発してしまっていました。)

感覚的に全然よい感触を得ていなかったにも関わらず、効果が出たことはただただ驚きです。

 

今回は、私の身に対するアプローチで今の所、痛みは改善されました。

患者さんが持つ、症状というのは本当に多岐に渡ります。

僧侶側によく来る症状を持つ患者さんも入れば、医者側によく来くる症状を持つ患者さんもいます。

治療家(徒手療法家のほうが正しいかもしれません)には、身体のコンディションで来られる方が大半かもしれませんが、ある痛みを患っておられる方が、実は心理的トラブルに因るものだったり、心の症状が身に端を発したものだったりもします(例:慢性的な痛みが鬱病を発する)。

 

一番多岐に渡る患者さんを診る機会に恵まれるのは、私は治療家だと思っています。

 

と、書いたところで、疑問に思ったことがあります。

「心を治療する」とはどういうことなのでしょうか。

私は心も診ているなんて、いい気になっていましたが、心を診るって何なのでしょうか。

 

立ち止まって、文が進みません。

続きは次回に。

 

 

 

 

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人に触れること 侵害刺激のない触診5

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懇親会も無事に終わり、2日目のセミナーへ。

基本的には1日目と同じ内容のものを1日かけてやりました。

侵害刺激のない触診に始まり、相手から放たれる気を感じ、その凹凸を調整し、そして頭蓋や内臓を調整する。

その長いステップへ向けての訓練です。

この日にとりわけ面白かったことを2つ。

1) 気は具体的なものとして確かに存在する。

あくまでも仮にですが、侵害刺激のない触診のステップを合格した私は、気の凹凸の調整の訓練を3人一組で練習していました。

そこで天の気と地の気を身体に通して患者さんに伝えようとしていましたが、なかなかうまく行きませんでした。

そもそも、どういう状態が気が通っていて、どういう状態が通っていないのかもわからりません。それを感じとれればうまくいくかもしれないと思い、先生に私の肩を触ってもらって、その状態を感じさせてもらいました。(実はハンターハンターという漫画でそれと全く同じシーンがあります。)

先生が私の肩に触れ、合図とともに気を送って下さる。

すると、私の手と患者さんの頭蓋の間には何もないはずなのに、その間に「気」としか呼べない何かの層を感じ取ることが出来るのです。

それは私の手の部分だけでなく、私の体全体がふわっと何かに包まれている感覚でした。

「患者さんに天と地の気を通す」とはこういうことを言うのか。。。

それは「目に見えない何か」ではなく、「見えている人には見えている何か」なのだということがはっきりわかり、精進次第では、それを体得できるのだという実感が湧きました。

それは私にとって大きな学びでした。

2) 呼吸のリズムは変えられる。

カイロプラクティックオステオパシーの世界では、呼吸には3種類あるとされています。一次呼吸、二次呼吸(ミッド・タイド)そして三次呼吸(ロング・タイド)。

一次呼吸は私たちが肺を動かして行ういわゆる「呼吸」というもので、三次に行くに従い、生命力の根源とされる呼吸に近づくとされます。(信じる信じないは別にして、そういうものが在ります。)

ちなみに私は、二次呼吸までは感じられますが、三次は感じる段階までまだきていません。

頭蓋や内臓はその二次呼吸の呼吸に基づいてリズムを形成しているとされ、施術家の基準となる指標になっています。

ところが、先生は二次呼吸のリズムを変えられると言うのです。

先生は蝶形骨と後頭骨の関節部を完璧に調整することでそのリズムを変えていました。

それは私にとって衝撃と言うか、異次元の世界の体験でした。

未だ私の中で考えはまとまっていませんが、二次呼吸を調整するとはどういうことなのかを考えるいい機会になったと思っています。

治療という尊く深遠な世界の一端を体験するいいセミナーに参加できた(その分自信は打ち砕かれましたが笑)ことに感謝しつつ、気持ち新たにがんばろうと思います。